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仮面の罅
 手の上のものを見下ろして、クザンは軽くため息を零した。
 そこにあるものは、クザンが常に額へ乗せているものと同じ、アイマスクだ。
 柄も殆ど無いシンプルなそれは、先日の遠征の際に補給の為立ち寄った島で、彼の部下が彼へと贈ったただの雑貨だった。
 その時クザンが自前のアイマスクを汚したと申告していたから、暇潰しの『散歩』に出るくらいなら昼寝でもしていてほしいと、つまりはクザンの逃亡を阻止するための贈り物だ。
 普段なら適当に扱うだろうそれを、クザンが一度たりとも着用することなく今日まで至っているのは、それの贈り主が『ナマエ』だからという、ただその一点に限る。

「あーあ……どうしようかね、ほんと」

 小さく呟いて、クザンの手が持っていたアイマスクをベストの内側のポケットへと押し込んだ。
 年端もゆかぬ少女でもあるまいし、『想い人から貰ったものがもったいなくて使えない』だなんてこと、女々しいことこの上ないと分かっているのだ。
 クザンは男で、ナマエも男。海軍内の上官と部下であると言う以上に進んだ関係が成り立つ筈もなく、同性へそういった感情を向けることが一般的でないことはクザンも知っている。
 ナマエは女性の婚約者を選んだ異性愛者なのだから、万が一にもクザンに可能性はない。
 何よりナマエは、既に婚約者のいる身の上で、その婚約者を斡旋したのもクザンなのだ。
 自分の中の想いを断ち切りたくて、中々浮いた話の一つも出てこないナマエを自分から引き離すために見つけてきた見合い話だった。
 婚約者となった女性とナマエが仲睦まじいことも知っている。
 目の前で『土産』を楽しそうに選ばれたことだって一度や二度の話ではないし、ナマエがクザンと話す時の会話にはよく彼女の名前が挙がるようになった。
 自分が見つけてきた話なのだから傷付く筋合いはないと分かっているのに、そのたび盛大に痛む恋心に、クザンの口は溜息しか零せない。
 気の迷いだ。相手の為にも消してしまわなくては。いつか忘れられる。いつか、きっと。

「……はやく結婚しねェかなァ」

 間違いなく手の届かない相手になれば諦められるのではないか、と考えて呟いて、クザンは座っていた椅子から立ち上がった。
 目の前の資料の山の大半を無視をして、一番上から必要な書類十数枚だけをつまみ、その足が執務室の外へと向かう。
 本日、クザンの足止めをする二人の副官は、部隊の人間達と同様に休暇を取っている。
 クザンだって本当はそのつもりで、しかし書類が溜まっているぞとお怒りの海軍大将から連絡があったが故に出勤したのだ。
 これだけ出せば問題ないでしょ、とつまんだ書類をひらひらと揺らして、彼はそのまま一人きりだった執務室を後にした。







 クザンの適当さを受け入れきれない同僚に相変わらず怒鳴られつつ、その目の前から退散したクザンがその足を向けたのは、海軍本部から程よく離れた場所にある町中だった。
 さすがに海軍の本拠地のある島であるだけあって、町中にはごろつきも見当たらない。
 平穏そのものと言った騒がしい往来をゆったり歩いて、クザンがふと足を止めたのは、ちらりと目の端に人影が入ったからだった。
 見覚えのあるそれに顔を向けて、あららら、とクザンの口が声を漏らす。

