- ナノ -
TOP小説メモレス

淀みの淵
※主人公は一般人で『見える』
※ホラー、グロテスクな表現ありにつき注意
※サカズキさんに対するねつ造



 小さな頃は、『どうしてみんな見えないんだろう』と思っていた。
 自分が見えているそれは幻覚なんじゃないかと、そんな疑いを持ったことだって何度もある。
 ただ、それらが零す恨みの中には俺の知らないことも多くあって、そしてそれは全部実際にあった物事だったから、幻覚だと思い込むことは諦めた。
 俺には幽霊が見える。
 他の人には見えない。
 大きくなってからは、もしかしたらどこかに『同じ』人間がいるんじゃないかと考えたりもしたが、いまだにそれらには出会ったことがない。
 そして今は、できれば『同じ』人間なんていなければいいな、とも思っている。

「……コーヒー」

「はい、かしこまりました」

 寄越された言葉に一礼して、受け付けたオーダーをそのまま店長に伝えに行った。
 『お得意様』の注文はすぐに用意されて、受け取ったトレイの上に視線を落とす。
 白い陶器の内側に満たされた黒い液体からは、心を落ち着かせる匂いがした。
 ミルクも砂糖も無いのは、『お得意様』がブラックで飲むことが店の常識だからだ。
 マリンフォードと呼ばれる島の町はずれ、角に作られた一角で営まれている小さな喫茶店の端の席に座った相手へ向き直り、俺はご注文の品をそちらへと運んだ。

「お待たせしました」

 言葉をこぼしながらコーヒーをテーブルへと置いて、そこに座る相手を見やる。
 そこで俺の視界に入ったのは、顔の半分が無くなった『元』人間の姿だった。
 だらりと開いた口からは舌がこぼれ、低くさざめくような呪詛がそこから漏れて落ちる。
 体中から黒い何かをしみ出させたその存在は、すぐ傍らの大きなものにしがみついていた。
 同じように体のあちこちを欠けさせた『元』人間達が、俺のすぐ目の前に折り重なるようにして山を作っている。
 全身がほとんど炭のように焦げてしまった姿もあり、きっと焼死体だったんだろうなとはなんとなく思った。
 こんな塊が街中にあったなら、周囲の人間が騒然とすることは間違いない。マリンフォードと呼ばれる島は治安が良くて、こんな恐ろしい存在が日常にあっていい場所じゃなかった。
 それでも、店長もほかに数人いる客も誰もそれを見ても騒がないのは、そこにある『塊』が、俺にしか見えないものだからだ。
 そしてこれを見るたび、『俺と同じ人間』がいなくてよかったなあ、と少しだけ思う。
 いろいろなものを見ていた俺だって、慣れるまでに四回かかった。こんなものが見えたら可哀想だ。

「……なんじゃァ」

 見やった先から声が漏れて、塊がわずかにうごめいた。
 ぶしつけに見つめてしまったと気付いて、申し訳ありません、と言葉を零す。
 声の主は塊の隙間から腕を出して、陶器に大きなその手を触れた。
 コーヒーを楽しむ邪魔をしては悪いので、片手にトレイを持ったままその場から離れる。
 ちょうど帰る客がいたので会計を済ませ、客が使った食器を下げながらちらりと視線を向けた先で、コーヒーを飲んだ『お得意様』はがさりと新聞を広げたところだった。
 俺があの『お得意様』について知っていることは、本当に少しだ。
 白いコートは海軍のものだから、恐らく海軍将校だろう。
 黒い手袋をしていて、まるで煮え滾るように赤いスーツを着ている。
 肩口は隠れてしまって見えないから分からないが、わずかに感じる雰囲気からしても、そこいらを歩いているような海兵ではないに違いない。何よりこれだけ連れて歩いているのだ、きっと前線に立つ人間だろう。
 月曜日と木曜日、きっちりとこの時間に店へとやってきてコーヒーを飲み、新聞を読んで帰っていく。
 その様子からして生真面目なんだろうとは思うが、わざわざ店の客に『こんにちは俺はナマエです、貴方は?』と聞いて回るわけにもいかないので、名前だって知らなかった。店長だって、いくら『お得意様』でも客の名前をそれぞれ知っているなんてことはないだろう。
 食器を片付け、手持無沙汰になった俺に気付いた店長が、座っていろと声を掛けてきた。
 その手が少ないコーヒーを淹れたカップを出してきたので、ありがたく受け取る。夜から今の時間まで働いていたので、そろそろ少し眠気が出てきたところだ。
 あの『お得意様』が帰ったら、俺も上がりの時間になる。
 うっかりとお客様を時報代わりに使ってしまっているが、まあ口に出したことは無いので大丈夫だろう。
 受け取ったコーヒーに軽く息を吹きかけて、俺はそれへ口を付けた。
 今まで飲んだどのコーヒーよりもうまく感じられるそれをそっと飲み込んで、ほっと息を吐く。
 そうしてそれから、座ったままでちらりと店内の一番端を見やった。
 いまだに『お得意様』は、新聞を広げてそれを読んでいる。
 規則的に捲られていくので、読み終わるまであと十分と少しと言ったところだろうか。
 相変わらず、恐ろしい姿の『元』人間たちがそこに折り重なり、恨みを零してしがみつく合間から伸びて動く手だけが異様だ。
 もはや見慣れてしまった光景を眺めて、ぽつりと呟いた。

「…………どんな顔なんだろ」

 空想してみるが、情報がなさ過ぎてまるで構築できない。
 だってあの『お得意様』は、ちらちらと覗く腕や体以外のほとんどが、ああやって覆われているのだ。
 重たくないんだろうかと考えはするが、『見えない』ものの『重さ』だけを感じることができるわけもないだろう。
 見てみたいな、となんとなく思いながら視線を手元へと落として、コーヒーカップの中身を見る。
 黒いコーヒーにはわずかに俺の顔が映り込んでいるが、照明が柔らかすぎてあまりきれいには映っていなかった。
 軽く息を吐き、自分の顔が映ったコーヒーをさっさと飲み干す。
 真っ黒で真っ赤で呪いの言葉まみれのいろいろなものに隠れた『お得意様』が、その目でどこを見ているのかだって俺は知らない。



end


戻る | 小説ページTOPへ