とある風邪っぴきの話
がん、がん、がん、と派手に音を立てて割った氷が、サッチの大きな手によって水を張った容器へ放り込まれた。
ちゃぷりと小さく音を立てたそれを見やって、持っていく間に冷えればいいかと白い薄手のタオルも放り込んでから、小さめの水入れをそのままトレイに乗せる。
トレイの上に先に居座っていたリゾットを少し端に寄せてから、他に何か必要なものは無いかとサッチの目が厨房を見やった。
「……ん?」
その視界の端で何かが動いて、サッチが視線を戻すと、先ほどまでカウンターの端に置かれていたトレイが丸ごと姿を消していた。
先ほどまで漂っていたリゾットの香りも消えていると気付いて、ぱちぱちと目を瞬かせたサッチの顔が、仕方なさそうに笑みを浮かべる。
「……マルコにちゃんと食わせとけよ、後でおれも様子見に行くからよ!」
夜遅く、誰もいない食堂に響いたサッチの声に答えるように、出入り口付近の椅子が二回ほど揺れた。
そうして閉じていた筈の食堂の扉が音もなく開いて、また閉じる。
静かにそれを見送ってから、サッチはひとまず先ほど使用した鍋を洗うために捕まえた。
ざばりと水へつけたそれを丁寧にスポンジで擦りながら、その口からため息が漏れる。
「まーったく、無茶しやがって」
やれやれと肩を竦めて呟くサッチの顔には、苦笑いが浮かんでいた。
※
ちゃぷり、と水音がする。
ナマエの手が氷の浮いた水をかき混ぜるようにして、水を吸って濡れたタオルを持ち上げた。
丁寧にそれを絞って、ひんやりとしたそれをそのまま傍らに眠るマルコの額に乗せる。
わずかに触れたその体は温かくて、ナマエの眉間には皺が寄った。
「……無茶するから……」
思わず呟いて、今だ眠る海賊を見下ろす。
昨日、冬島からモビーディック号へと戻った不死鳥マルコは雪まみれだった。
どうやら吹雪に遭遇したらしく、島に近付くのは少ししてからの方がいいと他のクルー達と話をした後、体を温めに風呂に入っていた。
けれどもどうやら手遅れだったらしく、自覚症状があったくせに仕事を始めて案の定倒れて、今はぐったりとベッドの上の住人だ。
診察した船医によれば『ただの風邪』であるようなので、大事には至らないという話だが、辛そうなマルコを見ているとナマエも焦りが止まらない。
汗をかいたマルコの着替えを手伝ったし、食事も運んだし、薬を飲むのも見守って、今のようにタオルを換えたりもしている。
クルー達が部屋を訪れた時は驚かれるので大人しくしているが、それ以外では基本的に、ナマエはかいがいしく動き回っていた。
ちらりと手元を見下ろして、先ほど水の張った容器へ入れたはずなのにすっかり乾いている掌を見やる。
どういう基準なのかはナマエ自身にも分からなかったが、ナマエは水に触れることも叶わなかった。
水分や食料を取らずとも問題ない体でなかったら、今頃脱水症状を起こして死んでいることだろう。
暑い寒いも分からないし、ここしばらくは怪我らしい怪我も病気らしい病気もしたことがない。
高熱を出しているマルコを見やって、そっとナマエはベッドの横に腰を下ろした。
ベッドにもたれかかるように両手を触れて顔を乗せると、シーツの感触が頬に触れる。
「…………苦しそうだな」
とても近くでマルコの顔を眺めながら、ナマエはぽつりと呟いた。
寝ている病人の耳元で何かを呟くだなんて迷惑極まり無い行為だが、ナマエにとっては問題の無いことだった。
何故なら、ナマエは誰にもその姿が見えず、声が聞こえず、あちらからは触れることもできないからだ。
マルコがナマエに気付いてくれなかったら、ナマエは誰の目にも見えない亡霊のような存在として、今もモビーディック号の中をうろうろと彷徨いながら夢の終わりを待っていたことだろう。
マルコは、この船の中で一番最初に、ナマエの名前を呼んでくれた海賊だった。
