納涼
※主人公は白ひげクルーで『見える』
※軽めにホラー表現あり
肌に生温い空気が張り付くような夜だった。
真夜中、ふとした拍子に目を醒ましたサッチは、暗闇に慣れた目で天井をぼんやりと見つめてから、二度、三度と瞬きをした。
「……あっちィ」
うんざりと声を漏らして、その体がゆっくりと起き上がる。
夏島の近海で、船番の組に振られたサッチの体は当然ながらモビーディック号の中の一室にある。
共同部屋ほどではないにしても、窓もない部屋は生暖かく、片手で触れたシーツが不快なほどに湿っていた。
酒に任せて眠ったつもりだったが、どうやら酔いが足りなかったらしい。
わずかに乾いた口を動かしてあくびを零し、その足がベッドを降りる。
片手でセットもしていない髪をかき上げ、片手で上着をたくし上げるようにして腹を掻いたサッチは、水分を求めてふらりと歩き出した。
途中で空の酒瓶を蹴とばしたが、ころりと転がったそれは放っておいて、そのまま部屋を出る。
あまり広くはない通路には最小限の明かりが置かれているが、どうにもまだまだ暗い。
まだ夜が明けるにも早い時間なのだと把握して、サッチの口からはため息が漏れた。
水でも飲んで、あとは甲板にでも出て涼んでいることにした方がよさそうだ。
皮膚が焦げそうな太陽が昇る前なら、風がある分涼しいだろう。
そんな風に考えて、その足がゆっくりと薄暗い通路を歩く。
サンダルも履きそこねた足はペタペタと通路を擦り、木目のわずかな冷たさと船体全体の生暖かさをサッチへと伝えていた。
慣れた道のりを歩いてしばらく、ふと抱いた違和感に、サッチの足が動きを止める。
「……ん?」
思わず声を漏らして首を傾げ、それからサッチは歩みを再開させた。
ぺたぺたと続くサッチの足音に、似たような音が重なる。
それはまるで誰かの足音で、困惑しながらぴたりと動きを止めたサッチは、自分が踏みとどまった後に一歩を刻んだ物音に、くるりと後ろを振り向いた。
しかし、まっすぐに伸びた薄暗い通路の中に、サッチの後ろを歩く『誰か』の姿はない。
「……んー?」
声を漏らし、もう一度首を傾げたサッチの顔が、正面へと戻される。
そしてその場から歩みだせば、数拍を置いて、また足音が重なった。
ぺたぺた。ぺたぺた。
わずかに大きくなりつつあるその音に、サッチはすぐにまたその場で足を止めて振り返る。
けれどもやはり、サッチが歩いてきた通路には人影の一つもないのだ。
「…………」
じわ、と何か嫌なものが背中を這ったような気がして、サッチは眉間にしわを寄せた。
まだ酒が残っているのか、とも思うが、こんな幻聴など今まで聞いたことがない。
少し考えて神経をとがらせてみるが、物陰すらない通路に誰かが潜んでいるという気配は感じられなかった。
ただ、通路を照らす灯りが最小限であるせいで、彼方は闇に飲まれて見えなくなっている。
しばらく息を詰めて通路を見つめていたサッチは、しかしやはりそこには『何も』いないと判断して、大きく息を吐いた。
「……なんだってんだよ、全く」
ただの幻聴だとしたら、何とも間抜けな姿だ。
さっさと水を飲んで甲板へ出よう、と判断してくるりと振り向いたところで目の前にあった顔に、サッチの目が見開かれる。
「んなっ」
「おっと」
思わず声を上げかけたサッチの口を片手でふさいだのは、いつの間にかサッチの正面に佇んでいたナマエだった。
どことなく冷えた指がサッチの頬に触れて、サッチの目がぱちぱちと瞬きをする。
それを見やり、こんな時間に大声出すなよ、と笑ったナマエのもう片方の手が、その唇の端に人差し指を添えた。
「何してんだ、サッチ」
そうして問いながら、サッチの口元から離れた手が、ぽんぽんと軽くサッチの肩を叩く。
