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ジョナサン中将と誕生日
※無知識トリップ系主人公



 内臓が落ち着かない感覚に驚いて目をあけたら空から落ちているところだったという、夢のような現実が唐突に俺へと降りかかった。

「はあ!?」

 驚いて漏らした声すらすぐに遠ざかり、慌てて身を捩った先にあったのは青い水とそれをくるりと囲む不思議な形の島と、それから目を開いていられないほどの風圧。
 顔を両手で庇いながら視線を動かせば彼方へ続く水平線があって、わずかに嗅いだ潮の匂いに、自分が今海へと落下しているのだという事実を知った。
 それと同時に血の気が引いたのは、これだけ高い場所から叩きつけられる水面の硬さを考えたからだ。

「し、し……っ!」

 コンクリートへ叩きつけたトマトみたいになるんじゃないかと、そんな予想が脳裏に過って、思わず身を縮めた。
 強く目を閉じ、気休め程度に衝撃を小さくしようとしたところで、何かが空気を裂く音がする。
 ほとんど真横から体に衝撃があって、それの痛みに歯を食いしばる。真下へ落ちていた自分の体が横移動を加えられて、少し落下のスピードが軽減されたのが分かった。

『息を止めろ!』

 拡声器でも使ったみたいな大きな声が放った命令に、反射的に従う。
 同時に断続的に大きな水音が鳴って、体が水に触れた。
 思ったほどの痛さは無かったけど、それでもやっぱり衝撃が強くて、俺はそこで意識を失った。







 目が覚めた時、俺がいたのは医務室のような場所だった。
 何人かの看護師や医者がいて、大丈夫かと声を掛けながら俺の体の説明をしてくれる。
 ちらりと見えた腕には網目状の打撲痕があって、あの真横からの衝撃は、横から『網』を掛けられたからだと聞かされた。
 水に触れると膨らむ浮きがつけられたそれを横から掛けられたおかげで、気絶した俺はすぐに海から助け出されたらしい。
 骨には少しひびも入ったらしいけど、骨折もしていないし命が助かったのだから、ありがたいことだ。
 けれどもほっと安心できないのは、俺が目を醒ましてからと言うもの、部屋に怖い顔をした男の人が何人か常駐しているからだった。
 白い衝立で遮られているけど、ちらちらと見えるその人達がみんな隙間から俺を睨んでいくので、さすがに『俺』が見張られているというのもわかる。
 あんな怖い顔をした人達に出会うなんてことが無かったから、とても怖い。
 みんな海兵だという話だけど、たまにテレビで見る自衛隊とも恰好が違う。
 寝間着だった俺には身分証も無いけど、名乗って、勤務先の名前も住所も実家の電話番号もつたえたのに、親すら会いに来ないのもおかしな話だ。
 数日を寝たきりで過ごし、ここの支払いも気になるし、歩けるようになったら誰かに頼んで保険証を持ってきてもらわなくては、なんてことを考えていた頃に、俺のところへやってきた人がいた。

「そろそろまともに話せるようになったと聞いたんだが、今少し時間はいいかね」

「はあ……」

 ようやくベッドの上で体を起こせるようになった俺へ向けてそう言い放ったのは、俺より年上の男性だった。
 色味の薄い赤紫の髪で、それより濃い色の口ひげを生やしている。見た目は優しそうだけど、妙な迫力がある。
 白っぽい上下の服に赤っぽい革帯を斜めがけにしていて、ベッドの上からちらちらと見かけた『海兵さん』達より質素な見た目だった。
 だけど、その目つきと迫力に、この人は偉い人なんじゃないだろうか、という考えが過る。

「いっ」

「ああ、いい、いい。楽にしておきなさい」

 思わず背中を伸ばそうとして、ずきりと走った痛みに顔を顰めると、男の人がひらひらと手を左右に振った。
 その手がすぐそばにあった丸椅子を引き寄せて、どかりとそこへ座る。
 体の大きな人だなと思いながら、ありがとうございますと呟いて体から力を抜いた。
 俺の方をじっと見やって、多分偉いんだろうその人が少しばかり眉を下げる。

