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猫には避けて通られる
※『真心も寄越せ』と『ねこのひの憂鬱』の続編
※ビビり系トリップ主人公とCP9最強の男ルッチ



 つくづく、俺は馬鹿だった。
 あの日海列車で『ロブ・ルッチ』と言う名の諜報員に出会わなければ、いや、出会ったとしてもその名前をうっかり口にしなかったなら、こんなことにはなっていなかっただろう。
 相手は政府直属の諜報員なのだから、考えれば分かるというものだ。
 身柄を拘束され、尋問を受けて、最終的には『おかしな行動をしないように』と見張られながらの生活を余儀なくされている。
 しかし、人間と言うのは慣れる生き物なのか、剥がされた爪が生え揃い始めた頃には、俺もついにここでの暮らしに慣れてきた。
 俺の仕事は、ロブ・ルッチの傍仕えだ。
 捕虜のようなものだろうに、何としっかり給金も支払われている。
 島を出ることは絶対に叶わないが、暇をつぶす方法はいくらでもあった。
 頻繁に買い物には出られないが、船便や小鳥便のおかげで通販もできるし、ちょっと話せる友人、といった仕事仲間も少しずつ増えてきた。
 しかし、そうやって慣れては来ても、気になるものは気になるし怖いものは怖いのである。

「……はあ……」

 片手をそっと自分の首筋に当てて、軽く撫でながらため息を零す。
 配膳の帰り道、からからと音をたてながらカートを押していると、急に真横へ影が落ちた。
 あまりにも唐突なことに思わずびくりと体が飛び跳ねてしまい、横から吹きだしたような音がこぼれる。

「猫みたいじゃのう」

 楽しそうにそんな風に続いた言葉に、俺は唐突に現れた相手が誰かなのかようやく分かった。
 立ち止まり、身を引きながら視線を上げて、こわばった体から少しだけ力を抜く。驚きすぎてまだ心臓が痛い。

「な……何してるんですか……」

 見やった先にいたのは、鼻の長い男だった。
 カクと言う名の彼は、サイファーポールの諜報員の一人だ。
 さわやかに笑う顔はいつもの通りで、一体どこから降ってきたんだと思わず周囲を見回す。
 あそこからじゃ、と俺の疑問に答えるように高い場所にある窓を一つ指差したカクは、その後でその指先をこちらへ向けた。

「ナマエが見えたから寄ってきたんじゃ」

「は、はあ……」

 微笑み寄越される友好的な発言を受け入れつつ、俺はあいまいに相槌を打った。
 俺の目がこちらを向く相手の指先に向いてしまうのは、それが『凶器』だと知っているからだ。
 指先一つで人を殺せる人間の指先と言うのは、つまりは銃口である。
 思わず体を傾けてその先端から身を逸らした俺は、絶対に間違っていないと思う。
 俺の仕草にわははと笑って、カクがその手を降ろす。

「ため息までついとったじゃろう。何か悩みでもあるのかと思ってのう」

 わしは心優しいから聞きに来てやった、と続いた言葉に、思わず瞬きをした。
 どういう意味だと視線を相手の顔へ戻せば、ちらりと俺が来た道を見やったカクが、ルッチのところからの帰りか、と言葉を零す。
 そうしてその目がこちらへ戻り、俺の頭の先から足の先までをしげしげと眺めて、軽く首が傾げられた。

「どこにも怪我しとらんと言うのに、何を悩んどるんじゃ」

「怪我してたら『悩む』じゃ済ませられないですよ」

 恐ろしいことを言いだす相手に更に一歩身を引いて、下げてきた食器の乗っているカートの持ち手を握りしめる。
 そういうものかともう一度不思議そうに首を傾げてから、それで、とカクがこちらの顔を覗き込むようにして言葉を落とした。

「なーにを悩んどるんじゃ?」

 まあ話してみろ、と尋ねながら、丸い双眸がこちらの瞳をじっと見つめる。
 その眼差しには感情が見当たらず、俺の呼吸から視線の動きまですべて観察しているかのようだ。
 ぞわりと背中が冷えたのは、目の前の相手もまたあの『ロブ・ルッチ』と同じ生業の人間なんだ、と感じてしまったからだろうか。
 放たれる威圧感に足を引いて逃げようとしたが、俺が一歩引いた分をカクの足が詰めてきたので、距離も開かない。
 じわりと額に汗がにじんだのを感じて、ごくりとつばを飲み込んでから、俺はカクから目を逸らした。
 見下ろした先は自分の足元で、見える範囲にカクの爪先が入り込んでいる。

