ごはんの話
※幽霊のようなそうでないような主人公
「ナマエ、これ食ってみろい」
言いながらテーブルに皿を置いたマルコに、俺は首を傾げた。
そうして座っていた椅子から立ち上がって近付いて、マルコが置いた皿の上のものを見下ろす。
「……果物?」
聞こえないとわかってはいるけれども呟いた俺が見つめた先にあったのは、小分けに切られたみずみずしい果物らしきものだった。
ただし青い。みかんとかグレープフルーツのような見た目だけど、果肉どころかみずみずしさを演出するその果汁すら青い。
ワンピースの世界は、俺が知らないもので溢れすぎだと思う。
食べられるのだろうかと見つめた先で、マルコがひょいとそのうちの一つを摘んで、ぱくりと口へ運んだ。
どうやらちゃんと食べられるものらしいともぐもぐ口を動かすマルコを見やってから判断して、俺もそっと手を伸ばす。
小さなそれを摘み上げれば、皿の上を見たマルコがにまりと笑った。多分、俺が摘んだ果物はマルコからは消えて見えたんだろうと思う。
自分の顔の前まで持ち上げて、俺は青いそれをしげしげと眺めた。
ワンピースの世界に来てから、こうやって食べ物を手にするのは久しぶりだ。
だって、俺は腹も減らないし喉も渇かないし、トイレに行きたいとも思えないし汗も掻かない。
今のまるで幽霊みたいな現状での、不幸中の幸いはそこだった。
俺がいるこの場所はモビー・ディック号という名前の船の上で、つまり水も食料も積める数は決まっているのだから仕方無い。
多分、これはマルコの分なんだろう。
「ありがとう、マルコ。いただきます」
大事なビタミンとかそのあたりの栄養素を含んでいそうな果物を分けてくれたマルコに、聞こえないけど感謝の言葉を投げてから、ついでに久しぶりすぎる挨拶を零して、俺はあーんと口を開けた。
手に持っていたものを口の中へと放り込む。
けれどもおかしなことに、口の中に衝撃を受けたりはしないまま、後ろのほうでぽとりと小さく音が鳴った。
「……ん?」
戸惑い後ろを振り返れば、土足で歩いている床の上に先ほど俺が摘んでいたひとかけらの果物が落ちている。
俺と同じように物音を聞いたらしいマルコが、椅子に座ったままで床の上を窺ってから、軽く首を傾げた。
「何だ、落としちまったのかよい」
案外ドジだねい、とマルコは言うが、俺に落とした覚えは無い。
確かにこの指で持っていたし、確かに口へ放り込んだと思う。
屈みこんで果物を拾い上げてから、俺は砂がついて汚れてしまったそれを見下ろした。
確かに口に入れたはずのそれが、どうして後ろへおちたんだろうか。
日本人としてはもう口に入れたくない不衛生さを持っているそれを、そっと自分の掌に乗せてみる。
うん、問題なく乗っている。
それを確認してから、もう一度摘んだ俺は、今度はそれを自分の腕の上に乗せた。
汚れないからと着っぱなしの服の上に乗っても、問題なく果物はそこにある。
それを見つめてから、更にもう一度摘んで、恐る恐る自分の口へと運んでみる。
どう考えても不衛生だけど、確認するには口へ入れる必要があると思ったからだ。
口の真ん中でぱっと放すと、俺の口中で落下した果物は、そのまままたぽとりと音を立てて床まで一直線に移動した。
「……ナマエ?」
音を聞きつけて、再び床の上に落下した果物を見たマルコが、不思議そうな声を出す。
「……あの、ごめん、マルコ。俺食べられないみたい」
そんなマルコへそう声を掛けて、俺も足元に落ちた果物を見下ろした。
指で摘めるし手で持てる果物は、どうしてか俺の口へは入ってくれなかった。
どうしてだかは分からないが、今の幽霊みたいな状態と何か関係があるのかもしれない。
食べられないと分かると、この果物の味がとても気になる。においも柑橘系だったけど、やっぱりみかんとかみたいな甘酸っぱい味なんだろうか。
とりあえず落ちてしまった可哀想な果物を拾い上げて、マルコが持ってきた皿の端にそっと置いた俺に気付き、マルコが首を傾げた。
「……落としちまったんなら、他のを食うかよい?」
「いや、いいよ」
言いながら皿の上の綺麗な果物たちを指差されて、とりあえずマルコの机の端に置かれた本を持って机を三回叩く。
イエスは二回でノーは三回というのが、俺とマルコが二人で決めた約束だ。
『はい』『いいえ』でしか答えられない俺からの返事を受けて、マルコが不思議そうな顔をした。
「嫌いだったかい?」
食べたことも無い果物を相手に嫌いも好きも無いんじゃないだろうか。
そう思ったので、もう一度三回叩く。
ふむ、と顎に手を当てたマルコは、もう一度皿の端に置かれた可哀想な果物を見やって、もしや、と言いたげに口を動かした。
「……食えねェのかい?」
「そうみたいだ」
マルコへ答えながら、今度は机を二回叩いた。
俺の声は聞こえなくても、ちゃんと俺の答えを理解してくれたマルコが、そうかい、と呟いて少し眉を下げた。
「ごめんな、マルコ」
聞こえない相手にもう一度謝ってから、俺はそっと本をマルコの机へ戻した。
今まで食べ物や飲み物を口にしようと思ったことすらなかったから、自分が食べ物を受け付けない体だったなんて知らなかった。
もしかすると、飲み物を飲もうとしたら床をびしゃびしゃに濡らしてしまうのかもしれない。試す前にわかって本当に良かった。
けれども出来たら、マルコの貴重なビタミン源を一つ無駄にする前に分かればもっと良かったのに。
ため息を零した俺の前で、マルコが頬杖をつく。
「……これだけが食べられねえのかもしれねェから、後でいろいろ試してみようねい」
「え? いや、いいよマルコ」
何やら実験をしようとしているらしいマルコへ、慌てて俺は首を横に振った。
けれども、マルコには俺の姿も見えないし声も聞こえないのだから、当然理解してもらえない。
マルコの手がひょいともう一個果物を摘んで、その口へと放り込む。
もぐもぐと口の中のものを噛んでから、うまいもんは誰かと一緒に食うのがいいからねい、と呟いたマルコの気遣いはとてもありがたいものだったけど、結局俺は、それからも何かを食べたり飲んだりすることはできなかった。
指で摘んでいる間は舐められるし味も分かるけど、ずっと手で持ったままでいるわけにもいかないんだから仕方無い話だ。
「……まあ、お前の所為じゃねェんだ、気にするなよい」
あれこれと食べ物が犠牲になってとても申し訳なかったけど、何度かの実験の後で、俺のことが見えているわけでもないのにそう言ったマルコは俺を慰めるように笑っていてくれたから、うん、と頷くことができた。
マルコへ伝えるために置いてあった置物で机を二回叩いたら、それでいいんだよいとマルコは更に笑ってくれたのが、唯一の救いだった。
end
戻る | 小説ページTOPへ