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貴方の見た世界
※ちょっとシャボン・バブリーサンゴについて捏造



「ナマエ、おるか?」

 ひょいと共有スペースに顔を覗かせた相手に声を掛けられて、ナマエはすぐさま顔を上げた。
 声を掛けてきた相手は、この船で頂点に立つ王下七武海だ。
 今は暇かと問われて、はいと返事をしたナマエの手が本を閉じる。
 いい加減読み書きができるようになった方がいいだろうと言われてにらめっこをしていたが、暇じゃないと答えるほど身が入っているわけでも無かった。
 ナマエの様子に、そうか? と首を傾げてから、けれども気を取り直したようにジンベエが言葉を紡ぐ。

「濡れていい恰好に着替えてから、甲板に来てくれんか」

「濡れていい恰好?」

 よく分からない指定に、ナマエは首を傾げた。
 けれどもそうだと頷いたジンベエがさっさと通路に顔を引っ込めて行ってしまったので、よく分からないまま自分の恰好を見下ろす。
 少しだけ考えてから、ナマエはそのままの格好で立ち上がり、とりあえず本を片付けてからすぐにジンベエの後を追いかけた。

「ジンベエさん!」

 通路の奥を甲板へ向かって歩いていく相手へ声を掛けながら、飛びつく勢いで床を蹴る。
 ナマエの小さな体が後ろから勢いよくぶつかったところで痛くもかゆくもないのか、歩みを緩めただけのジンベエは前のめりになることもなく、しがみ付いたナマエをちらりと見下ろした。

「なんじゃ、着替えんかったのか」

「うん、この恰好で大丈夫」

 寄越された言葉に頷いて、宙に浮いた足を床へつけたナマエが、歩くジンベエにしがみ付いたままで足を動かす。
 歩きにくいだろうに、ジンベエはしがみついたままのナマエに何も言わない。
 それどころか、水かきの張ったその手がぽんとナマエの頭を宥めるように掴んで撫でたので、それが嬉しくなったナマエの顔はだらしなく緩んだ。
 ナマエがこの世界に落ちてすぐ出会った海賊は、今ナマエが抱き付いているこの魚人だった。
 ナマエだったら信じられないような話をしたのに信じてくれて、海軍に行くのは嫌だと訳の分からないわがままを言ったナマエをこうして船に乗せてくれている。
 『イセカイ』へ帰してやろうとあちこちから資料を取り寄せたり船を向かわせてくれる彼は、随分と優しい。
 いつかは一緒にいられなくなると考えたら、ものすごく寂しくなるくらいに。
 そっと体を離して、船から降りた時のようにその服の端を掴んだまま隣に並ぶと、ジンベエの手がひょいとナマエから離された。
 それを追いかけるようにジンベエを見上げてから、ナマエは尋ねる。

「でも、何かするの?」

 わざわざ濡れていい恰好と言うくらいだから、甲板に出て濡れるようなことをするということだろう。
 何をするのかと不思議そうなナマエに、前に言っておったじゃろう、と笑ったジンベエが言葉を続けた。

「海に入ってみたいと」

「え? あ、うん」

 言われた言葉に、ナマエは素直に頷く。
 けれどもその時、『危ないからどこかの島についた時にでも』という話にまで続けたはずだ。
 海の中を自在に泳げるジンベエ達はともかくとして、ナマエは本当に普通の人間で、水中で素早く泳ぐこともできなければ呼吸をすることもできない。
 それでは海王類の餌になるだけだしと笑ったナマエを、ジンベエは否定しなかった。
 だというのにどうしたんだろうと不思議そうな顔をしたナマエを連れて甲板へ出たジンベエが、懐から取り出したものをナマエの顔に着けさせる。
 それはどう考えてもゴーグルで、されるがままになったナマエがえ、と声を漏らしたところで、ひょいとナマエの体を肩口に担ぎ上げる。

「うわっ」

「ほれ、行くぞ」

 戸惑った声を零したナマエを連れて、ジンベエはそのまま甲板から海の方へと飛び込んだ。
 ばしゃんと音を立てて海水に入り、驚いた顔のまま息を止めたナマエの体を背中に乗せて、ジンベエが海面に顔を出して泳ぎ始める。
 慌ててその背中に捕まって、振り落とされまいとナマエは体を前傾にした。