力が入っていると指摘してくるようなそれに強張っていた体から力を抜いて、水飲みに行くんだよ、とサッチはそちらへ答えた。
「暑くて寝れやしねェし」
「あー、なるほど」
夏島だもんな、と相槌を打ってくる目の前の男は、サッチと同じく四番隊のクルーだ。
わずかに汗のにじんでいるサッチとは違い、すっきりと涼しそうな顔をしている相手に気付いて、サッチの手が相手へ伸びる。
触れた相手の体はひやりと冷えていて、そのことにサッチは目を丸くした。
「何だお前、海にでも入ってきたのか?」
冷たくて気持ちいいなとぺたぺたとその体に触ると、お前の手が熱いんだよと笑ったナマエがサッチの手を捕まえる。
その指すら冷たく、ひんやりとしたそれにサッチはそっと息を吐いた。
「暑そうだなあ、サッチ」
「おう……おれも海に入ってくっかな」
「こんな時間にか? 危ないだろ」
まだ日も出てないぞと笑ったナマエがサッチの隣に並んで、ぽん、とサッチの背中を叩いた。
歩き出すことを促すそれにサッチの足が動き出し、ナマエもそれに続いて歩く。
「お前だって泳いできたんだろ?」
「泳いでないって、俺はちょっと人より暑さに強いだけだから」
涼しい場所も知ってるし、と呟くナマエに、サッチの瞳がきらりと光る。
『涼しい場所』とはまた、随分と素晴らしく魅力的な響きである。
「どこだよ。教えてくれ」
「うん? いいけど」
歩きながら言葉を放ったサッチに、ナマエはそう言いながらちらりとどうしてか後ろを見やった。
それにつられてサッチも後方を見やるが、そこには先ほどと同じく通路があるだけだ。当然、こんな時間のそこには誰もいない。
「おい、ナマエ?」
どうしたんだ、と視線を傍へ戻して問いかけると、ナマエの視線がサッチへと向けられる。
「あんなに熱烈に見つめ合ってたし、涼しくはしてもらえると思うけど」
「は?」
「涼しいからって寝ちまうと、怖い夢みるかもなァ」
どうする? と問いかけて笑うナマエの言葉は、サッチには意味不明だ。
眉を寄せ、何の話だよと呟いてから、サッチは不満そうに口を尖らせた。
「海賊が『怖い夢』ごときでビビるかよ。そこに行って、寝てやろうじゃねェか」
「起きてればいいのに」
「いーや。寝てやる」
年も近い相手に『子供』のような扱いをされた事実が気に入らず、サッチはそう主張した。
そうして『連れて行け』と言葉を続ければ、仕方なさそうに肩を竦めたナマエが、サッチの傍らで軽く頷く。
「それじゃあちゃんと水も飲んでからな。汗かいてるし」
「おう」
放たれた言葉に頷いて、サッチはナマエと共に食堂へと向かった。
その後に連れて行かれた船倉の一室はどうしてかとてもひんやりとしていたが、うつらうつらとするたびに恐ろしい何かに追いかけられる夢を見て、覚醒するたびに冷や汗で全身がびっしょりと濡れてしまっていた。
「大丈夫か? サッチ。やっぱり戻るか」
「……いかねェ」
サッチの横でただ座っているだけのナマエの様子にはまるで変化が無く、いつもと同じ顔で気遣うような言葉を寄越されてそれに反発してしまったのは、傍らの男にだけは『ガキ』扱いされたくないというサッチの矜持によるものか。
サッチが起きるたびにナマエは汗を拭ってくれたが、軽く肩をさすって落ち着かせようとしてくるその手にほっとしてうつらうつらとすれば、また夢の続きを見る。
間違いなく涼しかったが、一晩で恐ろしく体力を消耗したサッチがそれからしばらくその船室に近付こうとしなかったことを、知っているのはナマエだけである。
end
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