そんな彼が、苦しそうにしているのを見るのは忍びない。
そんなことを考えながらそっと手を伸ばしてマルコの額に乗せたタオルに触れたナマエは、もうすでにそれがぬるくなってしまっていることを確認して、すぐさまそれをマルコの額から取り上げた。
そのまま体を起こして、サイドテーブルに乗せてある水入れの中へとタオルを落とす。
タオルの端を掴んで水の中でそれをかき混ぜてから、両手でタオルをきちんと絞って、先ほどと同じように軽く畳んだそれをマルコの額へ乗せた。
そこで、すかり、と何かがナマエの腕を通過する。
「ん?」
右から左へ動いたものを追いかけたナマエは、ぱたんと倒れたそれがマルコの腕であることを理解した。
足元へ向かって真っすぐ伸ばされていた右腕が、今は少し持ち上がり、自分の顔の横にその掌を当てている。
何か気になるものでもあったのか、とナマエが戸惑い見下ろした先で、タオルを額に乗せたマルコがうっすらと目を開けた。
「………………」
熱に浮かされてぼんやりとした目が、宙をさまようように軽く揺れる。
「……れ、だよい?」
掠れた声で囁かれて、タオルを手放したナマエは慌てて周囲を見回した。
きょろりと周囲を見回してから、一番近かった氷と水の入った容器を捕まえて、軽く持ち上げて落とす。
水音を立てながらテーブルを叩いた硬い音に、やや置いてから、ああ、とマルコが声を漏らした。
「……ナマエかい」
「そうだよ」
聞こえないと分かっていても、ナマエはとりあえず返事をする。
その手でもう一度水入れを持ち上げて、今度は二回、容器の底がテーブルを叩いた。
「マルコ、大丈夫か?」
苦しいだろうと見つめた先で、こほん、と軽くせき込んだマルコが、自分の額のタオルを左手で捕まえる。
そして額からそれを外しながらゆっくりと起き上がって、ぼんやりとした様子で室内を見回した。
「…………みず、あるかい」
マルコから見ればひとりきりでしかない室内で呟かれて、あるよ、とすぐさま答えたナマエが立ち上がる。
その手が水入れのすぐそばに置いてあった小さい水差しを捕まえて、食べ終わった後の食器に並んでいたグラスへと中身を注いだ。
そうしてそれをマルコの元まで運んで、はた、と気が付く。
「……どうやって渡せばいいんだ?」
ナマエの姿は、マルコにも見えないのだ。
そして、ナマエから見た限りでは分からないことだが、ナマエが『完全に』持ち上げた物体も、同じように見えなくなるらしい。
何かに接触すればまた見えるようになるらしいが、座り込んだマルコが手の届く範囲に、平たく安定した場所は一つも無い。
「えーっと……」
「ん」
サイドテーブルを引き寄せたほうがいいんだろうか、なんて考えて水入れと水差しの乗せられたテーブルを見やったナマエへ、マルコが声を放った。
それと共に、ナマエがいるのとは少し見当違いの方向に、マルコの右手が伸ばされる。
掌を上にしたそれを見て、ナマエがぱちりと瞬きをした。
「……だ、大丈夫か?」
直接渡していいものかと問いかけてみても、当然ながらマルコにそれは聞こえない。
少しだけ悩んだナマエは、けれどもマルコが手を軽く上下に振って催促するのを見て、仕方なく持っていた水入りのグラスを上部だけで持ち直し、そっとマルコの掌へ触れさせた。
ぺたり、と乗せれたそれを、マルコの手がしっかりと掴む。
それを見てから手を離せば、ちゃんと水入りのグラスを受け取ったマルコがそれを口に運んだ。
ごくごくと中身を飲み干して、その手が空になったグラスをベッドの上に置く。
それをナマエが回収すると、ナマエのいるあたりをちらりを見やったマルコが、軽く息を吐いてからもう一度ベッドの上に倒れ込んだ。
その手が先ほど額から降ろしたタオルを乗せ直したのを見て、グラスをサイドテーブルに置いて自由になった手でナマエがマルコのタオルに触れる。
