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※もし相手が黄猿だったら?
海軍と言うのは、もしかしたら暇なのかもしれない。
ナマエは少しばかりそんなことを考えた。
「ナマエの番だよォ〜」
デスクの端に将棋盤を置いて、書類を眺めながら、黄猿がそんな言葉を口にする。
ナマエの目が睨みつけた盤の上で、彼の王将はもはや絶体絶命だった。
相手は確か主力の飛車角がいなかったはずだが、ものの十五分でこの有様である。
うーんと唸ってみても、活路がまったく見出せない。
「…………駄目だコレ、俺の負けだよ黄猿……」
ため息を零したナマエの手が、自分の王将をひょいと拾い上げて、それを黄猿の持ち駒のほうへ潔く置いた。
からんと小さく音を立てたそれは、ナマエが示す投了の合図だ。
それを聞いて視線を盤面へ戻した黄猿が、諦めたのかァい? と呆れたように口を動かす。
「ナマエは根性が足りないねェ〜」
「いや、どう考えても無理だよこれは」
やれやれと肩を竦められてそう意見してみるものの、ナマエの声は黄猿には届かない。
ある日唐突にこの黄猿の執務室で目を覚ましたナマエは、誰にもその姿を見ることの出来ない存在だった。
いわゆる幽霊のようなものかもしれないが、死んだ覚えは全く無い。
ナマエが物に触れることは出来るが、相手からは同じように触れないし、ナマエがどれだけ声を張り上げても、目の前の相手にすらそれは届かなかった。
空腹も感じないし喉も渇かず、トイレに行きたいとも思わないし汗を掻いたり体が汚れたりすることも無い。
自分の状態が正常でないことはナマエにも分かっているが、しかしどうしようもなかった。
ナマエはこの世界を知っている。
この世界で生きているキャラクターたちを、ずいぶんたくさん知っている。
そして、どうもここは、海賊を主人公にした漫画の世界で主人公たちの『敵側』に回る海軍の、しかも本部であるらしい。
ありえない体験をしているあまりの驚きに、せめて海賊でも見れないかと思って街中を歩いてみたが、当然ながら海軍本部を海賊がうろつくことは無いので見ることもできなかった。
海に出れば遭遇することも可能かもしれないが、自分の状態が状態なので、それに踏み切ることもできないままだ。
ならばせめて海兵の誰かにでも自分の存在を認識してもらおうと、最初の二週間ほどは躍起になって努力をしていたのだが、うっかりと幽霊騒ぎになってしまい、呆れた大将赤犬がマグマを降らせてきたときに色々と諦めた。
何せ、わあわあ騒いで逃げ回る海兵達はナマエの体をすり抜けて行ったし、降ってきたマグマだってナマエには何の被害も与えなかったのだ。
もしかしたら熱そうなそれを触ることはできたかもしれないが、わざわざ火傷をしにいく趣味は無い。
時間が解決してくれるかもしれない、なんて考えながら海軍本部の中をうろうろしていたナマエの存在に気付いたのが、今ナマエの相手をしている大将黄猿だった。
柔らかいソファを昼寝の寝床にしようと入り込んだ執務室で、落ちている書類を見つけたから拾い上げたら、丁度そこに黄猿が入ってきたのだ。
慌てて書類を置いたナマエのほうを見やって、軽く首を傾げた黄猿は、そこに誰かいるのかいと問いながら唐突に蹴りを放ってきた。
光速の重みを備えたその靴底は当然ながらナマエをとらえることなくすり抜けたが、とても驚いたナマエが自分の体を通過したその足を思い切り押しやったら、黄猿は不思議そうな顔をしたのだ。
『オォ〜……誰かいるんなら、ちょっとそこのソファに座りなよォ〜』
足を降ろした黄猿に言われて恐る恐る従ったナマエは、そのままある程度の尋問を受けて、そうしてこの世界で初めて『認識』された。
ナマエの名を聞きだした黄猿は、ナマエが退屈しないようにいくつかの遊び道具やら本やらを揃えてくれて、今だって仕事の片手間に相手をしてくれている。
