突発リクエスト1
※『小さな噂話』の続編。
マルコの部屋には、『誰か』いる。
そんな噂が当たり前になって、しばらくが経つ。
きしりと音を立てて扉が小さく開かれたのに気付いて、マルコはちらりと扉のほうを見やった。
誰もいないその場所で、風にでも煽られたかのように開いた扉が、それからぱたんと閉ざされる。
それからベッド脇に置いた椅子の上の本がふっと消えて、更にはこの間持ち込んだサイドテーブルにそれが唐突に現れたのを目視したマルコは、用事は済んだとばかりにその視線をそちらから外した。
今のは、マルコの部屋に噂の『誰か』がいるという合図だ。
姿も見えず、声も聞こえず、見聞色の覇気ですら気配の一つも感じ取れないその『誰か』は、マルコが確認したところによると『ナマエ』という名前らしい。
あまり文字が得意でないらしいその『誰か』は男で、どうもマルコより年下だ。
モビーディックにどうして乗っているのかも、自分がどうしてそんな状態になっているのかも分からないというナマエは、マルコがその存在を認識してから、よくマルコの近くにいるようになった。
触れもしないから、どこに立っていてもぶつかることは無いだろうが、部屋にいるなら自分がどこにいるか分かるようにしろとマルコが求めたら、ナマエは移動する際に何か物を動かしていくようになった。
どうやら、ナマエが持ち上げられるものはナマエに持ち上げられている間は消えていて、どこか一箇所でも他の何かに触れていれば姿が見えるようになるらしい。
今は椅子に座っているらしいナマエが開いたのか、サイドテーブルの上でひとりでに本が開く。
ぱらぱらと紙をめくるその様子に、マルコはその手に持っていた書類を軽くまとめた。
「読めるかい?」
自分以外には誰もいないように見える部屋にマルコの声が響けば、ぱらぱらとページを繰っていた本がぴたりとその動きを止める。
そして本が一度閉ざされて、ふわりと浮き上がり、とんとんとん、とテーブルを三回叩いた。浮き上がるたび消えてテーブルにぶつかるたびに姿を現す本が、ちかちかとその場で存在を主張する。
物を叩いて音を出すのは、ナマエからできる唯一のコミュニケーションだ。
どうやら、マルコが借りてきた本は、ナマエには少々難しかったらしい。
返事をしたナマエが申し訳無さそうにしているのか苦笑いしているのかは、残念ながらマルコからは確認のしようがない。
だからマルコはそうかいと頷いて、書類を片手に立ち上がった。
「それじゃ、もう少し絵のついた本にするかよい。読めない字を眺めてたって、つまんねェだろい」
ナマエが手放した本の寝転ぶサイドテーブルに近付いてマルコが発言すると、またしてもちかちかと点滅しながら、本はテーブルを三回叩いた。
二度も返された拒絶に、マルコは首を傾げる。
ナマエがまだ掴んでいるのだろうその本は、ナマエの暇つぶしにいいだろうとマルコが借りてきたうちの一冊だ。
それも、ナマエは文字が苦手であるということを失念していたから、挿絵すらろくについていない海賊の冒険譚である。
白ひげ海賊団は大所帯で、その構成員はさまざまだ。
育ちの関係で読み書きの出来ない者もいて、そういった連中に『勉強』させるために使う本もあるから、それを持ってきてやろうかと思ってのマルコの発言を、どうしてナマエは拒否するのだろうか。
そこにいるだろうナマエを見つめれば、ぱたりとテーブルの上に倒れた本がぱらぱらとめくられて、そのうちぴたりと止まる。
どうやらナマエがマルコに見せたいらしいそのページを、マルコはひょいと見下ろした。
「ん、何だよい、アイランドクジラの話かい」
世界一大きくなる鯨の話が、そこに書かれていた。
海賊が島かと思って上陸したら鯨だった、なんていうそんな笑い話の様な内容に、マルコは首を傾げる。
その内容の、どこがナマエの注意を引いたのだろうか。
よく分からないでいるマルコの前で、ぴらぴらとそのページが揺らされた。
それからもう一度倒してそのページを見せられて、少しばかり考えたマルコの口が、そこに書かれた文字を読み上げる。
「『それは黒く大きな岩のようだった。木々の一つも生えていない。けれども、偉大なる航路を旅する最中では一時の休息が心の支えになる。我々はその島のようなものに上陸することにした』」
ほんの数行を読んでみてからマルコが言葉を区切ると、少し置いて、また先ほどのようにぴらぴらとページが揺らされた。
その様子に、マルコの口から小さく笑みが漏れる。
「仕方無ェ奴だよい」
言い放ち、マルコは自分が持っていた書類を軽く揺らした。
「これをイゾウの奴に届けてくるから、ちっと待ってろい」
言い放てば、ふわりと浮いた本がまたしても消えて現れてを繰り返し、サイドテーブルは二回叩かれた。
三回叩くのは、否定や拒絶の合図。