ただの濡れタオルでしかないそれは、先ほどまでマルコの片手で握られていたせいで、すっかり温かくなってしまっていた。
ひょいとマルコの額からそれを奪い取って、すぐに水入れに放り込む。
何度もやったように冷たい水で冷やしたタオルを硬く絞って、折り畳んでマルコの額へ戻すと、冷えたそれが気持ちいいのかマルコが軽く目を閉じた。
「……苦労かけるねい」
水を飲んだからか、掠れてはいるものの先ほどより滑らかに動いた口に、改めてベッドのそばに座り込んだナマエが少しばかり俯く。
「いいよ、俺、このくらいしかできないし」
一人きりの部屋で倒れてたマルコを目撃して、飛び上がるほど驚いたナマエは必死になって人を呼ぼうとしたが、どう頑張ってもナマエの声はいつも通り誰にも届かなかった。
どうにかマルコをベッドへ引っ張り上げても、せめて船医の診察がなければどうにもならない。
仕方なく近くの大部屋で大きな物音をたくさん立てて何人かのクルーの注意を引いたが、そこにいるのが『ナマエ』であるとは認識してくれても、ナマエが何を言いたいのか理解してくれる者がおらず、泣きたくなったのは数時間前のことだ。
結局『ナマエをどうにかしてくれ』とマルコへ直訴しに行ったクルーが熱を出しているマルコを見つけて、ようやくマルコは船医に診察してもらうことができたのだ。
声も伝わらず存在も認識してもらえないことがどれほどもどかしいか知っているつもりだったが、ああもつらい思いをするとは思わなかった。
見下ろした先で、相変わらず水にも濡れない手が膝の上で拳を握る。
自分の現状に、あれほど苛立ったのは初めてだったかもしれない。
じわりと目に熱がこもったのを感じて慌てて顔を上げてから、ナマエはマルコの方へと視線を戻した。
「もう少ししたらさっき飲んだ薬が効いてくるらしいから、そうしたらもうちょっと楽になると思うんだ。だから、もう少し寝てた方がいい」
声の伝わらない相手へそう言いながら、ナマエの手がマルコの上の掛布を掛け直す。
寝かしつけられていると気付いたのか、おれはガキかよい、と呟いたマルコがナマエがいる辺りを見やった。
目が合わないものの、自分の方をわざわざ向いたマルコに気付いて、どうかしたのかとナマエが首を傾げる。
熱で少しぼんやりとした目のままで、マルコの口元に笑みが浮かんだ。
「…………お前、落ち込んでんだろい」
「え」
顔も姿も見えず、声も聞こえないはずの相手に言われて、ナマエは思わずおかしな声を漏らした。
何も聞こえていないはずなのに、何となくわかるよい、と更に笑って、マルコの目がそっと閉じる。
「お前が騒いだおかげで早めに薬も貰えたことだし、無茶したのはおれが悪い。さっさと治すから……そう、気にすんなよい」
そんな風に呟かれて、ナマエはぱちぱちと目を瞬かせる。
横を向いたまま、言葉を残して眠る体勢に入ったらしいマルコは、薬のせいでかそのまま意識を落としてしまったようだった。
小さく寝息を零し始めたマルコを見つめて、やや置いてからナマエの手がそっとマルコのそばに置かれる。
シーツをその手が握りしめて、ナマエはじっと目の前に眠る海賊を見つめた。
ナマエの目の前で今眠り込んでいる彼は、この船で一番最初に『ナマエ』に気付いた海賊だった。
マルコがナマエに気付いてくれなかったら、ナマエは誰の目にも見えない亡霊のような存在として、今もモビーディック号の中をうろうろと彷徨いながら夢の終わりを待っていたに違いない。
だって誰もナマエのことが見えないし、触れないし、その声すら届かず、ナマエの名前すら知らなかったのだ。
「…………うん、早く元気になってくれよ、マルコ」
そしてまた名前を呼んでほしいと呟いて、ナマエは大人しくマルコの傍に控え、看病を続けることにした。
end
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