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仮面の綻び

 大将青雉が逃亡した。

「……自転車はちゃんと隠してあったと言うのに……」

 わざわざ海の上を凍らせてまで、と肩を落として呟く同僚の横で、ナマエは軽くため息を零した。
 それからその身に防寒具を着込んで、それでは、と一つ言葉を落とす。

「ひとまず一日探してみましょう。それでもどうしても見つからなければ、その時は近くの支部へ連絡を」

 他の人にもそう知らせてください、と言ったナマエへ同僚が頷いたのを見てから、ナマエはひとまず船を降りる為に移動した。
 戦艦の甲板から見える海の上には大きな氷が点々と続いていて、その先が目視できる距離にある島へと接触している。
 本来の船乗りたちがログを頼りに辿る航路を横断して移動した先にあるその島は、またしても冬島だ。そして今回『海軍大将青雉』が討伐を命じられた海賊達の住処まで、あと少しの距離にある。

「……暇なら寝ていてほしいのに」

 あー暇だ、すごく暇、とわざとらしく言葉を放って自転車を所望していたどこぞの上官を思い出したナマエの口から、小さくため息が零れる。
 そのためにアイマスクも買って渡したと言うのに、結局ナマエからの贈り物をあの海兵が着けている様子は無かった。
 大きさもちょうど良かった筈だが、何かが気に入らなかったのだろうか。
 プレゼントを突き返されるなんてことが起きるのが恐ろしくて尋ねられなかったが、そんな風に落ち込んだ方向へ思考を曲げてしまってから、ナマエは厚手の手袋に覆われた両手で軽く自分の顔を叩いた。
 ふわふわと少し柔らかいそれは、落ち着いた色合いの手編みのものだ。
 今度の遠征の話をしたときに、『彼女』がナマエへと誂えてくれたものだった。
 『あの島はとても寒いですから』と微笑んでいた『彼女』は、どうやら、今ナマエの目が捉えている島へ来たことがあるらしい。
 旅行で立ち寄ったのだと言った彼女に、『誰』と行ったのかとナマエがその雑談を広げなかったのは、それを訊ねることが『彼女』の傷を抉ることになると知っていたからだった。
 ナマエと『彼女』は同類だった。
 お互いに、手の届かない相手に恋をしている。
 ナマエの恋は叶う筈もなく、『彼女』の想い人はもう、この世にいない。
 ナマエには彼女を愛せないのだから、いつか彼女の気が晴れるまでの隠れ蓑として生きていくだけのことだが、親しくなった相手には出来れば笑顔でいてほしくて、ナマエはよく『彼女』へ何かを買っていくようになった。
 この世界に家族もいないナマエにとって、『誰か』の為に土産を買うなんてことは久しくなく、むしろ自分自身が一番楽しかった気もする。
 柔らかなそれに頬を押し付けて、よし、と漏れた声を漏らすと、ナマエの声が肺を刺すような冷え切った空気の中に溶けた。

「とにかく、探さないと」

 話を聞く限り、今度の海賊はそれなりに厄介な相手だ。
 もちろん海軍最高戦力の一人である大将青雉にかかればどうということのない敵だろうが、戦艦に残されたナマエ達を含める海兵達では少々苦戦することは間違いない。
 いくらサボり癖があるとはいえ、クザンは無責任なことをしない海兵だ。
 何か考えがあっての『逃亡』だとは思うが、行き先を告げずにいなくなられては心配するのだと、きちんと掴まえて伝えなくてはいけないだろう。
 部下が上官を心配するのは普通で当然のことだから、そこにナマエがどんな感情を込めていたって、きっとあの人は受け流してくれる。
 さて行くか、と気合を引き締めて、ナマエは小舟の用意をするためにその場から駆け出した。