「……あの」

 どうにか声を絞り出しながら、俺は片手を自分の首のあたりへ当てた。
 指でゆるりと首筋を撫でて、そっと言葉を続ける。

「俺、なんかうまそうな匂いとか、します?」

「は?」

 俺の発言に、カクの方から困惑に満ちた声が漏れる。
 威圧感が少しだけ和らいでくれて、ほっと息を吐いたのは秘密の話だ。







 肉食動物に、首筋という生物の急所を甘噛みされる。
 真上にのしかかられ、抵抗すれば死ぬだろうと分かるだけに逃げられもしないままの時間を過ごすのは、もう何度目になるだろうか。
 今日もまた俺の真上には大きな生き物がのしかかっていて、あぐあぐと首を食まれている。
 頬をかすめる耳先や毛皮がくすぐったいが、我慢の時間だ。今日はソファに引きずりあげられたので、まあマシな方だろう。
 俺には十分ベッドとして扱えそうなソファもさすがに動物化した相手にのしかかられる状況では狭く、抑え込まれているのは左腕だけだ。
 自由になっている右手を少しだけ動かすと、視界にそれを捉えたらしい相手がこちらを舐める舌の動きを止めた。
 眼で物が削れるなら手首から先がなくなっていそうなほどの視線を感じながら、そろそろと動かした手を、そっと相手の肩口あたりに乗せる。
 毛繕いだってしていないだろうに随分と滑らかな毛皮をするする撫でると、ややおいてまた俺の首を食む動きが再開された。
 あぐあぐ、べろり。
 例えば仔猫が甘えてやっている行動なら、それはもう可愛いことこの上なしこの世の天国で天使と過ごしているような至福の時だろうが、これは仔猫でなければただの豹でもなく、あの恐ろしいCP9、ロブ・ルッチである。
 だというのに手持無沙汰になった手でその体を撫でてしまうのは、これはもうこの素晴らしい毛皮が悪い。中庭ではあれ以降天使のような仔猫にも出会えないし、俺の生活には癒しが足りないのだ。
 しかしそれもほんの数分のことで、やがて満足したのか、ふっとのしかかる相手の体が変化する。
 するすると撫でていた毛皮の感触が無くなり、その事実に気付いてびくりと手を止めて引き剥がした俺の上で、むくりと相手が起き上がった。
 黒いくせ毛を後ろに結んだ仏頂面のロブ・ルッチは、上半身裸である。
 そういえば最近、こうされる時は相手が上着を脱いでいるなと、俺はそれを見上げながらぼんやり思った。
 もちろんフェイントも多いので毎回の話じゃないが、相手が薄着をしていると少し身構えるようになってしまった。だって仕方がない。巨大な肉食獣に飛び掛かられたときの衝撃と恐ろしさと言ったらないのだ。
 そのまま俺の上からどいていく相手に合わせて、俺もその場で起き上がる。
 ソファに横向きに座っている少し不安定な状態で、早く立ち上がりたいのだが、何故だか今日に限って解放されなかった。
 いったん俺の上からどいたはずのロブ・ルッチが、両足を床へ降ろした後、まるで俺の足がそこにあるなんて思いもしない様子で人の膝の上に腰かけたからである。重いし、うまく起き上がれない。

「……あの」

 柔らかなソファの上で少しは軽減されているが、どうにも負担のかかる事態に思わず声を漏らすと、じろりと相手がこちらを見た。
 猫が音のしたものに気付いて視線を寄越したかのような、窺うようなその視線を受けて、なんとなく口を噤む。
 怖い、と言う思いはもはやこの人を前にしたときには条件反射的に過る感情で、もう痛くない筈の指先が痛んだ気がして緩く手を握りこんだ。
 しかし、そのまま下を向いてみても、突き刺さる視線は変わらない。
 無言の圧力に押し負けて、その、と零れた言葉が口を震わせた。

「お、俺ってなんか、うまそうな匂いとか、してますか?」

 放った言葉はもはやただの雑談に近く、昨日カクへ放ったのと同じ言葉だった。
 何せ、何度も先ほどのように首筋にかじりつかれるのだ。
 只の戯れにしてはおかしいし、もしや何か原因があるのかと考えてしまっても仕方のないことだろう。
 俺の言葉に怪訝そうな顔をしたカクは、何かを確かめるようにこちらを嗅ぐなんて恥ずかしいことをやってから、食いたくなったりはしない、とあっけらかんと言い放っていた。
 しかしよくよく考えれば、あのカクは『まだ』動物系能力者ではないのだ。
 例えばロブ・ルッチだとか、ジャブラとは違う。
 もうじき帰ってくる狼人間に聞いてみようと思っていたのだが、それより前に給仕の仕事が入り、今に至っている。
 こうなればと正面から投げた俺の問いに、俺の足の上に座ったままのロブ・ルッチがわずかに身じろいだ気配がした。
 それに気付いて視線を上げれば、相手が少しばかり首を傾げている。

