レガート
※海王類主
生き物は成長するものだ。
「るるる、ぐる」
海面を泡立てるように鳴き声を零すと、今日も機嫌がいいねい、と俺の頭の上で声がした。
視線を動かした先にはいつもの通り俺の頭の上に座る一人の海賊がいて、その片手が軽く俺の頭を撫でている。
指先が辿るのは、もうただの跡になってしまった古い傷だった。
もう随分と前に、よその船を破壊したときについた傷だ。
俺は、この世界でいうところの海王類という海獣だった。
海を行く海賊の船について回っているのは、今俺の頭の上にいるその海賊が俺を拾ったという話だからだ。
俺の意識は『気付いたら海王類だった』という程度だが、モビーディック号に乗る彼らが自分の仲間であることはちゃんとわかっている。
他の海王類に比べて小さかった体はすくすくと大きくなったし、最近は体自体も硬くなった。
ついこの間、嵐に紛れて飛んできた大岩からモビーディック号を庇った時だって代わりに食らっても傷一つつかなかったのだから、今ならきっと前の時のような怪我だってしないに違いない。
岩嵐だとかいう阿呆みたいに恐ろしい天候の海域を抜けて、今日は通りがかかった無人島の傍でモビーディック号を修繕するという話だ。
大岩からは俺が庇ったが、さすがに小さな岩の全てから守りきることは出来なかった。
船体に穴は開いていないそうだが、痛んだ箇所を確認しなくては、これから先の航海を安心して進めない。
俺にそんな話をしてきたのは俺の頭の上にいる海賊で、『だから今日はのんびりしろよい』と笑っていた。
確かに、モビーディック号が進まないのなら、俺だってこのあたりでまったりと過ごしているしかない。
狩りでもしてくればみんなの食事になっていいんじゃないかと思ったが、せっかくの島に来たんだから肉を探してくると言ってクルー達の半分ほどが島へと繰り出してしまった。
お前は働くなと俺に言い聞かせてきたのは、リーゼント頭のクルーだ。
『マルコ、見張ってろよな!』
働かせるんじゃねーぞ、なんて言葉を寄越されて、分かったよいと笑ったマルコはそれからずっと、俺の頭の上に座っている。
「こんな岩だらけのとこに転がって、腹ァ痛くねえのかい」
俺の上から水の中を見下ろして、マルコはそんな風に言葉を寄越した。
大丈夫だと答えるために、俺はぐり、と体を動かした。
あの岩嵐とやらのせいか、この島の周辺の浅瀬には砂より岩が多い。
泳がなくてもいいようにと浅瀬に移動した俺が転がっているのも当然岩達の上だが、痛みは全く感じない。腹のあたりの皮も、もうずいぶんと厚くなったらしい。
「昔だったらちったァ痛がってたんじゃねェのかよい」
でかくなったねい、なんて言って笑ったマルコが、よしよしと俺の瞼の上を撫でる。
こそばゆいそれに目を細めてから、ぐるるると鳴き声を零した。
そう、生き物とは成長するものだ。
俺はすっかり大きくなったし、恐らくそろそろ成体だろう。
人魚ほど早くは泳げないが、たまにやる魚人たちとの追いかけっこでもなかなかの成績を収めているし、索敵能力も上がっていると思う。狩りだって、大きな獲物を素早く仕留めてくることができるようになった。それに、毎日の練習だって欠かさない。
もしかすると今日こそ、日頃の努力の成果を見せる時かもしれない。
ちゃぷ、と水を揺らしながら周囲をうかがった俺は、近くに他の『家族』達がいないことを確認してから、頭をもう少し持ち上げた。
そのまま這うようにその場から動くと、体の下で岩や砂がごろごろと動くのが感じられる。
「ナマエ?」
できる限り頭を揺らさないようにしながら動く俺に、マルコが少し不思議そうな声を出した。
