現状維持の努力
「あららら、ナマエじゃないの」
「あ! クザン大将! お帰りなさいご無事で何よりです抱きついていいですか!」
「聞く前に飛びついてりゃ世話ないよ」
いつも通り執務を終えてタイムカードを押したナマエは、廊下で出会った長身の上司に声を掛けながらその場から前へ向かって飛びついた。
そんなナマエの肩をがしりと掴んで押し留めて、クザンはいつもの通り呆れたような顔をする。
その手がぐいと押しやるがままに立っていたポジションまで戻されて、抱きつけなかったナマエはそれでもにこにこ笑って大将青雉を見上げた。
「今日はお早い帰りでしたね! そのままウォーターセブンあたりまで散歩にでも行くかと思ってました!」
「そうしたいのは山々だったけど、ボルサリーノがねェ……」
やれやれと呟く大将青雉がこの海軍本部を離れたのは、つい一昨日のことだった。
大規模になってしまっている海賊団をある程度間引きに行くんだとなんでもないことのように言ったクザンの言葉をナマエは一字一句違えず覚えているし、いつもだったらそのまま一週間ほどは帰ってこないはずなのだ。
それなのにどうやらまっすぐ帰ってきたらしいクザンを見上げて、ナマエの首が軽く傾ぐ。
「ボルサリーノ大将が何か仰ってたんですか?」
「そう。……あー、面倒くせェ……」
うんざりした顔のクザンの言葉に、どうやらあまり面白くないことを言われたらしい、と判断したナマエは努めて明るく笑いかけた。
いつだってけだるげな顔をしているし面倒臭がりな上司だが、好きな相手には不快な思いより楽しく過ごしていてほしいというのが人情だろう。
「愚痴を言いたいならどうぞ!」
もう就業時間だしタイムカードも押したが、なんなら今から執務室へ戻って目の前の人のためにコーヒーや紅茶を淹れたってかまわない。
そう思って自分が歩いてきたのと同じ方向を指差したナマエに、クザンは軽く眉を寄せた。
「何、仕事終わったんじゃなかったの?」
「終わりましたよ。タイムカードも押しました!」
「それじゃ、早く帰りなさいや」
明日も仕事はあるんだからと言い放ったクザンの手が、ぽふんとナマエの頭を軽く叩く。
そっけなく聞こえるが、その声音に確かな優しさを感じ取ったナマエは、その目をきらきらと輝かせてクザンを見つめた。
それに気付いたクザンが身構えたのに構わず、先ほどと同じように思い切り前へと飛びつく。
がしりと回した両腕で、自分よりはるかに鍛えられた体をさわさわと撫で回しながら口を動かした。
「好きですクザン大将結婚してください!」
「男の子お断り。……あー、これも何回言ったかねェ」
数えるのも嫌になっちゃったよ、と言いつつ、抱きついたナマエの腕をべりっとクザンの手が引き剥がした。
「だったらそろそろ諦めてくださってもいいんですよ!」
膂力で海軍の最高戦力に敵う筈も無く、成すがままに引き剥がされ、更には両手を掴みあげられる格好でつま先を床から浮かしたナマエが、そんな風に言ってクザンへ笑いかける。
好きだ大好きだ愛している結婚してくれ、とナマエはいつだって目の前の上司へ向かって愛を叫んでいる。
嫌ってはいないとクザンが言ったから、その言葉を信じて、いつかほだされてくれることを夢見ているのが現状だ。
もちろん、ほだされてくれなくたって構わない。
好きだ好きだと綴るナマエをクザンは拒絶しないでいてくれるのだから、それで構わない。
一度ナマエがそう言ったら「馬鹿じゃねェのか」と言ってきた失礼な同僚のことを思い描いたナマエは、そうだ、と言葉を零してぷらりと吊られたままでクザンを見上げた。
「クザン大将、俺、これからスモーカーと飲むんですけど、良かったら一緒にどうですか?」
ナマエが知っている『漫画』の世界で、クザンは確かスモーカーのことを『友達』だと言っていた。
ナマエは弱い、ただの文官としての力しかない部下だが、スモーカーは違う。
だから、あの咥え葉巻の彼になら、クザンだって愚痴を言いやすいのではないだろうか。
そう思ってのナマエの言葉に、クザンの顔にわずかに浮かんでいた笑みがふと消えた。
「? 大将?」
それを見上げて不思議そうな顔をしたナマエのわずかに浮いていたつま先が床に触れて、そのままひょいと降ろされる。
そのまま手も解放されて、ナマエが追いかけるより先にクザンの両手は自分のポケットへと逃げ込んでしまった。
「……スモーカーと飲みに?」
どうしたのだろうかと見上げた先で問いかけられて、はい、とナマエは頷いた。
今日もクザンは帰ってこないだろうと思っていたし、スモーカーがせっかく本部まで出てきていると聞いたから、飲みに行こうと誘ったのはナマエのほうだ。
スモーカーは相変わらず嫌そうな顔をしていたが、いつものように仕方無ェなと言ってくれた。この間ナマエが付き合わせたヒナに何か言われたらしいが、ナマエは詳しくは知らない。
「よく飲むの?」
「時間が合うときはですけど」
何せあちらは支部勤務で、ナマエは本部での勤務が常なのだ。
いつもの酒場に行ったらたまたま遭遇してそのまま一緒に飲む、ということだって時々ある。
「スモーカーはいっぱい飲むのにあんまり酔わないから、いつも俺が先に限界になって家の近くまで送ってもらってるんです。今日は大将があいつを潰してやってください!」
