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小さな噂話
※幽霊のようなそうでないような主人公




 ここがどういった世界なのかを、ナマエは知っている。
 海にはナマエが知っているクジラより大きな生き物がたくさん生息しているし、見たこともないような動物や食べ物や常識が世界中にあふれている。
 いわゆる異世界と呼ぶべきその世界は、けれどもナマエが『知っている』世界だった。
 一人の人間が生み出した世界に入り込んでしまったなんて、全く、意味が分からない。

「……ふわ……っ」

 大きくあくびを零しながら足を動かし、ナマエは今日も甲板へ出た。
 澄んだ空が真上に広がっている。
 海が見えないのは、ナマエのいる船がとてつもなく大きくて、囲うようにそびえる縁も当然高いからだ。まあ、船長の大きさを考えれば納得の高さである。
 すう、と大きく息を吸い込んで吐き出し、ナマエは空を見上げた。
 夜から変わり始めた色を宿した空の彼方に、青い光が見える。
 それはだんだんと大きくなって、どうやら青い炎の塊らしいと気付いたナマエは、それを見ながら慣れた動作で甲板の端へと移動した。
 数秒を置いて、青い炎が先ほどまでナマエが立っていた位置へと降り立つ。
 それは炎を纏った大きな鳥で、けれどもその姿は瞬く間に人の姿へと変化した。
 黄色い髪を奇抜に生やした男を見やって、ナマエが口を動かす。

「おはよう、マルコ」

 声を掛けられた男は、少し置いてからきょろりと周囲を見回し、そうして軽く首を傾げた。
 その顔に少しばかり笑みが浮かんで、その口が言葉を零す。

「今日も晴れそうだよい」

 そのまま、マルコが一瞥も寄越すことなく歩いていくのを見送って、ナマエは壁のような縁に背中を預けながら座り込む。
 今日も新しい一日が始まるのだ。
 大きな船が波に押されて揺れて、ころころと転がった空の酒瓶がナマエのほうへと移動してくる。
 それをひょいと右手で捕まえて、瓶の曲面に自分の顔が映りこまないのを確認したナマエは、そっとそれを甲板へ転がし直した。
 ある日突然、ナマエはこの船の上で目を覚ました。
 ナマエは、誰にもその姿を見ることが出来ない存在だった。
 いわゆる幽霊のようなものだろうか。
 けれども死んだ覚えもないから確証が持てない。
 相手からは触ることも出来ないし、ナマエが声を掛けても誰も返事を返してくれなかった。
 もしも自分で触ろうとしたものにすら触れなかったら、ナマエは自分がここにいることすら認識できなくなっていることだろう。
 空腹を感じることも無ければトイレに行きたいとも思わない自分の状態が、正常でないことはナマエにも分かっている。
 これは夢なのかとも思ったけれど、こうしてこの大きな船に存在してからはや三ヶ月、まだ目は覚めない。
 最初の一ヶ月は、躍起になって自分を認識してもらおうという努力をしていた。
 けれども、ナマエの声は相手には届かないのだからどうしようもない。
 英語が得意じゃなかったナマエは筆談すらうまく出来ないし、小さな物を持ち上げれば消えて、大きな物を持ち上げれば浮いて見えるらしく、信心深いクルーを無駄に怯えさせただけだった。
 一ヶ月で全部諦めて、けれども船から降りようとも思えないまま、ナマエはこうしてずっとモビー・ディック号の上にいる。
 騒がしい白ひげ海賊団のクルー達を眺めるのは楽しいが、やっぱり、少し寂しい。
 ナマエはこの世界を知っていた。
 この船に乗るキャラクターたちも知っていた。
 せっかく目の前にいるのに、たった一言も話せないなんて侘しいことこの上無い。
 仕方ないからあちこち歩き回っているが、やっぱり、誰もナマエを認識してはくれないままだ。