「私はジョナサン。G−8支部で指揮を執っている、海軍本部中将だ」

「かいぐん、ほんぶ」

 よく分からない単語を繰り返すと、俺のそれをどう解釈したのか、このナバロンに来て長いがね、と『ジョナサン』さんが笑った。
 どうやらここは、ナバロンと言う場所らしい。聞きなれないカタカナだ。どこの県だろう。
 戸惑う俺をよそに、網を掛けさせたのは私でね、と『ジョナサン』さんが言う。

「ちょうど訓練の途中だったもんでな、とっさに使えたのが能力者用の網だった。あれには海楼石がついてるし、簡単には切れないよう鉄線が仕込まれている。痛かったろう」

 よく分からない話のあとに、すまなかったと謝罪をされて、ぱちりと瞬く。
 俺の反応を気にすることなく、椅子に座った見舞い人が言葉を続けた。

「斜め下から当たるようにしたつもりだったが、速度の計算を誤ってタイミングを外してしまってな。砲撃のしぶきでどうにか勢いを殺せないかとも思ったんだが……結局怪我をさせてしまった。私の責任だ」

「あ、いえ、死ぬと思った……思いましたけど、助かりましたから」

 あのままだったら絶対に水面に叩きつけられて死んでいたと思うから、こうして命があるだけでもありがたい話だ。
 むしろとっさの判断で色々とやってくれたのだから、俺は相手へ向けて頭を下げた。

「助けてくれて、ありがとうございます」

 空から落ちる俺を見つけてくれただけでも幸運だ。
 そもそもどうして落ちているのかも分からないし、夢じゃないかと思うほどだが、この体の痛みがここが現実だと教えている。

「いや、礼はいらんよ。頭を上げてくれ」

 言葉を寄こされて顔を上げると、こちらをじっと見つめる目とかち合った。
 何かを探るような眼差しに、戸惑いつつもそれを見つめ返すと、『ジョナサン』さんが髭を揺らす。

「さて……まどろっこしい問いは無しとしよう、ナマエ」

 両足を下ろして、その膝の上に両手を乗せたままで告げた相手の雰囲気が、ひりついたものに変わる。
 怖さを伴ったそれに思わず身を引いても、ベッドから降りて歩くこともできない俺には逃げ場なんて存在しなかった。
 冷や汗が背中を濡らして、ぞわぞわとした感覚にシーツを握る。
 俺を見つめたままの『ジョナサン』さんが、そうして口を開いた。

「お前さん、どこからやってきた?」

 この海軍要塞ナバロンに、何の目的で?
 紡がれた言葉へ対する答えなんて、俺は持っていなかった。







 俺は、ただ家で寝ていただけだった。
 着ていたのだっていつもの寝間着で、他には荷物の一つもない。
 体が癒えるまでの間、ひたすらただの普通の日本人ですと口頭だけで主張して、俺がそこで知った事実は、ここがどうやら『異世界』だということだった。
 この海には『日本』がない。
 日本語が通じたんだから日本だと思っていたのに、そうじゃなかった。
 電子機器のいくつかを大きなカタツムリが担っていて、見せて貰った世界地図もまるで違って、見たことのないものばかりだ。
 意味不明な状況に呆然とした俺に、ジョナサンさんは俺のことを信じてくれたらしい。
 怪しすぎると部下の人が声を上げたし、俺だってそちら側の立場だったらそう思う。持ち物が無いということは、証拠もないということなのだ。
 けれどもジョナサンさんは、大丈夫だ、と言い放った。

「何度か確かめたが、ナマエの話す内容は一貫している。この海に我々すらも知らぬ場所があるというのも、これまた今更のことだ」

「ですが! 以前の件もあります!」

「以前の件があるからこそ、空からの侵入も即座に感知できただろう。お前達、ナマエ以外の『侵入者』を見逃したか?」

 こぶしを握る部下の人へ言葉を重ねたジョナサンさんに、部下の人がぐっと口を引き結ぶ。
 やがて絞り出された『いいえ』の声に、そうだろう、とジョナサンさんが笑顔で頷いた。

