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昔も今も
画家主シリーズからクザ誕
※微妙に幼少クザン注意



 とん、とん、とん。
 なんとなく聞きなれた、まな板で食材を刻む音がする。
 ある程度のリズムを保つそれを耳にして、クザンはむくりと起き上がった。
 いつの間にか床で寝ていたようで、身のまわりには物が散乱している。
 開いたスケッチブックの大きな一面には先ほどまでクザンが描いていた『人』の姿があるが、いまいち納得のいかない色味だった。
 手に握ったままだった色鉛筆を握り直し、引き寄せたスケッチブックの中に足りない色を足してみてから、よし、と頷いて立ち上がる。
 手放した色鉛筆がからんと床に落ち、その代わりに拾い上げたスケッチブックを抱えたクザンは、それからきょろりと周囲を見回した。
 絵具や紙、布地、色鉛筆やそれ以外のものの匂いがするその一室は、『ナマエ』の仕事部屋だ。
 クザンが転がっていただろう場所の傍には小さな椅子があり、イーゼルも佇んでいるが、肝心の主の姿が無い。
 そのことに眉を少しだけ寄せたクザンの鼻が、くん、と開いた扉から漂う香りをたどるように吸い込む。
 裸足の足でぺちぺちと床を叩きながら、そのままふらりと歩き出したクザンが向かったのは、仕事部屋尾の外、物音のする方向だった。

『あれ、クザン』

 起きたのか、と声を掛けてきたのは、台所に立っている青年だ。
 片手に包丁を持ったまま、何かをしている相手へ近寄ったクザンが、少しばかり背伸びをしながら作業をしている辺りを覗き込む。幼いクザンはまだまだ小さくて、つま先立ちにならないと見えないのだ。
 真っ白なまな板の上には、ころりと刻まれたトマトが転がっていた。先ほどの音はこれだと把握してから、ことこと煮込まれている鍋の存在に気付いたクザンの足が、今度はそちらへ向かう。

『ああ、ほら、鍋の近くは危ないぞ』

『さわらねえもん』

 中身が気になるもののそう答えながら、クザンは煮込まれている鍋を見上げた。
 野菜やそれ以外が煮えるにおいがしている。
 いったい何ができるんだろうと考えたクザンの横で、それならいいけど、と声を漏らした男が手元のトマトを取り皿へ分けた。

『今日はカレーだよ』

 手を洗っておいで、と落ちた言葉が、クザンの耳へしっかりと届いた。
 途端にその目がきらきらと輝いてしまうのは、『カレー』というのがとても美味しいものだということを、クザンがしっかり知っているからだった。
 ほんのりスパイシーで、しょっぱくて、野菜もどれも全部美味しくて、茶色くて、食欲を誘う香りがする。毎回ライスにかかっていて、白いやつが薄く茶色になるくらい混ぜて食べると、もういくらでも食べられる気がする幸せな食べ物だ。
 クザンの表情の変化が分かったのか、わずかに笑い声を零した青年が、サラダらしきものを作りながら言葉を紡いだ。

『ちゃんとサラダも食べろよな。カレーはお替りしていいから』

『………………うん』

 『おかわり』と『生野菜』の間で揺れ動き、苦渋の決断を下したクザンへ、何故だか青年がまた笑う。
 柔らかなそれになんだかくすぐったい気持ちになりながら、クザンは青年の姿とことこと音を立てる鍋を見上げ続けていた。







 誰にでも、ふと無性に食べたくなる料理があるものだ。

「え? カレー?」

 だからこそのクザンのリクエストに、ナマエという名の男が目を瞬かせた。
 先ほどまで一枚の絵を仕上げていたからか、頬が少しばかり絵具で汚れている。
 指摘した方がいいものか、とぼんやりそれを眺めながらクザンが頷くと、別にいいけど、と言葉を零した彼は少しばかり首を傾げた。

