世界は都合良く廻っている
※主人公はトリップ系海兵で大将青雉の部下
クザンには、ナマエという名前の部下がいる。
「あ! クザン大将、おはようございます」
へらり、と笑顔と共に挨拶と敬礼を寄越した相手に、はいはいおはよう、と返事をした。
執務机に懐いたままで視線を向ければ、敬礼を解いたナマエの足がそのまま備え付けの小さな給湯室へと向かう。
慣れた手つきで低い棚からカップやそのほかのものを取り出してコーヒーの用意を始めた部下を見やり、クザンの口からはため息が漏れた。
「朝から仕事なんて、珍しいですねェ、クザン大将」
鼻歌交じりにコーヒーの用意を終えたナマエが、そのうちのひとつをクザンの執務机へ置きながら、そんな言葉を口にする。
なんとも失礼な物言いだが、事実であることは間違いないので、そうだねェ、とクザンはそれに適当な相槌を打った。
クザンだって、昨晩のうちにマリンフォードを離れるつもりだった。
「ボルサリーノに見つかっちまってさァ」
夜闇にぴかりと光った相手が自転車を破壊してきたのは予想外だったが、そろそろ働けと怒られては仕方ない。
「ああ、それはなんとも」
ご愁傷様です、と上司に対して同情めいた言葉を口にして、ナマエが自分の机にコーヒーを運ぶ。
それから鍵のかかっていない棚を開いて、片付けられていた書類がそこから現れた。
運ばれてきたそれらはクザンの目の前に積まれ、一番上に憎たらしい間抜け面をした鳥の姿のペーパーウェイトが置かれる。
「それじゃあ、この辺りだけ片付けて行かれてください」
にこりと笑って寄越された言葉に、はいよ、と答えたクザンはとりあえず体を起こした。
自分が先ほどまで相手にしていた書類で出来た小さな束を掴んで差し出せば、ナマエはあっさりとそれを受け取る。
中身を確認する副官が淹れたコーヒーを口に運びつつ、クザンは新たに積まれた書類の一番上をつまみ上げた。
みっちりと文字の詰まったそれを斜めに読みながら、唇からカップを離したクザンはその目をちらりと己の副官へ向けた。
印鑑の個所を確認しているらしいナマエは、クザンの視線に気付かない。
クザンの傍らに立つ『ナマエ』という名の彼は、文官としてクザンの副官に任命された海兵だ。
聞けばとても遠い海からやってきた人間で、マリンフォードには身寄りもいない。
一度だけ前後不覚に酔わせた日に『帰りたい』と泣いていたので、自分の意思で故郷を離れたわけではないのだろう。
親しい友人はいくらかいるが、どことなく相手と距離をとった付き合い方をしている。
そして、恐らくクザンが今まで得てきた副官の中では誰よりも、変わった海兵だった。
「この山崩したら、『散歩』してきていいってこと?」
「ええ、どうぞ。黄猿殿も上の三枚を待っているだけだと思うので」
椅子に背中を押し付けて呟いたクザンへ対して、ナマエがそんなふうに言葉を紡ぐ。
それはクザンが本部を離れることを良しとするも同然の発言で、今までクザンが部下から受けたことの無いものだった。
大体は『働きましょうよ!』と怒ったり、呆れたりする。
そのうち許容されることはあるが、それでも批難を受けるのが通例だった。
けれどもナマエは、初日からあっさりとそれを受け入れ、むしろ奨励している節があるのである。
長らく執務室に詰めていると『体調が悪いんですか?』と心配されてしまう始末で、むしろクザンをマリンフォードから追い出したいのではないかと疑ってしまうほどだ。
嫌われていて近くにいることを嫌がられているのかと思えばそうでもなく、クザンがいる間は甲斐甲斐しく世話を焼くし、クザンが出かけている間もきちんと仕事をこなしてくれている。
申し分のない副官であることは間違いないが、しかしその理由が分からない。
「あららら。じゃあ、せめて三枚はきちんとやるか」
「はい、それがよろしいかと思います。こちら、先に届けてきますね」
執務机に頬杖をついたクザンが言葉を放ったのに頷いて、書類の不備が無いことを確認し終えたナマエが書類束を手にしたままでそう言った。
「終わってすぐにお出になるなら、そのまま机に残しておいてください」
続いたその言葉に、クザンは書類に戻しかけていた視線をナマエへと戻す。
向けられたその視線を受け止めて、ナマエはにこりと微笑んでいた。
信頼の満ちたその眼差しを受け、少し押し黙ってから『はいよ』とクザンが答えれば、すぐに彼は執務室を出ていく。
武官には向きそうにない小さな背中が出ていくのを見送ってから、改めてナマエの言っていた三枚をつまんで執務机の上に並べたクザンは、頬杖をついたままで視線をそちらへ向けた。
海軍大将間でやり取りされる書類には、今のところ元帥と大将『赤犬』の印しかない。
別にクザンが後回しになってもいいような書類だ。もしもクザンがかの同僚に見つからずにマリンフォードを出ていたら、ナマエはこの書類を先によそへ回していただろう。
その書類を待っているだろう男を思い浮かべて、うーん、とその口が小さく声を漏らす。
「……別に虐めてるわけじゃァねェんだけど」
『そんなに虐めちゃァナマエくんも可哀想だろォ〜? わっしも迷惑だしねェ〜』
真面目に働けと怒りながらそんなことを言っていた同僚を思い出して反論してみるが、残念ながら電伝虫は眠っている。
もちろんクザンとしても、今の役職に不満はない。