そして、二回は肯定や了承の合図だ。
どうやら、ナマエはマルコが選んできた本を気に入ったらしい。少なくとも、読めないからとマルコを付き合わせようとする程度には。
今、本をテーブル上に置きなおしただろうナマエがどんな表情をしているのかはマルコには分からないが、少なくとも仏頂面ではないだろうとマルコは思った。
もしかしたら、少し嬉しそうな顔をしていたりするのかもしれない。
「それじゃ、すぐ戻ってくるよい」
そう言葉を置いて、マルコはそのまま部屋を出た。
イゾウの部屋へ足を向けて、さっさと辿り着いたその部屋の扉を叩き、室内にいた部屋の主へ手に持っていたものを手渡す。
「こないだの資料だよい。読み終わったら、いつも通りオヤジに提出しとけ」
「ああ、分かった。……どうしたんだいマルコ、随分と機嫌がよさそうじゃないか」
書類を受け取って頷いたイゾウは、そんな風に言いながらその視線をマルコへ向けた。
言われた言葉に、マルコがん? と声を漏らす。
「そうかい?」
「ああ。何か楽しいことでも書かれてるのか?」
問いながら手元の資料へ視線を落としたイゾウに、マルコは不思議そうに瞬きをした。
「別に、いつもと変わらねェよい」
そうは言ってみるが、言われて確認してみれば確かに、自分の口元が少し緩んでいるように感じられる。
ぱらぱらと資料をめくって中身を確認したイゾウは、確かにそうみたいだな、とつまらなそうに呟いた。
「それじゃ、ここまで来る間に何か楽しいことでもあったか?」
そう尋ねられて、マルコは首を横に振った。
イゾウとマルコの部屋は近い。部屋を出てからここへ来るまで誰とも会わなかったし、何かが起こったわけでもなかった。
マルコの回答に少しばかり不思議そうな顔をして、イゾウが重ねて問いかける。
「じゃあ、部屋に戻ったら何かお楽しみがあるのかい」
酒でも置いてきたのかとにやりと笑うイゾウに、そんなわけがあるかと否定したマルコは、けれども部屋で待っているだろうナマエのことを思い浮かべた。
表情の変化を読み取って、イゾウが首を傾げる。
その目が少しばかり探るようにマルコを見やって、それから、ああ、とその口が言葉を零した。
「『誰か』を待たせてんだろう。何か約束でもしたのか」
どこか面白そうに、イゾウが言う。
マルコの部屋には『誰か』いる。
ひそひそと囁かれていた小さな噂は、今ではただの事実としてモビーディック号の中に確立されていた。
実際、姿は見えないし触れることも声を聞くこともできないものの、ナマエは『いる』のだから仕方無い。
食事も水すらも必要ないらしいナマエは、しばらくの間、モビーディック号に乗っているのだから役に立とうとあちこちで怪奇現象を起こしているようだ。
マルコの部屋に見知らぬ『落し物』が運ばれてくることも一度や二度ではないし、ひとりでに干される洗濯物を見て卒倒した信心深いクルーもいるが、マルコへの荷物などはナマエが運びやすいように分かりやすい場所に置かれたりもする始末だ。
よくマルコの部屋で過ごしているナマエの存在を、モビーディック号の誰もが認識しつつあるのだ。
「そうだねい。もう戻っとくから、何かわかんねェ箇所があったら、聞きにこいよい」
「はいよ。『ナマエ』によろしく伝えてくれ」
マルコの言葉にイゾウが笑って、ひらりと手を振ってマルコを部屋から送り出した。
扉を閉ざして自室へ戻る道を歩いて、マルコはそのまま自分の部屋へと入り込む。
マルコが扉を閉ざすと同時に、サイドテーブルの上に開かれたままの本が持ち上げられて消えて、そうしてすぐにまたテーブルの上へと戻った。
マルコが言ったとおり、ナマエは椅子に座ってマルコを待っていたらしい。
ナマエはそこに確かにいるが、マルコには全く見えない。
今どんな表情をしてマルコを見ているのかも分からないし、どのくらいの身長なのかもどんな顔なのかも、どんな声なのかすらも分からない。
それでもマルコはほんの少し笑顔を浮かべて、『誰か』が座っている椅子と本が置かれたサイドテーブルのほうへと近寄った。
すぐ傍のベッドへ腰を下ろして、丁度ナマエの向かい側になるだろう位置から、サイドテーブル上の本を見下ろす。
「それじゃ、読んでやろうかねい」
穏やかな声で呟いたマルコを促すように、開かれた本の一ページがぱたりと不自然に揺らされて、本の向きがマルコのほうへと変わった。
寄越された紙面の文字を目で追って、マルコの口が本の中身を声に起こす。
平和に満ちた穏やかな昼下がり、文章を音読するマルコの向かいには『誰か』が座っている。
自分が相手と同じくらい穏やかな顔をしていることなど、ナマエが見えないマルコには知る由もなかった。
end
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