「ぶは、ちょ、ジンベエさん、はやいはやい!」

「当たり前じゃ、わしを誰だと思っとる」

 ざばざばと水を掻いて海原を泳ぐジンベエの自慢げな声に、ジンベエさんだけど! と言葉を漏らして、ナマエはびしゃびしゃに濡れた顔を軽く拭った。
 そうしてから、全身ずぶ濡れのまま、ふと視界の端に澄んだ青を見つけて体の動きを止める。

「……うわ……っ!」

 思わず感嘆の声を漏らして、ナマエは先ほど勝手に装備させられたゴーグル越しにその青を見つめた。
 危険にあふれたグランドラインの海原が、それを感じさせないくらいに青く澄み渡り、果てしなく続くその色に太陽の光を反射させてきらきらと輝いている。
 ジンベエの掻いた泡が白く帯を作って消えていくのを見やり、潮風を体に受けながらナマエは楽しげに笑った。
 ジンベエの背中に乗ったまま軽く足を伸ばしてみれば、その足先が海水に触れて濡れる。
 少し負荷が掛かったのか、ジンベエの泳ぎ方が少しばかり変わったが、注意するでもなく寄越された言葉は、どうじゃ、と言う端的な問いかけだった。

「うん、すごくきもちいい!」

 濡れたままでそう言えば、そうか、と呟いたジンベエは少しばかり満足そうだ。
 それから、その体が先ほどより少し海面から出て、あれ、とバランスを崩しかけたナマエの腕を海を掻いていた筈のジンベエの手が掴む。

「え」

 驚き声を漏らした間に、ぐるりと体の向きを変えたジンベエに引きずられて、ナマエはもう一度海の中へと引きずり込まれた。
 驚きながらもとりあえず息を止めて、ナマエは目の前の体に縋り付く。
 ジンベエの手はまだナマエの腕を掴んでいるが、その力は弱く、振り払って泳げば海面へ向かうことも出来そうだった。
 けれども、そんなことは考えずに両手で沈み行くジンベエの体に捕まって、同じように沈むナマエに、海の中で向かい合ったジンベエが呆れたように笑う。
 それからその手が懐からごろりと大きい何かを取り出して、ぐっとその手がその何かを押した途端にぶわりとナマエの体を酸素が包み込んだ。

「げほっ、げほ、え、わ、何?」

 唐突なそれに急き込んで、ナマエはその視線をジンベエの体の上に置かれたものに視線を移す。
 ぶしゅうと音を立てて空気を吐き出しているそれは、ごつごつとした石だった。
 ジンベエの拳ほどの大きさのものが、ナマエの周囲を覆うように酸素を吐き出して、そのまま細かくちぎれて海の中へ溶けていっている。
 消えゆく泡を追いかけたナマエは、海面にある船の底を見上げてから、すぐに視線をジンベエへ戻した。

「えっと……バ、バブリーサンゴ?」

 よく分からないがそれかと思って呟いたナマエの声はどうやらジンベエに届いたらしく、空気を隔てた向こう側のジンベエが少し驚いたような顔をした。
 それから頷いて、その右手がナマエにそのサンゴを掴ませて出っ張りを抑えさせる。
 その上でナマエの体を自分の腹の上に乗せるようにして掴んだまま、もう左手がナマエから見て右側を指差した。

「あっち?」

 寄越された指示に従って、ナマエもそちらを見やる。
 そうしてそこにあった光景に、ナマエは思わず息を飲んだ。
 遠くまで見渡せるような、青い世界が広がっていた。
 何重もの青を重ねたような澄み渡ったそこへ、海面から光が降り注いで、照らされた海底で色とりどりのサンゴらしき大きな岩がひしめいている。
 間を泳ぐ魚たちの鱗がちかちかと反射して、どこかから人魚が顔を出しても違和感が無さそうなほどに幻想的な光景だった。

「……〜……すげ……っ!」

 思わず呟いたナマエを連れて、ジンベエの足がそちらへ向かって水を蹴る。
 空気を放出し続けるサンゴを抱えて、ナマエを自分の体の上に乗せているというのに、ジンベエの身動きには不便そうなところなど何もなかった。
 そのことに笑顔を浮かべたナマエの、サンゴに触れていない手がゴーグルを額に押し上げて、そのまましっかりとジンベエの服を握りしめる。
 あまり人が泳いでくることも無いからか、物珍しげに近寄ってきた魚たちが空気の向こうでナマエの周りに軽くまとわりついて、それからすぐに逃げて行った。
 餌でも持ってきたらもっと一緒にいたかなあ、とそれを見送ってから、ふと視線を感じたナマエが目を向ければ、自分を見ているジンベエの視線へと行き着く。