「人肉を食らう趣味は無いが」

 食ってほしいのか、と寄越された返事に、思わずぶんぶんと首を横に振った。
 いつ誰がそんな話をしたというのか。やめてくださいと震える声で訴えると、ふん、と鼻で笑われる。
 見えた笑みは悪人この上ないもので、揶揄われたのかもしれないが、とてつもなく心臓に悪い。
 身を引きたくても踏まれていては体も動かせず、もぞもぞと身じろぐと、ロブ・ルッチの手がこちらへ伸びた。
 有無を言わさぬ強さで手を掴まれて、ゆるく握っていた拳を引き寄せられる。
 力の強い指先が俺の掌をこじ開けて、そのまま指先を検めるように手の甲を上に向けられた。
 びく、と体が揺れてしまうのは、その親指が俺の人差し指の爪を撫でたからだ。
 痛みを思い出して、ひやりと背中が冷える。
 引こうとした手を軽く握っただけでしっかりと掴まえて、俺を捉えた諜報員が言葉を落とす。

「最近、長官とよく顔を合わせているようだな」

「え、あ、え、っと……」

 唐突な発言に、ただ困惑する。
 言われて思い返せば確かに、何度かその『長官』と肩書の付く人間に遭遇している。
 しかしそれは大体が相手が何かをやらかしたときの片付けの手伝いとしてで、向こうは俺のことなんて認識もしていないだろう。俺だって、たまたま仲良くなった雑用係が長官付きだったというだけで、それ以上は何もない。

「て、手伝い、をしただけで、あの」

 言葉を放っている途中で、人差し指の爪先をぎゅっと強く掴まれて、ひ、と小さく悲鳴が漏れた。
 ただ相手の親指と人差し指に挟まれているだけなのに、まるで硬い万力にでも挟まれているかのような心地だ。

「別に何も『狙い』は無い、と?」

 かつての痛みを思い出させるように爪を圧迫してから、少しだけ力を緩めたロブ・ルッチがそう言葉を落とす。
 がくがくとそれと頷くと、しばらくそれを眺めた相手が、ふん、とつまらなそうに鼻を鳴らした。
 その手が俺の手を逃がし、それに気付いて両手を自分の体の後ろに回す。
 逃げの姿勢をとった俺を横目に、すくりとロブ・ルッチが立ち上がったので、俺は両足の自由も手に入れた。

「逃げるつもりなら、生きて島を出られるとは思わないことだ」

 言外に『逃がすつもりはない』と言い切られたような気がする。
 膝を曲げて、もはやソファの上で縮こまるしかない俺をよそに、ロブ・ルッチがソファの背もたれに掛けてあったシャツを掴まえる。
 手早く上着を着込み、髪を結いなおして、その手でネクタイまで締めると、今まで離れた場所でのんびりとしていた白い鳩がばさりと羽ばたいてその肩口へと収まった。
 可愛がっている鳩を肩に乗せたまま、スーツの上着は羽織らずに片手で持ち直して、ああそうだ、と声を漏らしたロブ・ルッチがこちらを見下ろす。

「猫など寄りつかん匂いはしている」

「え?」

「ハットリは気にしないだろうがな」

 言葉を落とした相手の片手が肩口の鳩にのび、恐るべき指先でくちばしの下をくすぐられた白い鳩がポーと鳴く。
 平和の象徴を肩に乗せたCP9最強の男は、相変わらずの恐ろしい顔でにやりと笑った。
 戸惑う俺をよそに、身支度を整えた相手が部屋を出て行って、あとには俺だけが残される。
 とりあえずソファの上で体の向きを変え、こわごわと両足を床につけてから、俺はちょっとだけ自分の鼻先に腕を近づけた。

「……猫の嫌いな匂い?」

 猫が嫌いで豹が嫌わない匂いとは、一体なんだろう。
 嗅いでみても、自分ではよく分からない。どちらかと言えば、先ほどまで俺にのしかかっていた誰かさんの匂いがわずかにするくらいだ。
 しかし、もしかすると俺のその『におい』が元で、中庭の天使にも出会えていないのだろうか。それは由々しき問題だ。
 自分の体臭について困惑し、対策に悩んだ俺に追い打ちがかかったのは、それから数日後のこと。




「おいナマエ、お前化け猫臭ェぞ」

 ぎゅっと顔をしかめた狼人間の発言に、『マーキング』と言う言葉がぐるりと脳裏をよぎったが、多分、気のせいだ。



end


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