「もっと他のものでもいいんじゃないか? せっかくなのに」

 そんな風に言いながら、その目がちらりと壁へかけたままのカレンダーを見やる。
 月めくりのそれにはしっかりと日付が刻まれており、今日が九月二十二日であることを示していた。
 月頭からいくつもバツ印が記されて、昨日の日付には赤文字で『納期』と示されている。
 恐らく手元にあった絵具で書いたのだろうが、多少垂れてしまっているので随分とおどろおどろしい文字だ。恨みすら感じる気がする。
 どうしても二十一日までに終わらせなくてはならない仕事が入った、とクザンへ目の前の男が告げたのは、つい先週のことだった。
 そうなの分かった、とあっさり頷いたクザンが、他の二人へ彼の仕事が差し迫っていることを伝えたのは、働く民間人を海兵が煩わせてはならないと考えたからだ。
 三日前に食料品の差し入れをしには来たが、その時だって数分で退散した。
 他の二人も似たようなものだっただろう。身の回りは随分と片付いていたので、もしかしたらクザンの前に来たどちらかが軽く片づけをしていったのかもしれない。
 締め切りを守る人間だと分かっているからこそ、改めて納期だと言っていた日の翌日に訪れたのだ。
 ナマエはきちんと仕事を終わらせ、そしてなぜだかまた一枚の絵を描き始めていた。長い時間をかけて作られているそれは『趣味』の物であって仕事ではないと分かっているので、クザンは気にせずいつもの定位置を陣取っている。
 イーゼルへ向かうナマエの背中を見ながら座り込んだのは床の上で、クザンは大体いつもそこからナマエと、彼の描くものを眺めていた。 
 そして、数分で来客に気付いたナマエのほうが振り向いて、驚くでもなく手を止めたのだ。

「おれが食いたいもん作ってくれるんでしょうや」

 『何か作ろうか。何が食べたい?』なんて言葉を寄こされたからこそのクザンの返事に、何故異論があるのか。
 首を傾げつつ答えたクザンへ、そっちがそれでいいんならそれでもいいけど、と言葉を零しながら、ナマエはなにやら腑に落ちない様子だ。
 しかし少し考えた後、まあいいか、で落ち着いたらしく、ぽんと軽く膝を叩いて立ち上がった。
 もう完全に終了のつもりなのだろう、パレットも筆も置いて、背中を伸ばすように伸びをする。

「たくさん食べるだろうし、カレーならたくさん作れるからな」

 うんうん、と一人納得している様子の相手に、クザンはますます首を傾げる。
 見た目にはそれほど分からないが、ナマエは空腹なのだろうか。
 けれどもクザンが問いを口にするより早く、するりと歩き出したナマエがクザンの傍を通り抜けた。

「あ、おれも」

「いや、こればっかりはクザンには大人しくしててもらわないと」

 今から作り始めるなら手伝おうと立ち上がりかけたクザンへ対し、ナマエが掌を見せながらそれを制した。
 寄こされた言葉に目を瞬かせながら、とりあえず浮かせかけた尻を落ち着けて、クザンの目がナマエを見やる。

「……別に、鍋で火傷なんてしねェけど?」

 何度かナマエの家で触ったこともあるのだから、相手だってそれを知っているだろう。
 そう思ってのクザンの言葉に、それは分かってるよ、と答えたナマエが、何かを考えるように壁際を見やった。
 そうしてそれから、一冊のスケッチブックを掴まえて、一本の鉛筆と共にそれをクザンへ差し出す。