「ナマエじゃないの」

 クザンに殆ど背中を向けるようにして座っているが、その背中をクザンが見間違える筈もない。
 穏やかな木漏れ日の落ちるカフェテラスで、丸く小さな机の向こう側に座っている女性は、クザンも釣り書の写真で見たナマエの婚約者だった。
 なるほど、今日は休暇を取っているのだから、こんな日中からデートをしていても問題は無い。
 そう把握したのと同時に、じわりと湧いた不快さにほんのりと眉を寄せて、クザンは軽く首を横に振る。
 自分のものでもない相手が恋人とデートをしていたからと言って、それにいちいち苛立っても仕方がない。
 やはりさっさと二人は籍を入れるべきだろう。あれだけ仲睦まじいのだから、きっとナマエは幸せそうに笑っている筈だ。
 今日はいっそ『結婚祝い』でも探しに行くか、なんて自分で自分を痛めつけそうな予定を立てながらそっと二人から目を逸らしたクザンの耳に、ぱん、と小気味よい音が届いた。
 思わず音がした方へ目線を向けると、先程見かけた二人がいる。
 先ほどと違うのは、ナマエがクザンに背中を向けたままでわずかに身を捩らせていて、その向かいに座る女性が身を乗り出し、片手を振り抜いた姿勢でいることだった。
 どう考えてもナマエを平手打ちしたと見えるその様子に、クザンの目が軽く瞬きをする。
 往来を行く他の人々の視線も集めながら、『婚約者』がナマエへ向けて何かを言っていた。
 感情が高ぶっても怒鳴ったりする方では無いのか、努めて冷静にあろうとしているのか、その声はクザンの方までは届いてこない。
 恐らくは飲み物の代金だろう、小さな鞄から取り出したベリーをテーブルへ叩き付けて、立ち上がった彼女がその場から立ち去っていく。
 それを見送ったナマエは、自分の頬を軽く押さえてから、すぐに店員を呼んだようだった。
 心配そうな顔をした店員がやってきて、彼へベリーを支払い、椅子から立ったナマエが彼女を追いかけるように同じ方向へ向かっていく。
 一部始終を見てしまったクザンは、軽く自分の頭を掻いて、それから軽く首を傾げた。

「…………喧嘩?」

 仲睦まじいと言う噂は、どうなったのだろうか。
 激昂していた彼女の様子からして、何かをしでかしたのはナマエの可能性の方が高そうだ。しかし、クザンの知るナマエは、みだりに人を怒らせるような人間ではなかった。
 思わずナマエの向かった方へ足を向けようとして、数歩でどうにか思いとどまったクザンのつま先が、誤魔化すようにカフェテラスへ向かう。
 ナマエのいたテーブルを片付けていた店員がメニューを持ってくるのにコーヒーだけを所望して、頷いて去って行った彼を見送ってから、クザンは跡形もなく片付いてしまったテーブルを見やった。
 犬も食わないと言う奴なのだろう。そうに決まっている。追いかけていったのだ、あっさりと仲直りして、ひょっとしたら明日にはこの場で起きた喧嘩がナマエ自身の口から世間話として上がるのかもしれない。
 そうしたら、『見てたよ』と言って笑ってやろう。
 そんな風にクザンが心を決めた頃、店員がコーヒーを運んできた。
 執務室へナマエが運んでくるコーヒーとは違ったそれの苦味がクザンの舌を突き刺して、いつの間にか仕事中は自分好みのコーヒーが振舞われるようになっていたと言うことに、クザンは今日になって気が付いた。







 翌日、少し遅れて執務室に現れたナマエは、片頬に薄いガーゼを貼っていた。
 同僚にどうしたのかと問われて『ちょっと』と誤魔化した相手に、おや、とクザンの目が向けられる。
 納得しないながらも、基本的に詮索をしないナマエの同僚は、そのままクザンからの書類を持って執務室を出ていった。

「ナマエ、ちょっと来なさいや」

 それを見送ったクザンが声を掛けると、自分の席へつこうとしていたナマエが、少し不思議そうな顔をしながらクザンへと近寄ってくる。
 こいこい、と手招くのに合わせて机を迂回してきたナマエを見やり、椅子に座ったままのクザンの片手がナマエの顔へと伸ばされた。
 戸惑って少し体を後ろへ傾がせながらも、結局逃げなかったナマエの顔に貼りつけられたガーゼに、クザンの指が触れる。
 ぺり、とガーゼを引き剥がすと、あ、とナマエが声を漏らした。

「ク、クザン大将?」

「冷やさねえと痛いでしょうや、それ」

 元より標準より少し下回る回復力しか持たないナマエだ。
 その頬には見事に平手のあとが残っていて、つまんだガーゼを己の能力で軽く氷結させたクザンが、はい、とそれをそのままナマエへと差し出した。
 直接貼れって言うんですか、と少し困った顔をしながら、ナマエの手がとりあえずそれを自分の頬へと押し当てる。
 やはり痛んでいたのだろう、患部を冷やすことで少し表情を和らげた相手を見ながら、それで、とクザンは言葉を零した。