「あー……早く目ェ覚めないかな」

 そんな風に呟いてナマエが見上げた先には、青い空が広がっているだけだった。







 最近、船内で不思議な出来事がよく起こるようになった。
 曰く、散らかして出たはずの倉庫の中が片付いていた、だとか。
 誰も使った覚えの無い道具が出ていた、だとか。
 開けた覚えもない部屋の扉が開いていた、だとか。
 物が消えたり現れたりした、だとか。はたまた浮いていただとか。
 誰もいない場所で背中を叩かれた、だとか。
 一部のクルーは幽霊なんじゃないかと噂をしているが、マルコは鼻で笑っただけだった。天下の白ひげ海賊団が、幽霊だなんていうものに怯えてどうするのだ。
 そう言ったマルコに、お前はそう言うと思ったよ、なんてサッチが笑ったのが、つい一昨日のこと。
 これは一体どういうことだと、マルコは机に伏せたままで考えていた。
 偵察した島から夜通し飛んで、簡単な報告書を作成しようとしたところで襲ってきた睡魔によって眠り込んでしまったマルコの意識が浮上したのは、何かがそっとマルコの体にタオルケットを掛けたからだ。
 誰かが部屋の中に入ってきたのかと寝ぼけた頭で考えながら薄目を開けて、マルコは少しばかり怪訝そうに眉を寄せた。
 何故なら、部屋には誰もいなかったからだ。
 足音も無ければ気配も無い。
 けれども、マルコは眠りに落ちる前にタオルケットを掛けた覚えも無いのだから、『誰か』がいるのは明白だ。
 困惑しながらも眠ったフリをしているマルコの傍で、かちゃりと小さく物音がする。
 どうやら『誰か』が、マルコが転がしたペンを片付けているらしい。
 ふわりとペンが消えて、どこからとも無く現れたのを、マルコは確かに見た。
 驚きに僅かに体を強張らせながらも、まだ眠ったフリをしていたマルコに気付いた様子もなく、ペンを片付けたその誰かがペンから手を離す。
 そうして数秒を置いて、かちゃりとマルコの部屋の扉が開かれ、そして閉ざされた。
 やはり足音など何一つ聞こえないが、どうやら、今の『誰か』は部屋を出ていったらしい。
 しばらく考え込んでから、マルコはむくりと起き上がる。
 ずれたタオルケットが下へと落ちて、ぱさりと乾いた音を立てた。

「……今のは、何だよい」

 小さく呟いたマルコの声に、返事をくれる相手など誰もいない。
 困惑しながらも、すっかり眠気の消えた頭で、マルコは今の『誰か』が噂の『幽霊』なのかと判断を下したのだった。







 空腹も、寒さも暑さも感じないが、眠気だけは感じるナマエは、今日も昨日と同じく眠りにつくために船内を歩いていた。
 甲板で眠っても構わないのだろうが、ここはグランドラインだ、カミナリなんて降ってきたらいくらナマエとて何かあるかもしれない。
 いつも通り大部屋の端を借りて眠ろうと決めて歩いていたナマエは、けれどもいつもより騒がしい室内を眺めてため息を零した。
 どうやら、明日には島につくからと言うことで、部屋で酒盛りをしているらしい。甲板でやらないのは、いつもの宴よりは早めに切り上げるつもりだからだろうか。
 騒がしく、部屋に人が多い状況に、その場に寝床を求めることを諦めて、ナマエはそっと大部屋を離れた。
 今日は倉庫の辺りで眠ろうと考えて、そろそろと足を動かす。
 足音だってナマエには立てることが出来ないのだが、気分の問題だ。
 倉庫の一つへ向かう途中、半開きになっている部屋に気がついて、ナマエはその足を止めた。

「……ん?」

 覗き込んだそこは、書庫のようだった。
 湿った紙のにおいがするそこには、どうしてか毛布が落ちている。
 少し目を瞬かせて、ナマエはそっと扉を開き、中へと侵入した。
 埃のにおいが少しするが、最近掃除がされたのか、床は綺麗なものだった。
 落ちている毛布も柔らかそうだ。
 少し考えて、手を伸ばしたナマエは書庫の扉を閉じた。
 毛布を押して敷きなおし、その上にころりと転がる。
 いつもなら部屋の隅に転がって寝ているナマエにとって、毛布と言う一枚の補助は随分とありがたいもののように感じられた。
 誰かの忘れ物なのだろうが、どうせ毛布を取られてもナマエは気付かず床に置き去りにされるのだろうから、気分のいい今のうちに眠ってしまうべきだろう。
 そう決めて、ナマエはそっと目を閉じた。







 朝まで毛布は放置されていたらしく、ナマエは柔らかな毛布の上で目を覚ますことが出来た。
 ありがたい話だ、とせっせと毛布を折りたたんで端へ置く。
 少し船内が騒がしいから、もう夜が明けて少し経つのだろう。今日は寝過ごしたようだ。
 改めて周囲を見回して、書庫らしいここにはあんまり入ったことが無かったな、とナマエが思ったところで、がちゃりと扉が開かれる。
 驚いてナマエが視線を向けると、部屋へ入ってきたのはマルコだった。
 その目がナマエのいる辺りを見下ろして、それからきょろりと室内を見回す。
 誰かか何かを探しているのだろうか、と自分が折りたたんだ毛布の傍に座りながら首を傾げたナマエのほうへと、マルコの体が近寄った。
 その手が屈み込んで、ナマエが畳んだばかりの毛布を掴む。
 落ちている毛布を回収に来たのかと気付いたナマエは、乗せていた手をひょいと退かした。
 その際に、ほんの少しだけ毛布のしわが変わって、マルコの動きがぴたりと止まる。

「…………マルコ?」

 不審すぎる相手に、聞こえないとわかっていながらもナマエは呼びかけた。
 どうかしたのかと見つめた先で、毛布からそっと顔を上げたマルコが、正面からナマエの顔を見る。
 ナマエとは焦点が合っていないが、確かにマルコの視線はナマエのほうを見ていた。
 驚いて目を瞬かせるナマエへ、マルコが呟く。