うかがうように見下ろしてくるその顔を見つめてのそのそと動き、近くで海面から頭を出していた大岩へと近付く。
そうして、そっと体を起こしながら岩へと頭を寄せると、俺の意図を把握したらしいマルコが俺の上からひょいと降りた。
乾いた岩の上に佇んだマルコを見下ろしてから、一度頭を海水に沈める。
マルコを乗せている間ずっと海の上に出していた頭に、じわりと水が染み込んだ。
一度深く水を吸い込み、そうしてゆっくりともう一度海水から頭を出して、そのまま体を起こす。
「うわっ」
ばちゃばちゃと滴り落ちる水しぶきを顔に受けたのか、マルコが少し慌てた様な声を出してその顔を庇った。
それを見下ろしていると、やがて顔を隠すようにしていた腕を降ろしたマルコの眼が、俺を改めて見上げる。
少し特徴的な髪型のその海賊は、俺の一番大事な『家族』だ。
だからこそ、今日こそと意気込んで、ゆるりと口を開く。
「……まァる、」
鳴き声に異音が混ざったようなそれは、俺がマルコの名前を紡ぐときの音だった。
俺のそれを聞き、いつもの通りに首を傾げたマルコが、『なんだよい』と返事をする。
しかしそれで満足せずに、一度口を開閉させてから、俺はもう一度声を絞り出した。
「るる、るゥ、る」
「ナマエ?」
「る、るるゥ、る……まァ、る……ぎょっ」
最後の音が、思ったより強く放たれてしまった。
濁音交じりの何とも濁った音に、失敗した、と気付いた俺は誤魔化すように舌で口を舐めた。
それからじゃぶりと海水へ沈み込んで、漏れたため息を波間に混ぜる。
一緒に過ごして、もうかなり経つのだ。
そろそろ大丈夫だと思ったが、まだ駄目だったらしい。
今晩もまた練習をしなくてはと考えた俺の前で、やや置いてマルコが岩の上にしゃがみ込む。
「…………もしかして、まだ練習してんのかい」
屈んだままで寄越された言葉に、俺はちらりと岩の上の相手を見上げた。
俺の視線を受け止めて、マルコが自分の足に頬杖をつくような姿勢のままで、にんまりと笑っている。
どことなく楽しそうなそれを見上げて、ぐる、と漏れた俺の鳴き声が海に紛れた。
「別に、いつもの呼び方でも伝わってんだろい?」
「るるる」
「納得いかねェって?」
「る、るる」
向上心のある海王類だねい、なんて言って笑ったマルコが、ひょいとその片手をこちらへ差し出した。
それを見て、俺は沈めていた体を動かし、鼻先をその掌へと触れさせる。
海水で濡れた鼻先に触れたマルコの手は乾いていて、けれども俺に触れたことですぐに濡れてしまった。
「まァ、今日は時間もあるし、おれが付き合ってやるよい」
俺へ向けてそう言い放ったマルコの言葉に、俺はぱちりと瞬きをした。
マルコの手が俺の鼻先を撫でて、それからするりと離れていく。
「最初にちゃんと呼ぶのも、当然おれの名前だろい?」
一番に聞かせろ、なんていったマルコの言葉に、もう一度瞬きをする。
そうしてそれから、俺は一つ頷くように頭を動かして、教えを乞うために目の前の相手へ視線を向けた。
俺の意思は伝わったのか、笑ったマルコの口がゆっくりと動く。
「ほら、言ってみろよい、ナマエ。マ・ル・コ」
「まァ、るゥ……ぎょっ」
「惜しいねい」
俺の発声にマルコが笑って、その口がもう一度俺へ向けて、自分の名前を繰り返す。
『マルコ』の三文字をようやく少し掠れた声で紡げた頃には、あたりが橙で染まり始めていた。
随分長いこと付き合わせてしまったが、飽きることなく繰り返してくれたマルコは『すげェじゃねェか』と俺へ向けて笑いかけて、子供にするように手放しでほめてくれていた。
end
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