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肩まで浸かって10まで
※逃亡後


 自転車を漕いで辿り着いた、小さな春島でのこと。

「お風呂行きましょう」

「ん?」

 唐突過ぎるナマエの言葉に、クザンは軽く首を傾げた。
 寄越された視線を受け止めて、傍らを歩いていたナマエがびしりと建物を指差す。
 自分に比べて小さいその手が示した先を見やって、ああ、とクザンの口から声が漏れた。

「銭湯ね」

 いかにも温かそうな煙を吐いた建物が、すぐ傍にそびえている。
 小さな島の外れに佇むその外観は随分と寂れているが、暖簾が出ている様子からしてどうやら営業中らしい。
 そんなことを考えたところで、クザンの腕ががしりと掴まれた。
 何かと思ってクザンが視線を戻せば、その腕を掴んだナマエが輝く笑顔をクザンへ向けていた。
 そのままぐいぐいと腕を引かれて、歩き出したナマエに合わせてクザンも足を動かす。

「さあ行きましょう、湯船最強ですよ!」

「……そういや、案外綺麗好きだよね、ナマエ」

 引き摺られるようにして歩きながら、ぼんやりとクザンはそんなことを呟く。
 『ニホンジン』ですから! と答えた笑顔のナマエに、やれやれともれたのはため息だった。







 寂れた外観の銭湯は、どうやらまだあまり人に知られてはいないらしく、浴場もナマエとクザンの貸切の状態だった。
 どうやら温泉を引いているのか、白く濁った湯船からは独特のにおいもする。
 洗い場で体を洗い、広い浴槽に入ったナマエの口から満足そうな声が漏れた。

「極楽ですねェ……」

 機嫌がよさそうなその様子に、そうだねェ、と答えつつ同じように浴槽へ入ったクザンの体が浴槽の縁へ懐いた。
 泳げそうですよ! と湯船の中央あたりまで移動して、その深さにしばらくはしゃいだ声を零していたナマエが、ふと何かに気付いたようにクザンを振り返る。

「ダルそうですね、クザンさん」

 ぱしゃりと水をかいて近寄ってきた相手に、そりゃねェ、と答えつつクザンは軽くため息を零した。

「おれ能力者だから」

「あー……」

 言われて初めて気付いた、とでも言うような顔をして、ナマエがクザンのとなりまで移動する。
 全身温まってわずかに赤みすら増した顔のまま、自分と同じように浴槽の縁にしがみ付いたナマエをちらりと見やってから、クザンの視線が洗い場のほうへと移動した。
 目を逸らされたのも気にした様子なく、ナマエの手がぺちぺちとクザンの体を叩く。

「もしつらいなら、先に上がりますか? よくよく考えたら、こんな熱い湯に入ってたらクザンさん溶けちゃうんじゃないですか」

「えー」

 促すようなナマエの言葉に、クザンの口からは非難がましく声が漏れる。
 気を使っているというのにそんな反応をされて、ナマエは少しばかり怪訝そうな顔をした。

「別に何処か怪我して湯治してるわけでもないんですから、そんな無理しなくても大丈夫ですよ?」

 もしかしてもうのぼせてるんですか、と囁かれて、ナマエのほうを見ようともせずにクザンが呟く。

「……だって、ナマエはこのまま入ってるんでしょ?」

「え? ええ、まあ」

 寄越された言葉に、ナマエは素直に頷いた。
 こんな大きな湯船に浸かるのは随分と久しぶりなのだ。
 堪能するつもりなナマエへ、それならおれも残るよ、とクザンが呟いた。
 寄越された言葉の意味を把握しかねて、ナマエが首を傾げる。

「……別に、溺れたりしませんよ?」

 さすがにワンピースの世界の公衆浴場らしく体格の大きい相手が来ることも想定内なのか、湯船の中は深くなっているところもあるが、あえて沈みに行くつもりはナマエにも無い。
 それに、能力者のクザンには無理だろうが、少しなら泳ぐことだって出来るのだ。
 ナマエの不思議そうな視線を受け止めて、まだ洗い場を眺めたままのクザンが肩を竦めた。

「別にそんなことは心配しちゃあいないって」

「ええ? それじゃあ、何ですか」

「あー……例えばほら、ここに誰かが入ってきたとして」

 言いながら出入り口を指差されて、ナマエの視線がそちらを見やる。
 浴場内には一つしかない出入り口には暖簾が掛かっていて、ナマエ達以外の誰かが入ってくる様子はなかった。
 趣味でやっているんだと店主は笑っていたが、こんなことで経営できるのだろうかと少しばかり不安である。

「そいつが危ない奴だったら、こうするしかないじゃない」

 そんなことを考えたナマエの横で言い放ちつつ、ぱきき、と硬い音を立てたクザンの周囲の湯が少しばかり氷を張る。

「うわ! 何してるんですか!」

 水中に伝わった冷気に、驚いてそちらを見やったナマエは、ばしゃばしゃと自分の周りの温かな湯をクザンへ向かって波立たせた。
 幸い、ほんの少ししか無かった氷は湯船の湯ですぐに溶けて消え、後にはだらりとしたままのクザンだけが残る。
 分かった? と尋ねたその目がちらりとナマエを見やったので、ナマエは眉間に皺を刻んで答えた。

「わかりません」

 相変わらず、クザンの言うことは少しばかり難解だ。
 けれどもとりあえず、どうやらナマエが風呂から上がらない限りはクザンも上がるつもりは無いらしい、ということだけは把握したナマエは、やれやれとため息を零しつつクザンとは逆に体を向けて、その背中を湯船の縁に預けた。
 白く濁った温泉の中へ思い切り足を伸ばして、ちくちく刺すようなその熱さに、はあ、と息を吐く。
 もっと長く浸かっていたいところだが、クザンの様子を見るに、そうも言ってはいられないようだ。
 クザンがのぼせてしまったら、一人で介抱するなどナマエには無理な話である。

「それじゃ、あと10数えたら出ましょうね」

「何それ」

「いーち。やりませんでした? こういうの。にー」

「やったことないねェ」

「そうですか。さーん」

 小さな子供のように数を数えたナマエが、あ、そうだ、とその合間に声を漏らす。

「よーん。上がったら牛乳飲みましょう、牛乳」

「あー、そりゃいいね」

「ごー。ちなみに俺はコーヒー牛乳派です」

「あらら……邪道じゃない?」

「ろーく。……そうですか?」

 寄越された非難に首を傾げて見やれば、ナマエのほうを見やったクザンが笑っている。
 湯あたりしたように少しぼんやりしたその顔を見やって、ナマエは少しばかり数字を数えるスピードを上げたのだった。



end


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