真の闇より無闇が怖い
※若干のホラー
肝試しをしよう、とクルーの誰かが言い出したのは、うんざりするほどに暑い夏島にたどり着き、その島でのログが貯まるまでに数日かかると聞いた後のことだった。
マルコ達からすればため息しか出ないようなこの暑さに耐え続けて生きる島民達が教えてくれたという『いわくつき』の海食洞が、モビーディック号を停泊させた場所の近くにあったというのもその理由のうちの一つだろう。
幽霊だの何だのと言う話をマルコは信じておらず、同じようなクルー達と共に見送った先で、サッチやハルタ達は随分と肝試しを楽しんできたようだった。
何かが首元に触れただの、足を掴まれただの、影が見えただの、馬鹿馬鹿しいとしか思えない言葉を零して騒ぎ、ああ怖いと騒ぎながら酒を飲んでいる。
「うるせェよい」
暑いんだから静かにしろい、と呟きつつ同じように温い酒を口に運んだマルコは、その後で口からため息を零した。
本人達は涼んできたかもしれないが、若干興奮している彼らの様子は、マルコからすると暑苦しいの一言に尽きる。
今日が風のある夜だったならさっさと部屋に引っ込んでいるところだが、あいにくの無風状態だった。
もう少し静かにできねェのかよい、と呟いたマルコの横で、のそりと大きな影が動く。
それに気付いて見やれば、先ほどまでマルコの傍らでぐったりと甲板に転がっていた規格外の大きさの猫が、少し不機嫌そうに尾を揺らしながら騒がしい一団に近付いている。
「お、どうしたナマエ」
酒を飲みながらもそれに気付いたらしいサッチが声をかけると、その傍らで動きを止めたナマエが、ちょこんとそのまま座り込んだ。
先ほどまで揺れていた尾が動きを止めて、その代わりのように毛を膨らませる。
その顔はサッチの方へと向けられているが、その視線はサッチの顔には向かっていないとマルコも気が付いた。
マルコの位置から見て、ナマエが見つめているのは、サッチの右肩の上である。
「…………お、おい、ナマエ?」
じっと視線を注がれて、少しだけ不思議そうな顔になったサッチが猫の名前を呼びかける。
しかし、いつもなら『なあん』と鳴くはずのナマエはそれに返事をせず、少し低く唸りながら、ますますその視線を同じ場所へ注いだ。
何なんだ一体、とその様子に呟いたサッチを見やり、ははあ、と声を漏らしたのはイゾウだった。
「猫は『見える』っつうからねェ。何か連れて帰ってきたんじゃねェのかい、サッチ」
「は……?」
何とも楽しそうに言い放つイゾウの言葉に、サッチが戸惑ったような声を出す。
二人の会話にいち早く反応したのは、その周囲で話を聞いていた『肝試し』参加者の数人だった。
口々にサッチを罵りながら、『早く返して来なさい!』と動物を拾ってきた子供に言うような台詞を吐いて、一様にサッチから距離をとっている。
それを見てサッチが『ひどくね!?』と騒ぎ、なんだかんだとまた喧しくなった一団に、マルコが軽くため息を零した。
幽霊だの何だのと、そんなものをマルコは信じていない。
死んだ人間にどうこうされるつもりもないし、生きた人間の方がよほど残忍で油断ならないのだから当然だ。
「馬鹿かよい」
だからそんな風に呟いて、マルコは片手のグラスに口を付ける。
舌に触れる酒は温く、生温かなそれに少しだけ眉を寄せた。
※
何だかんだで遅くまで続いた酒盛りの後、潰れた連中を跨いで甲板を歩いたマルコがモビーディック号を降りたのは、酒の力を借りても暑さに負けてやってこない眠気に、少し涼むことを決めたからだった。
マルコが目指すのは、甲板の上ですっかり伸びていたサッチ達が『肝試し』を行ってきたあの海食洞だ。
ああいう場所は、外部よりある程度の涼しさを保っているのである。
さすがに大人数で行くと体感温度も変わらないだろうが、すでにサッチ達の『肝試し』は終わったのだから、今は静かであるはずだ。
まだ飲んでいたイゾウにどこへ行くのかと問われて返事をしたので、もし急な用事が発生してもマルコの居場所は明確である。
暗いだろうからと念のために片手にカンテラを持ったままで、ちらりとマルコが傍らを見やった。
「それじゃ、行こうかねい」
「なあん」