「? ジンベエさん?」

 どうかしたのか、と尋ねては見るものの、空気を隔てた向こうでジンベエが軽く口を動かしても、ナマエにそれは聞こえない。
 不思議そうに首を傾げたナマエへ、笑ったジンベエが下を指差した。
 だからそれに従って、ナマエは真下になったサンゴや魚の群れを鑑賞する。
 そのまましばらく美しい海底を見下ろしながら海水の中を散策して、ナマエがジンベエとともに海面に浮上したのは、バブリーサンゴがぶしゅうと小さく音を立てて空気を吐き出せなくなってからだった。
 それに気付いたジンベエがすぐさま身を翻し、ナマエを抱きかかえて浮上したので、ナマエは殆ど苦しむことなく海面へ顔を出すことが出来て、ぶは、と軽く息を吐いてから濡れた手で顔をこすって、それから笑顔でジンベエを見上げる。

「ジンベエさん、すごいあれ、すげェきれいだった!」

「うむ、楽しんでくれたんなら何よりじゃ」

 笑ったナマエへ満足そうに笑ったジンベエが言葉を放ち、両脇の下に手を入れられて足を水中に放置しているナマエを、ひょいともう一度背負った。
 それから船へ向けてゆっくり水を掻いたジンベエの背中で、額にゴーグルを押し上げたままのナマエが、その片手に持っていたバブリーサンゴを見下ろす。
 ナマエが知っているそれより、随分大きく見えるものだ。
 船のどこかに置いてあったのだろうかと少しばかり考えてみたが、ナマエはすぐにその考えを否定した。
 ナマエが乗っている海賊船のクルーは、魚人ばかりだ。
 海の中を自在に泳いで過ごすことのできる彼らに、シャボンを生むこのサンゴは必要ない。
 だとすれば、ジンベエがこれを持っているのは、ただ一人同じようにできない人間の子供のために他ならない。
 もしや取り寄せたのだろうかと考えたナマエの顔が、ほんの少しばかり赤くなってへらりと緩む。
 背中に乗せているせいでナマエの表情に気付かないジンベエが、水を掻きながらふと言葉を零した。

「それにしても、ナマエ、無抵抗はいかん」

「え?」

「海に引きずり込まれたら抵抗せんと、人間のお前さんでは死んでしまうぞ」

 注意するようなその言葉に、ナマエは首を傾げる。
 それから、そういえば海へ引きずり込まれた時、しがみ付いたナマエへジンベエが呆れたように笑ったことを思い出した。
 もしかしたらジンベエは、ナマエが抵抗することを想定していたのかもしれない。
 だったら事前に説明してくれるべきだよと背中で笑ってから、ナマエは答えた。

「それじゃあ、ジンベエさん以外にされたらそうする」

 ナマエを今背中に乗せてくれているこの魚人が、ナマエに危害を加えないことをナマエは知っていた。
 ナマエを拾って保護してくれているこの海賊は、随分と優しい魚人なのだ。
 いつか元の世界に帰らなくてはいけないと分かっていても、それまではずっと一緒にいたいと、ナマエがそう思うくらいには。
 頼りになる背中に乗せられたまま、濡れた体に風を受けたナマエが、どんどん近づいてくる船を見やる。
 海面から顔を出している船体は、大柄なクルーも多いためか結構な大きさで、年季の入ったその姿は恰好いいの一言に尽きた。
 あれを、先ほどは海中から見上げたのだ。
 美しい海底も、随分と間近だった。
 普通に過ごしていたら中々見ることのできない光景を思い出して、ナマエの口からため息が漏れる。

「ジンベエさん」

「なんじゃ」

「ジンベエさん達が見てるところって、すごく綺麗なんだな」

 あれを自在に見ることが出来るのが羨ましいと笑って、抱き付く代わりにナマエの両手がジンベエの服をそっと掴む。
 見せてくれてありがとう、と呟いたずぶ濡れの少年の声は、泳ぐ速度を上げたジンベエの耳には届かなかったようだった。
 


end


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