 雪の降り積もる冬島に乗り込んで、一番最初にナマエが同僚や他の海兵達と共に入り込んだのは、湯治が盛んな地域であるらしい港町だった。
 『正義の味方』とも言うべき海兵達を島民は歓迎してくれていて、その歓迎を受けながら全員で散って探し人の情報を捜す。
 体も大きく、どちらかといえば有名な分類であるだろう『大将青雉』の目撃情報はほんのかすかなものしかなく、その不思議で恐ろしい悪魔の実の能力に惹かれた子供らを適当に相手した後、どうやら隣町に向かったらしい、ということしか分からなかった。
 公園の中央にとても大きな氷像が作られ、子供達が喜んでいるらしいと言うのは別に問題ない。
 だが、この島へ上陸する際に使ったのだろう港端の氷が島民の一部に迷惑を掛けていると聞かされて、海兵達の何人かが慌てて氷壁の破壊へ向かう始末だ。
 ガープ中将が『クザンの代わりにわしが同行してやろう!』と笑顔でやって来た時に感じたのと似た頭痛を感じて、ナマエは軽く頭を押さえる。

「はあ……」

「あの、大丈夫です?」

 本当にもう、とため息を零したところで、心配そうな声がナマエへ向けて寄越される。
 それを受けて、少しよろめいていた姿勢を戻し、ナマエはそちらへ笑顔を向けた。

「大丈夫です、お気遣いありがとうございます」

 島民だろう声の主へそう答えたところで、ナマエの顔には少しの戸惑いが浮かんだ。
 何故なら、声の主は道の端に座っていた男で、その顔の殆どをくるりと包帯で覆っていたからだ。
 戸惑うナマエの気配を感じたのか、わずかに覗いた口元に笑みを浮かべて、男が言葉を紡ぐ。

「すみません、驚かせちゃいましたか」

 診療待ちなんです、と告げた男に、ナマエは男が背中を預けている建物が診療所なのだと把握した。
 それなら室内で待っていた方が、とも思ったが、診療所はとても小さく、少しだけ覗くことが出来た室内にも何人かの人がいる。

「この町では唯一の診療所なんですよ。先生もいい人なんですぐいっぱいになってしまうんです」

「そ、そう、ですか……」

 寄越された言葉に頷きながら、ナマエはそっと自分の首に巻いていたものを外した。
 診療所の厚意なのか、男の足元には缶バケツのようなものが置かれて中で火を熾しているし、男自身もきちんと防寒具を着込んでいるが、どうにもその光景は寒そうに見える。
 これをどうぞ、と声を掛けながらナマエが男の手に自分のマフラーを押し付けると、え、と男が少し戸惑ったような声を出した。

「いや、そんな、大丈夫ですよ。もうすぐ診察ですし、終わったら後は帰るだけですし……」

「いえ、良かったら使ってください。人を捜して歩き回っていたら、結構暑くなってしまって」

 相手には見えないだろうが微笑みを浮かべてそう言いながら、ナマエの手が男の首へマフラーを軽く巻き付ける。
 機能性を重視してあまり色味を気にしなかったマフラーは少々派手な柄をしているが、それなりに温かいだろう。
 その温もりを感じたのか、男は片手をそっとマフラーにあてて、それから小さく息を吐いた。

「……本当に、この島の人はいい人ばっかりですね」

 しみじみとそんな風に声を零す相手に、ナマエは自分が男によって『島民』と誤解されていると気がついた。
 しかし、わざわざそれを否定する必要性を感じられず、その代わりに問いを落とすことにする。

「ひょっとして、この島の方じゃないんですか?」

 見るからに大怪我をしている男がこの島の人間でないと言うのなら、彼は一体どこから現れたのだろう。
 ナマエの疑問に、おれはこの島にたまたま漂着したんですよ、と男は答えた。