「それ、どうしたの」

 白々しい問いが、クザンの口から漏れる。
 声音に含まれた響きにそれを感じたらしいナマエは、ちら、とクザンの目を見て眉を寄せた。

「…………もしかして、ご覧になっていたんですか、クザン大将」

 昨日の、とは言わずにそう告げたナマエへ、そりゃあれだけ豪快にやってたら目撃もするでしょうよ、とクザンが肩を竦める。

「すぐ追いかけてったから仲直りしただろうと思ってたってのに、何、まだ喧嘩継続してんの?」

「喧嘩と言いますか……ええと……」

 頬にガーゼを当てながら、ナマエがわずかに言葉を濁す。
 その目が何かを探すようにわずかにさ迷い、そうして、何かを決意したようにその視線が戻された。
 わずかに強張ったナマエの顔に、誤魔化すような笑みが浮かぶ。

「その、フラれてしまいました」

 せっかくご紹介いただいたのに申し訳ありません、と続いた言葉に、クザンは戸惑いを浮かべた。

「フラれたって、ナマエが? 誰に」

「誰にって、決まっているじゃないですか」

 思わず呟いたクザンの言葉にそう言いながら、そっとナマエが一度ガーゼを頬から離す。
 まだしっかりとあとの残っている頬を晒しながら、クザンが氷結したガーゼを一度両手で包むナマエを見やって、クザンの眼差しが怪訝そうな光を宿した。

「…………何で? それ、何か誤解されてるんじゃねェの?」

 クザンの知るナマエは、とても『婚約者』を大事にしていた男だ。
 クザンは昨日初めてその逢瀬を目の当たりにしたが、噂では二人は大変仲睦まじいと言う話で、昨日までの間に聞かされていたナマエからののろけ話の中に、彼と彼女の間の不和の種は見当たらなかったはずだった。
 もしも何か誤解を受けていて、それでナマエが不当な評価を得ているというのなら、それはクザンが何かしらの手を貸してやってもいいのではないだろうか。
 どうせクザンの恋は実らないのだから、それならナマエには幸せになってもらいたいのにと考えたクザンの前で、しかしナマエは首を横に振った。

「誤解ではありません。俺、浮気してしまったので」

「…………え」

「黙っているのは誠実な対応では無いと思って、きちんと話をしに行きました」

 その結果です、と情けない顔で笑ってから、ナマエの手が幾分か溶けて柔らかくなったらしいガーゼを改めて自分の頬に貼りつける。
 そうして、『婚約者』からの制裁のあとを隠し切り、居住まいを正した彼は深くクザンへ頭を下げた。

「せっかくご紹介いただいたのに、申し訳ありませんでした」

 先ほど述べたのと同じ言葉を告げた後で、仕事を始めますね、と一言置いて自分の席へと戻って行く。
 それを何となく見送りながら、クザンは一度、ぱちりと瞬きをした。
 いつも通り仕事へ向かうナマエの姿に何かわずかな違和感を抱いて、その眉間に皺が寄る。
 そしてそれ以上にクザンの胸の内をやいたのは、あれだけ仲が良いと噂だった『婚約者』を差し置いてナマエの心を奪った『誰か』に対する嫉妬だった。
 ナマエは真面目な男だ。その彼が『浮気』をするだなんて、相手は一体どこの誰だと言うのか。
 『誰』だとは言わなかったナマエを見やり、クザンは頬杖をついていた体をゆっくりと起こす。
 ただの『上官』が、そこまで踏み込んで訊いていいものなのか。そこは少し脳裏に引っかかったが、それよりも、ナマエの心を奪った『誰か』が気になって仕方がない。

「……ナマエ、ちょっと、」

「ただいま戻りましたー」

 もう少し詳しく教えてよ、と告げようとしたクザンの言葉を遮ったのは、書類を届けに行って帰ってきたもう一人の副官だった。
 聞いてくださいよガープさんがおれを引き止めるんです、なんて世間話を交えながら持ち帰った書類をクザンの机の上へ並べてくる相手に、クザンも口から出しかけた言葉を飲みこむしかなかった。



end


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