「ほらァ、ここに置けば何とかなるだろォ〜?」
ひょいと伸びたナマエより随分長い手が、ナマエが明け渡した王将を元の位置へ戻して、ぱちりとナマエの軍勢の駒を動かす。
全く考え付きもしなかったその動きに、ナマエは目を丸くした。
「あ、本当だ。黄猿すごい」
「で、わっしがこうして、そしたらこうしかないからァ、わっしがこう、そっちがこう、それに対してこうしてわっしの勝ちだけどねェ〜」
「…………そして性格が悪い……」
ぱちぱちぱち、と盤上で繰り広げられた完膚無きまでの負け戦に、がくりとナマエが肩を落とす。
最後にわざとらしく歩兵でナマエの王将をはじいて、笑った黄猿の手がざらりと盤上の駒達を一纏めにした。
その動きに、今日の遊びがお開きだと気が付いて、ナマエの手がひょいと駒入れの箱を開く。
盤から黄猿の手が退くのを待って、ひょいひょいと駒達をそこへ片付けると、書類を置いた黄猿が軽く頬杖を付いて片付けるナマエのほうを見やった。
「…………どうかした?」
少し焦点が合わないながらも、自分のほうを見ている黄猿を見やって、ナマエが首を傾げる。
当然黄猿にはその姿は見えないし声も届かないので、最後の駒まで箱へ落として蓋をしてから、ナマエは手に持ったそれで注意を引くように一度机を叩いた。
不審がられていることに気が付いたのか、いやァ、と黄猿が口を動かす。
「目の前で消えるのに、また箱の中に出て行くのが不思議でねェ〜……ナマエのそれはどういう原理なんだろうねェ〜?」
どうやら、ナマエが持ち上げた駒が消えて、箱へ放られた途端にまた見えるようになる様子を眺めていたらしい。
ナマエから見れば何の変化もないので今いちよく分からないが、ナマエが持ち上げたものは、他に何も触れていなければその姿が見えなくなるのだと黄猿が以前言っていたのを、ナマエはちゃんと覚えている。
ふうん? と首を傾げてから、ナマエの手が箱を将棋盤の上へ置いた。
「黄猿が面白かったなら、それでいいけどさ」
「見てると結構面白いからねェ〜」
ナマエの言葉に応えるように、ナマエの声が届かない黄猿が笑って言う。
その声が執務室の中で消えた丁度その時、扉が軽く叩かれて、黄猿の返事を受けてかちゃりと開かれた。
失礼します、とかしこまった様子で声を掛けて室内へ入ってきたのは、ナマエももう随分と見知った黄猿の部下の一人だ。
手に持った書類を届けにきたらしい彼に、ご苦労だったねェ、と黄猿が労いの言葉を掛ける。
気遣いを受けて頭を下げた海兵は、黄猿とナマエの間に置かれた将棋盤にその目を止めて、少し不思議そうな顔をした。
「あァ、これかァい? 今一局指し終わったところでねェ〜」
のんびりと黄猿が言うと、相手を少しばかり探すそぶりをした海兵は、当然ながら椅子に座ったナマエを見つけられないまま、そうですか、とだけ相槌を打って将棋盤から不自然に目を逸らした。
その手が黄猿へ書類を渡して、丁度黄猿の決裁が終わった書類を受け取り、足早に退室していく。
ひらひらと手すら振って去っていく部下を見送った黄猿を見やって、ナマエは少しばかり眉を下げた。
「俺、やっぱり迷惑なんじゃない?」
どう考えたって、今の海兵の様子は黄猿を不審がっていた。
おおっぴらにナマエの話をしたりはしないものの、この海軍本部で唯一ナマエを認識している大将黄猿は、『誰にも見えない誰か』が傍にいることを隠すつもりもないらしい。
黄猿が時々独り言を呟いていると海兵達が噂していることをナマエは知っているし、黄猿の周りにおかしな現象が起きることがあると誰かが報告したのか、他の大将や中将達が時折前触れも無く黄猿の執務室を訪問するのだ。
そのうち黄猿にとって不都合なことになるんじゃないかと、ナマエは気が気でない。