「海王類に食われそうになって……一緒にいた仲間達のうち、おれだけが助かったみたいで」

「……そうなんですか……故郷の方へは、やっぱり傷を治してから?」

「はは、いやいや、今だってそれなりに動けますよ。見た目が子供に怖がられるから、こうやって包帯巻いてますけど」

 恐らくは傷跡が残っているのだろう自分の顔を指差して、でも、と男は笑った。

「多分、もう帰らないです」

 さらりと落ちた言葉に、ナマエがわずかに戸惑いに瞳を揺らす。
 それが見えない男は、ナマエの巻き付けたマフラーに頬を預けるように肩を竦めて、それからゆらりと片手を動かした。
 少し傷の目立つその片手は、骨を接ぐのがうまくいかなかったのか、わずかに歪んでいる。
 手袋に覆われたその腕を軽く開閉してから、前ほどうまく動かせないんで、と男は呟いた。

「元々故郷には家族もいませんし、元の仕事に戻るのは無理そうなんで、とりあえずこの島で恩返しをしてからにしようかな、って思ってますよ」

 あっさりとそんなことを言い放った男に、何と言えばいいのか分からず困ってしまったナマエの目が、ふとそれを見つける。
 動かした男の袖口から、その腕に巻かれているらしい細い鎖のブレスレットが見えた。
 差し込む日差しをわずかに弾くそれには、何となく見覚えがある。 それが、何処の誰が着けているものだったのかまでを思い出したところで、は、とナマエは目を見開いた。
 その口が音もなく紡ぎかけたのは、今はマリンフォードにいる、ナマエの『婚約者』だ。
 どうしてだか体から血が引いたような気がして、どくりと耳の奥で鼓動が響く。
 出しかけたそれを飲みこみ、それから一度冷え切った空気を吸い込んだ後で、ナマエはゆっくりと問いかけた。

「……そういえば、またお伺いしてませんでしたが、お名前をお伺いしてもよろしいですか? 俺はナマエと言います」

 真っ向からそう尋ねたナマエへ、ご丁寧にありがとうございます、と男が頭を下げる。
 それから紡いだ彼自身の名前は、ナマエの『知っている』ものではなかった。
 顔の殆どを隠されている今、それが本名なのか偽名なのかも分からない。
 けれども、どうしても確認したくて、ナマエはそっと口を動かした。

「そのブレスレットの飾り、あまり見ない形ですね」

 どこで買ったんですか、と尋ねてみると、おれが作ったんですよ、と男が答える。
 もう片方の手がそっとナマエから隠すようにブレスレットを多い、わずかに俯いたその口元が笑みをかたどった。

「本当は指輪にしようって話したんですけどね。それはまた今度でいいって言うから」

「もしかして、恋人とお揃いで?」

 ふと思いついたように尋ねたナマエへ、ええまあ、と男は歯切れ悪い様子で頷いた。
 そっと袖口の内側へとブレスレットを押し込んで、それがすっかり見えなくなる。

「幸せになるって言われてる石なんです」

「へえ、そうなんですか……なら、」

「もうじき、あいつ結婚するんだそうで」

 何かを言おうとしたナマエの言葉を遮って、男が続けた。

「あいつは幸せになるみたいだから、あながちあの店の言ってたことも嘘じゃなさそうだ」

 良かったなァ、って思ってますよ。
 そんな風に言って笑った怪我人に、ナマエはそれ以上の追及は出来なかった。







「大将! ……やっと見つけましたよ!」

「あらら……いいタイミングじゃない」

 島の外れにあった長身の人影に、ナマエが大きく声を上げる。
 それを聞いて軽く頭を掻いた彼が立ち上がり、それからくるりとナマエの方へと振り向いた。
 唇からもれる息を白く凍らせている男の体は、その端がぴしりと白く霜を降ろしている。
 明らかに能力を使っている悪魔の実の能力者を見上げ、その傍へと近寄ってから、ナマエはクザンの周りにあるいくつかの氷像に気が付いた。

「……え、これ……」

「人がさァ、昼寝にいい場所見つけたってのに、これだよ」

 そこらじゅうを氷漬けにしているくせをして、襲われたから迎撃しただけだとこともなげに言い放つ海軍大将は、肩を竦めてから胸元から取り出したものをぽとりとナマエの上へと落とす。
 四つに折られた手配書を広げて、ナマエは一番近くにあった氷像の顔とそれを確認した。