「まあそれでも、皆の疑念も分かる。そこでだドレイク少佐、ナマエは私の預かりとしよう」

「中将!」

「偉大なる航路の不思議に巻き込まれただけの哀れな民間人であるならば、牢に入れるのは不適切だと思わんかね?」

 そこまで言って、ちらりとこちらを見たジョナサンさんが、ぱちりと片目を瞑る。
 寄こされたウィンクに面食らった俺をよそに、まあもちろん、と彼は言った。

「ナマエの気持ち次第ではあるが」

「え、ええと……」

「ジェシカも連れて来いと言っていてな。どうだナマエ、うちのジェシカの料理はうまいぞ」

 にっこり笑ったその顔に、数日前に医務室で見た威圧感はない。
 きっとただの好意からの申し出だ。
 そう考えると、そこに飛びつくのが一番である気がした。
 だってここは、俺の常識とはまるで違う世界だ。
 戸籍も無ければ居場所も無くて、そもそも生きていくすべもない。
 どうにか帰れるまでは、生きていなくてはならない。

「よ……よろしく、お願いします……!」

 相手を窺いながら、けれどもしっかりと言い放った俺に、ジョナサンさんが『ドレイク』と呼んだ部下の人がぎろりとこちらを睨みつけてくる。
 そのすぐそばに佇むジョナサンさんは、こちらこそ、と答えてにっこり微笑んでいた。







 そうして俺は、この海軍支部の一番えらいひとの家に厄介になることになった。
 ジェシカさんと言う奥さんはとても美人で、確かにジョナサンさんの言っていた通り料理がすごい。支部では料理長もやっている、本職の人だった。
 俺はと言えば、数日はただ家に厄介になっているだけだったけど、さすがに申し訳なさ過ぎて仕事を探すようになった。
 斡旋してもらったから図々しい話だけど、清掃やら荷運びやら、人が多い分色んな仕事があるらしい。
 一つを専門的にではなく、いくつかを人手が必要な時に手伝うようにして、毎日を過ごす。

「ふう……」

 今日は清掃の仕事を手伝っていて、俺の割り当てられた作業は窓ふきだった。
 海の傍だからか、窓ガラスはすっかり潮で汚れている。
 丁寧に磨いて綺麗にしたガラスを見やり、内側を拭くために窓を開きながら、ふと真上へ視線を動かした。
 見上げた空は澄み渡っていて、俺が落ちてきたのがどこからなのかも分からない。
 いつかは帰れるだろうと思っているのに、未だに帰る方法は見つからないままだ。
 数日どころか気付けば半年近く経っていて、その事実が胃を重くする。

「……俺、帰っても仕事も無いんじゃないかな……」

 社会的な地位を失っていそうだ。
 家賃や生活費の滞納や、連帯保証人になってくれていた親への迷惑を考えるととても怖い。クレジットの支払いはどうなっているだろう。
 せめて連絡でも取れたらと思うけど、カタツムリで試してみても、当然ながら俺の家には電話もつながらなかった。
 失踪届って何年で死亡扱いになるんだっけとか、そんなことを考えつつそっと空から目を逸らす。

「せいが出るな」

 屈みこんでバケツに手を入れたところで、そんな風に声が掛けられた。
 それを受けて顔を上げると、俺が開いたばかりの窓から、こちらを覗き込む相手がいる。

「ジョナサンさん」

 俺を自分の家へと引き取ってくれた海軍中将が、俺の声ににかりと笑った。
 その顔を見上げて、あれ、と首を傾げる。

「ジョナサンさんの執務室って、二つ上じゃなかったですか」

「散歩をしていたら、たまたま窓掃除をしているナマエを見つけたもんでね」

 声を掛けに来たと言い放つ相手に、他意はなさそうだ。
 そうなんですかと相槌を打って立ち上がった俺は、そのままひょいと窓枠に足を掛けた。
 窓ガラスの一番高い所へ手を伸ばしながら拭いていると、傍らからそれを見やったジョナサンさんがふむ、と声を漏らす。