書類仕事は得意ではないが、何とかこなせているのではないだろうか。
息抜きと、それから警邏や諸々を兼ねた『散歩』でマリンフォードを離れる時だって、ちゃんと自分なりに予定を立てている。
部下達に批難されれば謝るが、責任は自分で取るし、自分のやり方を変えるつもりはなく、だから今の副官である『ナマエ』は、正直やりやすい相手だ。
しかし、なんとなく調子が狂うというのも事実だった。
それもこれも全部、ナマエがなにやら信頼の滲む眼差しばかりをクザンへ向けてくるからだ。
傍から見れば『さぼっている』としか言いようのないクザンの行動をとがめることも無く、むしろ何か崇高な正義の所業だとでも思っている節がある。
そんな風に何もかも信じて生きてきて、そのくせ騙されたり酷い目に遭っていないのだとすれば、ナマエはとんでもなく幸運な男だったに違いない。
しかし、幸運なはずの人間がこうしてクザンの元に配属されたのだから、恐らくその運は使いきられているのだ。なんとも哀れなことである。
「どうしたもんかねェ……」
ため息交じりに言葉を落としつつ、クザンは三枚の書類に印鑑を押した。
それから、報告書の体を持っている一枚にペンを走らせて、中身を埋めていく。
角ばった文字の下に綴られたのはクザン自身から見てもなんともやる気のないものだが、間違ったことは書いていない。
書き終えてから、インクと朱肉を乾かすためにそれらを端へ避けて、それから少し考えて別の書類を手にする。
四枚目の書類は別の部隊から回ってきた報告書の回覧で、大将『黄猿』とは何の縁もゆかりもないものだ。
書類の束を引き寄せ、ぱらぱらとめくってみるが、他も似たようなものだ。恐らくナマエの言う通り、かの同僚が求めていた書類は今確認を終えた三枚だったのだろう。
だとすればもう出かけてもいいだろうなと考えながら、改めてクザンの目が書類へと戻される。
「ただいま戻りました〜……あれ? クザン大将?」
それから三十分ほど後、クザンが寄越された束の最後の一枚に印鑑を押したところで戻ってきたナマエは、部屋にいるクザンを見て不思議そうな顔をした。
『いるとは思わなかった』とありありと顔に記した相手を見やり、最後の一枚を書類束の上へと乗せたクザンが、頬杖をついてナマエを見やる。
「終わったから、これ提出してきて」
「あ、はい」
クザンが命令を放てば、ナマエはすぐに返事を寄越す。
近寄ってきた相手が書類へ手を伸ばし、広げてあった重要書類もつまんで重ねていくのを見やると、クザンの視線に気付いたらしいナマエがちらりとクザンを見た。
「……書類、追加しますか?」
期日はまだ先ですけど、と言葉を続けて伺ってくる相手に、急ぎのはもうないのかとクザンは尋ねた。
それに対してナマエが頷いたので、ああそう、と声を漏らしてから立ち上がる。
椅子から立てば上背のあるクザンは相手を見下ろす形になり、書類を抱え直したナマエが追いかけるように顔の向きを変えた。
「じゃ、その書類出したら早めに戻ってきて」
「え? ええと、あの」
「待ってるから」
クザンが言葉を重ねれば、ナマエはますます不思議そうな顔をする。
戸惑う部下を見下ろして、クザンは片手を動かし、ぽん、と副官の肩を叩いた。
「たまには『散歩』、付き合ってよ」
ちょうど一人乗りだった自転車も破壊されてしまったことだし、二人乗りできるものを買えばいい。
出かけた先でクザンがただのんびり楽しんでいる様子を見せれば、ナマエもクザンがただ『さぼっている』だけだと知るだろう。
これから先、手酷い裏切りや謀略を受ける前に、ナマエは人を疑うということを覚えた方が良いに違いない。
何ならクザンの『散歩』を批難する側になってくれても構わない。
『やりやすい部下』を失ってしまうのは何とも寂しいが、他で誰かの悪事の片棒を担がされてしまう前に、『海兵だからと言って信頼しきって良いわけではない』と覚えさせなくては。
上官らしい考えで落としたクザンの誘いに、ナマエはぱちりと目を瞬かせた。
そうして、戸惑いながらも、あまり遠くへは行かないなら、とだけ条件を付けて頷く。
「俺、あまりマリンフォードを離れたことがなくて……」
「キューカ島くらい行ったことあるでしょうや」
「いえ……」
どうやら出不精らしいナマエが申し訳なさそうに首を横に振ったので、クザンの中で今日の目的地は決まった。
すぐ戻りますね、と言葉を置いて、先ほどより素早く執務室を出ていった相手を見送り、バカンスに向いたあの島でのんびりだらりと過ごそうか、なんて数時間後のことを思い描きながら、とりあえずその手を電伝虫へと伸ばす。
なじみの店に自転車の手配を頼んで、駆けて戻ってきたナマエとともに海へと繰り出したのが、それから一時間もしないうちのこと。
「クザン大将って、外でもこんなことしてるんですね……」
「…………あららら……まァ、ね……」
こんな時に限って島を襲いにやってきていた海賊達を氷漬けにしたクザンは、きらきらと信頼と尊敬のまなざしを向けてくる部下から、そっと視線を逸らしてため息を零した。
なかなかどうして、世の中とは思った通りにはいかないものだ。
end
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