「まあとりあえず、これで暇をつぶしててくれ」

「え」

 思わず受け取りながら声を漏らしたクザンをよそに、ナマエは機嫌よく仕事部屋を出て行った。
 恐らくキッチンへ向かったのだろう相手を見送る格好になってから、クザンの目が自分の手元を見下ろす。
 一冊のスケッチブックと、一本の鉛筆。
 誰がどう見ても、『絵でも描いてろ』と言った選択だ。
 ナマエ自身ならいくらでも時間が潰せるだろうが、幼い子供でもないクザンには少々微妙な物である。
 ナマエという男は、クザンがとても幼い頃に出会った画家だった。
 ほんの二週間ほど一緒に過ごして、そしてあっさりと離れてしまった相手だ。
 二週間の夢のように平和で幸せに満ちていた時間はすでに遥かに遠く、ひょっとしたらすべて妄想だったのかもしれないと思い始めていたほどだった。
 ひょんなことから自分の『仲間』を二人見つけて、そして幸運なことに『ナマエ』という名の画家を実際に見つけ出した。
 お互いに流れていた時間に差があるとは聞いていたが、見た目からして年下になってしまったはずのナマエはどうも、クザンや他二人のことを幼子のように思っているのではないかと思える節がある。
 こそばゆいような、腹立たしいような気持ちを抱いて、それを吐き出すようにため息を零したクザンは、それからのそりとその場から立ち上がった。
 渡されたものを手に持ったまま、ふらりと家の中を移動する。
 少し離れたキッチンへ近づくにつれて、がちゃがちゃと物音が聞こえだした。恐らくナマエが用意をはじめているのだろう。
 そうして、キッチンへたどり着いた頃には、食材を刻むリズミカルな音が響き始める。

「……あれ、クザン」

 気配を感じたのか、途中で手を止めて振り向いたナマエが、どうしたんだとクザンを見やって声を掛けた。

「一人で置き去りにされちゃあ寂しいでしょうや」

 それを受けて子供のように言い放ち、クザンはキッチンテーブルの椅子を引いた。
 自身には少々小さいそれへ無理やり座り込み、テーブルの端へスケッチブックと鉛筆を置いてから、そのままそこへ頬杖を突く。
 食卓を兼ねているテーブルだけは大きいが、四人掛け用の椅子はどれも小さかった。ナマエとクザンでは体格が違うし、クザンや他二人に合わせた椅子を置いては室内がとても狭くなるのだから仕方がないことだ。

「それもそうか。ごめんな」

 クザンの言葉をまるで疑うことなく受け入れて、それじゃあそこで待っててくれ、とまで言い放って笑った男は、そのまま食材の方へ体を向けた。
 随分と大きな鍋が用意されていて、もしかしたらしばらくカレーで食事を済ませるつもりなのかもしれないな、とクザンは考えた。
 そうであれば、明日にはほかの二人にも知らせて消費を手伝わせなくてはならないだろう。ナマエの栄養の偏りは、クザンにも他にも見逃せないことである。
 とん、とん、と音を立てて食材が刻まれ、用意がされていく。 
 しばらくその背中を眺めてから、頬杖を突いたまま、クザンはそっと目を閉じた。
 椅子は小さくて窮屈だが、目を閉じて耳を澄ませていると、まるで幼かったあの頃の自分になったような気すらする。
 もはや遠い記憶の片隅で、ほとんど消えかけたはずのそれを鮮明に思い出せた気がして、クザンの唇に笑みが浮かぶ。
 穏やかな時間の中、漂う香りも音も雰囲気も、幸せの気配で満ちていた。




「いつまで寝てんだァい」

 うっかり転寝してしまっていたクザンを起こしたのは、そんな声音と強烈な額への衝撃である。

「っ!?」

「何を勘違いしちょるか、馬鹿タレ」

 まさか敵襲かとうっかり身構えたクザンの腕を、横から伸びた手が抑える。
 戸惑いに瞳を揺らした目の前にはほほ笑むナマエが座っており、何故だかその左右を海軍最高戦力の二人が陣取っていた。
 テーブルの上にはカレーの入った皿が並び、そしてなぜだかその真ん中にはケーキまで置かれている。

「…………え?」

 にやにやともニコニコとも言いづらい顔でほほ笑む同僚と、相変わらず仏頂面のもう片方を見比べて、クザンの目が瞬く。
 困惑するクザンの向かいで、ほほ笑んだままのナマエが、『誕生日おめでとう』と祝辞を述べた。
 一日遅れの誕生祝いが行われているという事実をクザンが寝起きの頭で理解するには、少しばかりの時間が必要だった。
 なるほど、たくさんのカレーを作るはずである。


end


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