「クラバウターマン……じゃあねェだろうねい」

 聞きなれない単語を寄越されて、ナマエは首を傾げる。
 もちろんそんなナマエの仕草など見られもしないのだろうマルコは、小さく息を吐いてからその手で毛布を持ち直して、ひょいとその場から立ち上がった。
 そのままナマエへ背中を向けて歩き出して、書庫から出ようと扉を開いたところで、マルコの視線が室内へと戻される。

「昨日はありがとよい」

 そうして誰もいないように見えるはずの書庫へと言葉を放って、一番隊隊長はそのまま書庫から出て行った。
 ただ一人残されてしまったナマエは、驚きのあまり丸く見開いた目で、きょろりと周囲を見回す。
 書庫には、ナマエ以外に誰もいない。
 だとすれば、マルコの言葉はナマエへと向けられたものなのだろうか。
 ナマエの声も届かず姿も見えずあちらからは触ることすら出来ないのに、マルコは今の言葉をナマエへと向けたのだろうか。
 嬉しいのか戸惑ってるのか自分自身も分からないまま、ナマエの顔がへらりと緩む。

「……どーいたしまして」

 ぽつりとナマエが呟いたその日は、白ひげ海賊団のモビー・ディック号に乗ってから初めて、ナマエが誰かにそこにいることを認識された日だった。







「マルコ、これ届けもんだってよ」

「おう、悪いねい。そこ置いとけよい」

 部屋へ訪れたサッチを見やって言葉を放ったマルコに、へいへい、と返事をしながらサッチは室内へ足を踏み入れた。
 その手が持ってきたものを適当にマルコが座るベッドへ放って、ついでその目がきょろりと室内を見回す。
 不審な行動を行うサッチに、本を読んでいたマルコが怪訝そうな顔をした。

「何か用かよい」

「いや、その、噂の真偽を確かめに?」

「噂?」

 サッチの言葉に首を傾げながら、マルコの手が本を閉じた。
 そうそう噂、と答えつつ、サッチの足が部屋に一つの椅子へ向かう。
 けれどもそのまま座ろうとしたサッチの動きを、マルコの手が本を放ることで阻止した。
 素早い投擲を、四番隊長が慌てて避ける。
 回転した本は椅子の後ろの壁にぶつかって、そのままぽとりと机と壁の間へ落ちた。

「あぶね! マルコ今顔面狙ってなかった!?」

「勝手に座るない」

 話があるならこっちにこいと両手を自由にしたマルコに手招きされて、意味が分からないながらもサッチが従う。
 自分の前まで来た相手を見上げながら、マルコが少しばかり眉を寄せた。

「それで、何の噂だって? 不名誉な内容だったら噂の根元を絶つから心して吐けよい」

「いや、おれが最初じゃないから。そんな怖い顔するなよ」

 立ったまま首を横に振って、サッチは答えた。

「何か、お前、おれらやオヤジに隠してることないか? 例えば、妙な目に遭ってるとか」

 真剣な眼差しを向けられて、マルコの眉間に皺が寄る。
 さらに続けたサッチの話に寄れば、マルコの周囲に怪奇現象が起きているらしい、というのが今回のくだらない噂であるらしい。
 いわく、マルコのために用意したものが誰が運んだわけでもないのにマルコのところまで運ばれていることがある、だの。
 マルコは確かに偵察に出ているはずなのに、マルコの部屋に運んだ荷物や書類が片付けられている、だの。
 マルコの部屋の扉が一人でに開閉するのを見た、だの。
 言葉を重ねていくサッチの前で、マルコは軽くため息を零した。

「別に放っといてもいいような内容じゃないかよい」

 うんざりした様子のマルコに、サッチが眉を寄せた。
 心配そうに『家族』を見下ろして、そういうことじゃないっての、と呆れたように声が漏れる。

「で、事実なのか?」

「さァ……どうだったかねい」

「やっぱ事実なんじゃねェか!」

 はぐらかすように言葉を紡いだマルコに、サッチが声を上げた。
 手を伸ばして肩をつかんでくるのを軽くいなしながら、マルコはちらりと自分の机を見やる。
 その端に、先ほどサッチへ向けてなげたはずの本が乗せられているのを見て、マルコの口元には笑みが浮かんだ。

「別に迷惑してるわけじゃねェんだから、気にするない」

 サッチに向けたのとも誰に向けたのとも知れない声が、その場に響く。
 確かにそうだけどよと呟くサッチの後ろで、『誰か』がどこか嬉しそうな顔で椅子に座っていたけれども、残念ながらマルコにもそれは見えなかった。


 マルコの部屋には、『誰か』いる。
 ひそひそ響く小さな噂は、少しの間もてはやされた後、モビー・ディック号では『当たり前』の状態になって廃れていった。



end


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