「……この男ですね……」

 ナマエ達の目的とも言うべき『海賊』が、その全身をすっかりと氷づかせている。
 身動き一つ出来ぬ物言わぬ氷像たちをじっと見て、それから『海賊』達が背中を向けている入り江にある小舟まで氷づいていることを確認したナマエは、そのまま視線をクザンへと戻した。

「……ひょっとして」

「まァ、おれ達が来るって聞こえてたみたいだな、あちらさんも」

 何の罪もない人間を人質にして、海軍との交渉を図ろうとしたのだろう。
 あくどい海賊の考えそうなことだねと肩を竦めた海軍大将に、そうですか、とナマエは一つ頷いた。
 それから、取り出した子電伝虫で、島のあちこちを駆けているだろう同僚へ連絡を取る。
 まだギリギリのところで生きているだろう海賊達を捕縛し連れ帰るために、軍艦を入り江へ回すという返答を受けてから通信を切ったところで、何か冷たいものがナマエの首筋に触れた。

「わっ」

「マフラー、どうしたの」

 ここらの海域に入ってから巻いてた奴、なんていう言葉を落とされて、慌ててナマエの目がすぐ傍らの海兵へと向けられる。
 恐らくナマエの首に触れたのだろう手を引っ込めた大男が、少しばかり不思議そうな顔をしていた。

「いえ、先程、暑くなってきたので脱いだんです」

 それへ受けて返事をしながら、ナマエはそっとクザンから距離を取る。
 そうしたら何処かへ落としてしまって、と嘘を混ぜながら手袋に覆われた両手を首筋に添えると、それを見たクザンが軽く目を眇めた。
 それからすぐにナマエから目を逸らして、自分が氷漬けにした海賊達を見やる。

「まァ……あれだ。そしたら今度はマフラーを編んでもらえばいいんじゃない? ナマエの趣味より、あの子の方が趣味よさそうだしね」

「酷いこと言いますね、大将」

「だってそうでしょうや。あんな派手なの巻いちゃってさァ」

 やれやれと肩を竦める相手に、機能を重視して買ったんですよとナマエは答えた。
 海から吹きつけて来る風は氷漬けの大地の上を通ってひんやりと冷え、その攻撃を受けてふるりと体を震わせると、ナマエの傍にいたクザンがその立ち位置を変える。
 そうする狙いがあってかどうかは分からないが、ナマエより上にも横にも幅のある男によって風を遮られ、ありがとうございます、とナマエは声を投げた。

「別に何にもしてねェけど?」

 それを受けて笑ったクザンが、そんな風に言いながら改めてナマエを見下ろす。
 それからそのままじっと顔を見つめられ、どうしたのかとナマエがわずかに瞬くと、どうしたの、と低い声がナマエの思考へ重なるように言葉を落とした。

「何かあった?」

 ちょっと顔色悪いんじゃないの、と落ちてきた言葉に、そうですか? と首を傾げる。
 顔色を悪くするようなことなんて、一つも無い。
 むしろ、ここまでの航海の目的は達成したし、ひょんなところから見つかるとも思えなかったものまで見つかったのだから、諸手を上げて大喜びすべきだろう。
 『彼女』はきっと、喜んでくれる。喜ばしいことだ。
 しいて言うなら、目の前の氷像達が並ぶ光景は少し恐ろしい。
 しかしそんなことを海軍大将に言っても仕方の無いことは分かっているので、ナマエは誤魔化すように口を動かした。

「大将がお一人で外出なさるから、とても心配しただけですよ」

「……へえ、そう?」

「後で俺ともう一人でお説教しますから、眠らずきちんと聞いてくださいね」

「あららら……ちゃァんと仕事したってのに、ひっどい話」

 ナマエの言葉に誤魔化されてくれたのか、そんな風に言ってクザンが首を横に振る。
 聞きなれた警笛の音が聞こえ、ナマエがそちらへ視線を向けると、入り江へ向けて回り込んでくる軍艦の姿が見えた。




end


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