春眠暁を覚えず
※猫転生主
腹が減って腹が減ってどうしようもなくて、もう死ぬかもしれないという状況だったあの日、俺が目の前のものに食らいついたのは、それでもどうにか生き延びたいと思ったからだ。
『……ん? 何してんだよい、お前』
食べ物だと思って食らいついた先は人間の足で、小さな仔猫なんてそれこそ蹴とばして終わりだったろうにそんな風に声を掛けて俺をつまみ上げた相手は、猫が嫌いじゃなかったのか、俺をそのまま連れて帰った。
とんでもなくうまい飯を腹いっぱい食べさせてくれて、風呂にまで入れてくれた上しっかりと毛皮を乾かしてくれて、体力を使い果たした俺を笑って膝の上に乗せてくれた。
大きな手に撫でられるなんて言うのは『猫』に生まれ直して初めてのことで、あたたかいその掌に縋りたくなった俺を、馬鹿にする奴なんてきっといない。
マルコという名前で、なんと海賊だったらしい俺の拾い主は俺を島へと降ろそうとしたが、毎回逃げ回ったり隠れたりしているうちに、俺を手元に置くことを決めてくれたらしい。
『ナマエ』という名前を貰って、船の名前を知って、自分がどういう『世界』に生まれ直したのかにもそこでようやく気が付いたけど、俺は気にせず新しい猫生を生きていくことにした。
とんでもなくまずい果物を食べてからは少し事情が変わったが、方針を変更する予定はない。
「……よっと」
持ち上げたものを、そっと棚の上に置く。
昨日の大波で戸棚の高いところから落ちたらしい荷物達を、ようやく片付け終えたところだ。
モビーディック号は倉庫が多くて、あちこちで新人たちが片づけをしている。
俺が今いる場所は船倉の外れにある予備の倉庫で、置いてあるものは壊れないものばかりだからかすっかり後回しになっていた。
別に放っておいたって誰かが片付けるだろうが、猫である俺には作業が割り当てられることがほとんどないので、このくらいはしてもいいだろう。
「ふわ……っ」
それにしても眠気のわく気温だと、大きくあくびをした。
春島の海域に入ったらしいモビーディック号は、甲板も船内も、どことなく暖かだ。
後は日当たりのいい場所で眠っていようと心に決めて、軽く舌先で自分の手の甲を舐めてから、嫌な感触に眉を寄せる。
見やった『手』には濡れた形跡がしっかりとあって、そうだった、と声を漏らしてから体の力を抜いた。
視点が極端に低くなり、四肢の太さが変わっていく。
体は前傾姿勢からそのまま四足立ちに変容して、体中に自慢の毛が生えそろった。
一応誰かに見られたら誤魔化せるように、と羽織っていたシーツを伴って床へ這ってから、視線を自分の体へ向ける。
「……なあん」
『元通り』の姿に鳴き声を零して、俺はシーツを蹴とばして小さくまとめた。
シーツを変える日だからと洗い場に出すよう渡されたマルコのシーツからは、俺とマルコの匂いがする。
大きく口を開いてそれをまとめて銜え、俺はそのまま倉庫の中を歩き出した。
辿りついた扉のノブを前足で回して、慣れた手つきで通路へと出て、後ろ足で扉を蹴とばして閉じる。
高い場所へものを片付けるなら先ほどの姿がいいが、ただ船内を歩くだけなら元の姿に限る。
何せ、今の俺が一口で食べることが出来そうな仔猫だった頃から今まで、俺はずっとこの船に乗っているが、俺が悪魔の実の能力を得ていることを知っているクルーは誰一人としていないからだ。
伝えたって驚かれるくらいで嫌がられたりはしないだろうと分かっているが、俺自身の事情により、できれば隠し通したいことである。
「お? 何してんだ、ナマエ」
洗い物か、と声を掛けてきた相手へ視線を向けて、シーツを銜えたままの口から鳴き声を零す。
くぐもったそれに軽く笑って、通路の向こうからこちらへやってきた相手が、屈んで俺からシーツをひょいと取り上げた。
「今日は背中に乗せてもらわなかったのか?」
「にゃあ」
寄越された言葉へ、乗せてもらったよ、と返すために鳴き声を放つ。
マルコはきちんとたたんだうえで俺の背中へ乗せたが、それを使ったのは俺自身だ。
しかし当然ながら俺がまとったことを知らないサッチは、おとしちまったのか? なんて言って笑いながら、伸ばしたその手で軽く俺の頭を撫でた。
いろんな食材の匂いが染みついた大きな掌が、朝起きてすぐに整えた俺の毛並みを軽く乱す。
「よーしよし。今日はいい天気だったぜナマエ、甲板で昼寝してきたらどうだ?」
そんな風に寄越された言葉に、にゃあと鳴き声を零して耳を揺らす。
シーツは片付けてきてやるよと言い放ったサッチの手が俺から離れたので、俺は礼代わりに相手の膝辺りに頭を擦りつけた。
今日の夜は一度部屋にでも飛び込んで、背中でも踏んであげよう。
どうにも立ち仕事の多いサッチは大体いつも体のあちこちがこわばっていて、マッサージ代わりに踏むとそこそこ喜んでくれるのだ。マルコも同じ様子だったので、最近はちょくちょく俺の肉球が活躍している。