寄越された言葉に返事をして、マルコの傍らで猫がぴんと耳を立てた。
いつもなら船から降りることもあまりないナマエがマルコの横にいるのは、海食洞へ行くとイゾウに答えたマルコの声を聞いて、すぐさま傍へと寄ってきたからだった。恐らくサッチ達の様子から、暑い時に行く場所なのだと判断してしまったのだろう、とマルコは思っている。
人の姿をしているマルコでもうんざりするほどなのだから、全身が毛皮で覆われており、体の殆どから汗をかくことも出来ない猫であるナマエの感じる暑さは相当であるはずだ。
ナマエも涼める場所ならいいねい、とそちらへ笑いかけてから、マルコがゆったりとその場から歩き出す。
すぐそばにあった海食洞は静まり返り、奥は暗闇が広がっていた。
持ち込んだカンテラに火を灯して先に歩くマルコの後ろを、ナマエが続く。
モビーディック号を撫でる波音がじわじわと遠くなるが、すぐ傍の海水で満ちた溝はまだまだ先へと伸びて行っている。
「こりゃあ、随分深いねい」
カンテラをかざしてそんな風に言いながら、ある程度奥へ行ったところで波に丸くされた平たい岩を見つけたマルコは、そのままそこに座り込んだ。
手に触れた岩から感じるひんやりとした感触に、ふう、と軽く息を吐く。
予想通り、洞窟の中は外に比べてひんやりとしていて、随分と過ごしやすそうだ。
マルコと同じく岩の上によじ登ったナマエが、その冷たさを全身で感じようとするかのように、だらりとそのままそこに寝転んだ。
「気持ちいいかい」
「なあん」
問いかけたマルコに、ナマエが返事を寄越す。
ぐるるるると機嫌よく喉まで鳴らした猫に、マルコの手がひょいと伸ばされた。
岩に触れて冷えた手に撫でられるのが気持ちいいのか、ナマエが目を細めたのが、カンテラの明かりで見える。
少し押し付けてくるその頭をよしよしと撫でてやってから、ぽた、と何かが首に垂れたのを感じて、マルコは改めて周囲を見回した。
見上げた天井にはつららのようにぶら下がった鍾乳石があり、どうやら先ほど首筋に感じた滴はそこからのものであるらしいとマルコは把握した。
恐らくサッチ達を脅かす役目を担っただろうそれに軽く笑って、視線をそのまま洞窟の奥へと向ける。
静まり返った洞窟は、相変わらずカンテラの明かりも届かぬほど遠くまでその暗闇を広げていた。波が運んだり、風が岩を砕いたのだろうか、マルコの足元から続く奥地までを、砂が積もってつなげている。
マルコ達が座り込んだすぐ傍らには深い裂け目があり、そこに満ちた海水がカンテラの光をはじいているが、随分と深いらしいその底も見えない。
何が潜んでいるかも分からぬ水底の暗さは確かに不気味だと、静かなそこで裂け目の奥を覗きながらそんなことを考えたマルコは、ふと離れた場所から聞こえたそれに、ぴくりと体を揺らした。
カンテラの火も届かぬ奥で、何かの物音がしたのだ。
「……何かいんのかよい」
探ってみても気配を感じないが、確かに物音を聞いた筈だ。
動物か何かだろうか、と首を傾げながら、マルコはそのままそこから立ち上がった。
にゃあ、とナマエが不思議そうに鳴き声を上げるのを、お前はここにいろよい、と掌を向けて制して、音の出所を確かめようと足音を潜めて奥地へと近付く。
カンテラはナマエの傍に置いたまま、輝く火元に背中を向けて、暗闇の広がる彼方へとマルコは目を凝らした。
赤をひたすら濃ゆくしたような深い闇の奥から、じゃり、じゃり、と砂を擦る物音がする。
ほんのかすかな物音であるそれに耳を澄ませたマルコは、その物音が、どうやら砂を掘り返している音のようだと気が付いた。
砂を叩く鈍い音の後に、じゃり、と砂を掻く音が続くのだ。
自然に起きるとは考えにくい音であるし、時々砂の音に混じるのは鉄を砂が擦る物音に似ている。
だとすればそこにいるのは人であるはずだが、深い深い暗闇の中で砂を掘る人間などいるだろうか。
たとえ後ろ暗いことをしているのであっても、その手元を照らす灯りくらいは傍に置かなくては、移動の拍子にすぐそばの溝へ落ちてしまいかねない。
眉を寄せたマルコの背中を、だらりと汗がにじんで落ちる。
海食洞の中は涼しかった筈だというのに、妙に生ぬるい空気が奥からにじみ出てきているような気がして、少しばかりマルコの足が後ろへと引いた。