だって黄猿は、この世界で一番初めにナマエのことを認識してくれて、まるで幽霊みたいにさ迷うだけだったナマエの名前を聞き出して、名前を呼んでくれるようになったただ一人なのだ。
他の誰も気付いてくれないから離れることが怖くてずっと近くにいるけれども、その所為で黄猿に迷惑が掛かるなら、それはナマエの本意ではない。
声も届かぬ黄猿を見上げて眉を寄せたナマエのほうを黄猿が見やって、軽く肩が竦められた。
「そういやァ、こないだ戦桃丸くんに頼んだんだけどねェ〜」
「え?」
寄越された言葉の意味が分からず、ナマエは戸惑って黄猿を見つめる。
ナマエからの視線を感じた様子も無く、ナマエの座っている椅子のあたりからその目を離して、黄猿はひょいと今運ばれてきたばかりの書類を摘んだ。
「今度、ベガパンクに会ってみねェかァい?」
ある程度書類を読み込んでからサインをした黄猿の言葉に、ナマエがぱちりと瞬きをする。
戸惑うナマエを放っておいて、手元の書類を一枚片付けた黄猿は、次なる一枚に手を伸ばしてから言葉を続けた。
「まァそう見込みがあるわけでも無ェけどねェ〜、ベガパンクなら、ナマエのそれを解析できるかもしれないよォ?」
そうしたら見えるようになるかもしれないし、おしゃべりだってできるかもねェ、なんて言い放った黄猿の口に笑みが浮かんで、手元の書類にサインをした黄猿の目がまたもナマエのいる辺りを見やった。
ベガパンク、という名前は、当然ながらナマエも知っている。
この世界をナマエへ教えた『漫画』の中で何度か名前だけ出てきた、噂の天才科学者だ。
その天才なら、確かに、もしかしたらナマエの今のおかしな状態を正常に戻せるかもしれない。
「え、っと……」
「まァ、どんな実験されるかはわかんないけどねェ〜」
それは嬉しい、と言おうとしたところで黄猿にあっさりそう言われて、う、とナマエは言葉を詰まらせた。
確かに、実験と称して何をされるかは全く分からない。痛い思いだってするかもしれない。そう考えると、少し恐ろしい気もする。
何と答えたものかと眉を寄せたナマエの視界で、黄猿の手がひょいと先ほどナマエが片付けた将棋駒の入った箱をナマエのほうへと押しやる。
触れと言いたげなその動きに、ナマエはとりあえず箱を捕まえた。
端を少し持ち上げてみるけれども、黄猿がそれに触っているから、恐らく箱は消えてはいないだろう。
ナマエが持ち上げた様子を眺めて、目を細めた黄猿が囁く。
「けどォ、酷いことされるようならわっしがちゃァんと守ってあげるからァ……ナマエが良いなら試してみねェかァい?」
優しげに聞こえたその声に、ナマエは箱へ落としていた視線を上げた。
ナマエがいる辺りを見やったままの黄猿の焦点はやはり少しずれているが、その視線は確かにナマエへと注がれているものだった。
穏やかなそれを受け止めて、少し悩むそぶりをしたナマエの口が、次第に緩む。
ナマエが知っている限り、『漫画』の大将黄猿は恐ろしい存在だったが、こうして傍で過ごしてみると、彼は随分優しい分類の海兵であるような気がする。
だって、黄猿は、姿も声も届かないナマエの存在を認めて、ちゃんとその名前を呼んで、こうしてナマエのために心を砕いてくれるのだ。
「……うん、じゃあ、会ってみる」
呟きながら、黄猿の手元から将棋駒入りの箱を奪ったナマエの手が、それで将棋盤を三回叩いた。
二回は拒否、三回は了承と取り決めたその返事を受けて、黄猿が笑う。
「ナマエがどんな顔と声してるか、分かると嬉しいねェ〜」
とても楽しそうなその言葉に、そうだねとナマエも頷いて、その手がそっと手の中の箱を手放す。
何をされるか全く分からないのにもう不安を感じていないのは、正義の海軍大将が守ってくれると約束してくれたからに違いなかった。
END
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