「今日くらいは休んでも良かったんじゃあないか?」

 せっかくの誕生日だろう、と紡がれた言葉に、窓ガラスを拭く手が少しだけ止まった。
 今日は、〇月◇日だ。
 それはつまり、俺の誕生日だった。
 最初の頃の質問、今思えば尋問だったんだろうそれに答えたことだから、ジョナサンさんもそれを知っている。
 知っていても覚えているなんて予想外だったが、朝一番に『おめでとう』を言われてしまった。
 『ありがとうございます』を返すまでに間を置いてしまったのは、時間が経ったという事実に血の気が引いたからだ。
 見知らぬ場所だったこの土地で、誕生日を迎えたという事実が恐ろしい。
 そうやって年を取っていって、いくつになっても帰れなかったら、どうしよう。
 何かをするべきなのか、どこかへ行くべきなのか。
 考えても答えなんて出ないままで、それらを振り払うように頑張ったから、今日はあちこちの窓ガラスがピカピカだ。

「ジェシカが、今日は残業をしないで帰れと言っていただろう。きっとケーキがあるぞ」

「そこまでしてもらう年じゃないんですが……」

「そう言わないでくれ、いくつになっても誕生日は祝っていいもんだ」

 そうじゃないと私まで祝ってもらえなくなってしまう、とおどけたジョナサンさんに、それはすみません、と軽く謝る。
 そうしながら、止まってしまった手を再度動かし始めると、やれやれ、とジョナサンさんが言葉を零した。

「私だったら、休暇を取って釣りに行くがなァ」

「ジョナサンさんは釣りが好きですもんね」

「そうだな、魚との駆け引きもなかなかに楽しいものだ。今度ナマエもやってみると良い、無心になれるぞ」

 のんびりと言い放つ相手に、今度試してみますね、と答えながら手を動かし続ける。
 丁寧に、しっかりとガラスを磨いている俺の体に、ジョナサンさんの視線が刺さるのを感じる。
 それでもあえてそちらを見ないでいると、ふう、と傍らの相手がため息を零した。

「ナマエは働き者だ」

「そうでもないと思います」

「いや、他からも『しっかり働いてくれている』と報告を貰っているからな。もっと自負していい」

 そんな風に言われて、少しばかり眉を寄せる。
 それでも、手は止めることなく動かしていると、目の前の窓ガラスがどんどん綺麗になっていく。

「だから、仕事はいくらでも見つかると思えばいいんじゃァないかね」

 きゅ、と音を立てたガラスに手を止めたところで、ジョナサンさんがそう言った。
 手を下ろしてそちらを見やると、窓枠に背中を預けたジョナサンさんが腕を組み、体ごとこちらを向いている。
 見上げてくる視線を受け止めて、どういう意味ですか、と俺は尋ねた。
 それを聞いて、目の前の海軍中将殿が肩を竦める。

「急に行方をくらませては、周りには確かに迷惑が掛かっていることだろう。話を聞くに、ナマエの住んでいた島は随分と管理の行き届いた場所であるようだからな」

「……言わないでくださいよ、お腹が痛くなるので」

 俺の中の不安をしっかり言葉にされて、片手をそっと自分の腹のあたりに当てる。
 そりゃすまん、とあっさりと謝罪を寄こしたジョナサンさんは、だがな、と言葉を続けた。

「何がどうあれ、死んだわけじゃない。命があるんだ、帰っても君ならどうにか出来ると、私は信じている」

 そうだろうと言い放ち、ジョナサンさんはにかりと笑った。
 優しげにも見える明るいそれに、無責任なことを言われた気がした。
 けれども、それに不快感を抱かなかったのは、『信じている』なんてことを、あっさりと言われたからだろうか。
 初対面の時はあんなに怖かったのに、この人はその恐ろしさをあれから俺に見せたことがない。
 この大きな場所の責任者らしく、ジョナサンさんは思慮深い人だというのが、一緒に過ごしてからの俺の印象だった。
 強くて、怖くて、だけども部下に慕われているその通り、いい人だ。
 そんな人に『信じている』と言われるのは、少しだけくすぐったい。
 この人が言うならそうなのかもしれないと、そんなことをほんの少しでも考えてしまうのはきっと、俺が単純だからだろう。
 わずかに緩みかけた口元を引き締めて、窓ガラスへと向き直る。

「…………ジョナサンさんは、すぐに人を信じすぎだと思います」

「ん? そうか?」

 背中越しに言葉を放った俺へ対して、そう言ったジョナサンさんは、まだ笑っているようだった。



end


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