サッチはマルコが、マルコはサッチが教えたと思っているようだが、その誤解を解く予定は今のところはない。
「にゃあ」
よろしく、と心を込めて鳴くと、任せとけと言って笑ったサッチが俺の傍から離れて行った。
洗い場の方へ向かうその背中を見送ってから、足をそのまま甲板の方へと進める。
外へ出た途端に降り注ぐ穏やかな日光とあたたかな空気に、俺は思わず目を細めた。
もはや猫を殺しにかかっているとしか思えない陽気だ。この空気の中で眠ったら、とんでもなく気持ちいいに違いない。
しかし、そこいらに適当に寝ては誰かに尻尾を踏まれる可能性があるので、今日の昼寝に最適な場所を探して甲板の上を歩き出す。
昨日の嵐から一夜明けて、すっかりいい天気になったからか、あちこちでクルー達が作業をしている。
俺に気付いたクルーに声を掛けられ、時々頭や背中を撫でられたりしながら足を動かした俺は、やがてたどり着いた甲板の隅の日当たりの良い場所を覗き込み、そうして目を丸くした。
「なあん?」
「ん? ああ、ナマエかい」
俺の鳴き声に、言葉を寄越した相手がわずかに笑う。
あたたかな陽気の下、積み荷の傍に座り込んで木箱に背中を預けたマルコに、俺はゆるりと首を傾げた。
マルコは大体において、いつも忙しそうにしている。
今日だって、昨日の嵐のせいで荒れた船の中のあちこちを点検しに回っていた筈だ。
朝も俺にシーツを任せてすぐに部屋を出て行った相手を見つめると、休んどけって言われちまったんだよい、と俺の疑問に答えるような言葉をマルコが零す。
「まァ、船にも今んとこ目立った外傷はねェし、おれァ今日は見張り当番だからねい」
寝ろと言われたと言って笑ったマルコの言葉に、少しばかり耳を動かす。
たくさんのクルーでいろいろな役目を回しているのが『白ひげ海賊団』だが、そういえば確かに、マルコは今夜の見張り当番の筈だ。
昼下がりのこの時刻、そろそろ仮眠をとっておかなくてはつらいんじゃないだろうか。
「なあん」
鳴き声を零してマルコの横に移動すると、もうちっとしたら寝るよい、とマルコが言った。
そうしてそれから、その手がゆるりと俺の頭を撫でる。
サッチの掌とも違う、大きくてあたたかく感じるそれは、俺が一番撫でられて安心する感触だ。
「お前こそ、今にも目ェ閉じちまいそうじゃねェかよい」
ねみいのかい、なんて言って笑ったマルコに、にゃあと鳴く。
そうしてそれから、俺はマルコの横に座り込んで、体の後ろ半分をマルコの後ろにぐいぐいと押し込んだ。
気付いたマルコが木箱から背中を離したので、木箱とマルコの間に挟まるような格好になる。
ついでに尻尾もくるりとマルコの体に添えるように回すと、マルコがその背中を俺の方へと預けてきた。
「ナマエ?」
どうかしたか、と尋ねてくる言葉には応えずに、そっと体の力を抜く。
俺の体にその身を預けたまま、少し黙り込んだマルコは、それから小さく笑い声を零した。
「……なんだ、一緒に寝ろってかい?」
言いながら、その手がもう一度俺の頭を撫でる。
優しいその掌に、ぐるるると意識もしていないのに喉が鳴った。
俺の様子にまた笑い声を零してから、しかたねェ奴だよい、と呟いたマルコの体が俺の方へと沈んでくる。
「添い寝してほしいってんなら、してやってもいいよい」
恩着せがましい言葉が聞こえたが、怒るようなことでもないので、するりと尻尾を動かしてマルコの体を軽く撫でた。
動いたマルコの手が俺の尻尾を捕まえて、そのままゆっくりとその体から力が抜けていく。
頭もすっかり俺の方へ預けているので、穏やかなこの陽気の中、マルコが寝る体勢に入ったことはすぐにわかった。
そのことにほっとして、俺もゆっくりと目を閉じる。
言葉も通じないはずなのに、マルコは簡単に俺の意図を読み取ってくれる。
たまに変な誤解をされたり、もちろん通じないこともあるが、俺にとってはそれで十分だった。
だって俺は猫で、マルコは俺の飼い主だ。
年齢的なものを考えれば『人』の姿になった俺がいい大人の見た目になるのは当然だが、下手にそういう姿になることが知られたら、マルコがそれを意識して頭を撫でてくれなくなるかもしれない。
そんなもったいないことがあっていいはずがないので、やっぱり今のところ、俺が悪魔の実の能力を持つ猫だということは知られないほうが良いだろう。
「おやすみ、ナマエ」
「なあん」
寄越された言葉に鳴き声を返して、俺はそのまま甲板の隅でマルコと一緒に眠り込んだ。
春島の海域の穏やかな日差しは、猫にも人にも心地よいものだった。
end
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