その拍子に、足元に広がっていた砂が、じゃり、と小さく音を立てた。
まるでそれを聞きとがめたように、奥から響いていた物音が止まる。
それと同時に、マルコはざわりと体に鳥肌が立ったのを感じた。
奥の暗闇には何も見えない筈なのに、まるでそこにいる得体のしれない何かに、その双眸を向けられたような気がしたのだ。
奥から漂う異様な空気に、こくり、とマルコの喉が上下に動く。
その手が拳を握り、何かあれば対処できるようにと身構えたところで、マルコの真後ろでがしゃんと大きく音が響いた。
「にゃっ!」
それと同時にナマエの悲鳴のような鳴き声がして、ほとんど時を同じくしてその場から灯りが消え、マルコは慌てて後ろを振り返った。
「ナマエ!?」
慌てて声を掛けながら、少しだけ開いていた距離を戻る。
どうやらカンテラが落ちたらしく、マルコの視界は暗闇一色だった。
鼻をつままれても分からないようなその状態に眉を寄せて、マルコの片腕がぼぼっと炎を零す。
熱の無い不死鳥の炎は青白く、カンテラよりは不安定だが確かに周囲を照らして、それを頼りに先ほどまで自分が座っていた岩へと辿り着いた。
そこに猫の姿が無く、きょろりと周囲を見回す。
「ナマエ? どこだよい」
「……にゃあん」
声を掛けたマルコの前で、岩の向こう側から顔をのぞかせた猫が鳴き声を零す。
その顔は少ししょんぼりとしていて、上からその姿を覗き込んだマルコは、岩から降りたナマエの傍らにカンテラの残骸があることを把握した。
みやった先のナマエの体はいつも通りで、見る限り怪我の一つもない。
そのことだけ把握して、ほっと小さく息を吐いてから、悪かったねい、とマルコは目の前の猫に詫びた。
平たい場所へ置いたつもりだったが、どうやらカンテラを置いた位置が悪かったらしい。
驚いただろうナマエの頭をゾオン化していない片腕で撫でれば、にゃあ、とナマエも鳴き声を零した。
どことなくしょんぼりとしているその声に、別にお前が謝ることじゃねェよい、とマルコは言葉を返す。
マルコが拾い、白ひげ海賊団の家族の一員となったナマエという名のこの猫は、随分と変わった猫だった。
普通の人間のように言葉を理解する賢いナマエは、恐らくカンテラが落ちたのは自分が悪いのだとでも言いたいのだろう。ひょっとしたら少し触ったりしたのかもしれない。
しかし、猫のナマエにカンテラの管理まで求めるつもりはマルコには無いし、他のクルーだってそうだろう。
「とりあえず、いったんモビーに戻るかい。この涼しさは名残惜しいけどねい」
さすがにずっと不死鳥化しているわけにもいかないと笑ったマルコに、なあん、とナマエが返事をよこす。
いつもと変わらぬナマエの鳴き声にわずかに笑ってから、マルコは軽く片腕で自分の顎元を拭った。
ちらりと後ろを振り向いてみるが、そこにはやはり暗闇が広がるばかりだ。
耳を澄ませても先ほどの物音は聞こえず、どうやら酒が回っていたらしい、とマルコは考えた。
この分なら、モビーディック号へ戻っても眠ることができそうだ。
カンテラの一つを駄目にしたのは惜しいが、どうせしばらくはこの島にいることだし、新しい物を買ってしまえばいい。
「明日は昼頃来てみるか。少しは明るいだろい」
「……にゃあ」
ゾオン化した片腕を灯り代わりにして歩き出しながら呟いたマルコの傍らで、同じ方向へ歩き出したナマエが返事をする。
肯定とも否定ともつかない声音の鳴き声に、カンテラなら気にするなよい、と笑ってやってから、マルコはそのまま出口へ向けて歩き出した。
青白い不死鳥の炎に照らされた海食洞で、ふと何かに気付いたようにナマエが後ろを見やる。
「…………」
そして、鳴き声も零さぬまま、立てた尾をぶわりと膨らませたナマエが暗闇の何かを威嚇するように睨み付けたことに、マルコはまるで気付かず。
「ああ、お帰り。お疲れさん」
「なあん」
「……何の話だよい?」
何も知らぬ彼は、船へ戻ったナマエをイゾウが労うその様子に、首を傾げるしかなかったのだった。
end
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