冗談交じりのナマエの言葉に、クザンからどうしてかひんやりとした気配を感じる。
「ふうん」
漏れた声の低さに、ナマエの目がぱちりと瞬きをした。
ぶわりと背中が冷えたように感じて、その体が少しばかり強張る。
「……悪いね、ナマエ。おれァ疲れたから寝るわ。スモーカーによろしく」
立ち尽くすナマエへ向けてそんな風に言い放って、もう一度ぽんとナマエの頭を叩いたクザンは、そのままナマエの横をすり抜けて歩いていってしまった。
佇んだまま離れていくその背中を見送って、ナマエの手がそっと自分の頭に触れる。
いつもは規定で帽子を被っているが、今日は被っていなくて良かった。
そんなことを考えながら触れた手の大きさを反芻して、けれどもいつもの喜びを感じられずナマエはぎゅっと眉間に皺を寄せる。
疲れたなんて、嘘だ。そうに決まっている。
ナマエはいつだってクザンを見ていたのだから、クザンのあの様子が機嫌が悪いときのものであることくらい簡単に分かった。
それでも、その後を追いかけることが出来ないのは、明らかにクザンの機嫌を損ねたのは今のナマエとの会話であるからだ。
なのにどこが気に障ったのかは分からず、原因が分からないから謝ることも出来なくて、だからしつこく追いかけることもできない。
嫌いじゃないと言ってくれた彼に嫌われることが、ナマエは一等恐ろしいのだ。
だからナマエは一度クザンの背中に頭を下げて、そうしてその場から逃げ出した。
※
「……というわけだよスモーカーくん……」
「それでお前はそんなに落ち込んでんのか」
「あのまま怒ったままだったらどうしよう……」
暗鬱とした様子で呟きながら、ナマエの手がグラスをがしりと掴む。
中に注がれていた酒はもはや殆ど無く、スモーカーとは対極に当たるナマエの傍らにも空瓶が倒れている。いつもだったらやらないようなペースで飲んでいるナマエの隣に座って、スモーカーは呆れた顔をした。
酔ったナマエは傍らのスモーカーのそんな顔にも気付かずに、自分のグラスへ傍らの酒瓶から酒を注いでいる。
テーブルに懐きながらの危なっかしい動きに、手を伸ばして酌を代わってやったスモーカーは、どうでもよさそうに口を動かした。
「あっちもそんなガキじゃねェだろう、一眠りしたらすっかり忘れてんじゃねェのか?」
「そうかなー……そうだといいなァー……」
唸ったナマエが、酒の注がれたグラスを引き寄せながら、ありがとうと呟く。
酒瓶を持ったまま、謝礼の代わりにナマエのすぐ横の皿からひょいとつまみを奪い取って口へ運び、スモーカーはため息を零した。
いつも煩いナマエが珍しく大人しいからガラにもなく心配してみれば、当の本人はどうでもいいことで悩んでいるのだから、ため息だって吐きたくなるというものだ。
「でも、もし怒ったままで、更には嫌われたりなんかしたらどうしよう……」
「あれだけやってて嫌われてねェのに、今更そんなことで嫌いになるわけがねェ」
「何で言い切れるんだ……」
うだうだと言葉を零しつつ、更には絡んでくるナマエの頭に、片手で持ったままだった酒瓶を乗せる。
中身の殆ど入っていないそれは軽かったが、ごちんと少し痛そうな音がした。
「見てりゃあ分かる」
スモーカーの横に座るナマエが、今の部署へ戻ったのはほんの少し前のことだ。
それより前は大将黄猿の文官となっていて、そういえばあの頃も今のようにうだうだと面倒なことを言いつつ大将青雉の名前を呼んでいた。
噂に寄れば、ナマエがまとわりついた所為で大将青雉が仕事を更にサボるようになったから、大将黄猿がナマエを引き取ったらしい。
けれどもそれからしばらくして、大将青雉の様子が怖くて仕方ないという直属の部下たちからの嘆願を経て、ナマエは元の部署へと戻された。それと同時に直属の彼らは安心した顔をしていたから、大将青雉のそれは元に戻ったんだろう。
あの面倒臭がりの上司は、少し面倒な具合にナマエを気に入っているらしい、というのが周囲とスモーカー自身の見解だ。
恐らく、大将黄猿は、仕事をしないならまたナマエを取上げる、とでも言ったのだろう。
にこにこと笑いながら毒ばかり吐くかの光人間の様子がまざまざと想像できて、ぐりぐりと瓶底でナマエのこめかみの辺りを攻撃したスモーカーは酒瓶をテーブルへ置きなおした。
酒が入りすぎて痛みを感じていないのか、ナマエは気にした様子も無くテーブルに懐いたままでスモーカーを見上げる。
「スモーカー?」
少し焦点が合わないその目は、とても不思議そうな色を宿していた。
きっとナマエは、周囲から『大将青雉のお気に入り』なのだと言われていることだって知らないだろう。
面倒臭い奴らだと舌打ちをして、スモーカーは自分のグラスを捕まえた。
口へ運んだそれは、いつもと何も変わらない味だ。
傍らの男のテンションは違えど、料理の味も店内の喧騒も、話題ですらも変わらない。
「……あの人が変わるまで、お前はずっとそうなんだろうなァ」
「んー?」
「何でもねェよ」
呟いたスモーカーの言葉は店内の喧騒へ紛れてしまい、不思議そうな顔をしながら身を起こしたナマエがまたグラスの酒を舐める。
酔って顔も真っ赤にした面倒な友人の横で、スモーカーは再びため息を零したのだった。
end
戻る | 小説ページTOPへ