乙巳の午睡
※主人公=蛇(大蛇系)につき注意
高いところからの浮遊感と、とてつもない勢いで近付いてきた遥か遠かった筈の大地を覚えている。
どう考えてもあの日俺は死んだのだが、目が覚めたらこの島にいた。
あまりにもびっくりして立ち上がろうとしたら体にものすごく違和感があった。
あまりにもな違和感に地面を這いながら困惑して、自分の姿を一目見ようと思って水辺に行った俺が水面に見たのはこちらをのぞき込む二つの目と大きく裂けた口と鼻のように見える二対の穴だ。
つまり、俺は蛇の姿になっていた。
驚愕に絶叫したのに、口から漏れたのはしゅうともしゃあともとれない声だった。
輪廻転生だのを信じた覚えはなかったが、どうやら俺は生まれ変わったらしい、とどうにか把握できたのはそれから一日後のことだ。悪夢だと思ったのに目が覚めなかったから仕方ない。
しかし、生まれ変わっても人になれるとは限らないのかもしれないが、生前の『人間だった』記憶を持っているというのは一体どういうことなのか。
困惑しながらも、蛇としての習性に従って、俺は森の中で生きてきた。
いっそ死にたいと思ったこともあるが、次の転生先では虫だったらどうしよう、と思うとそれも無理だった。
そういえば俺の知っている蛇は視力が悪かった気がするが、俺の視界は俺の『生前』の物と変わらずクリアなままだった。
よく分からないが、蛇に詳しくは無いので、もしかしたらそういう種類の蛇だっているのかもしれない。
生きた奴を食べるのはいまいち抵抗があったので、体でぐるりと巻いて絞め殺すことを覚えた。ついでに言えば俺の牙には軽い麻痺毒があるようなので、それを使って相手をぼんやりさせるすべも覚えた。
体もだんだんと大きくなって、昔の記憶を少しずつ忘れていって、ちょっと人間としての自分が麻痺してきたような気もするが、まあ、悠々自適な日々だったのではないかと思う。
どうして俺がさっきから自分の蛇生を振り返っているのかと言うと、目の前の物を今一つ信じられないからだ。
「あららら……お前、でけェなァ」
黒いくせ毛の上にアイマスクを乗せて、白いベストに青いシャツを着込んだ『人間』の男が、俺を見上げてそんなことを言う。
長い間話しかけられることも無かった俺へ向けられた言葉に少しばかり感動を覚えたが、今はそういう問題じゃない。
だって、こいつはどう見ても、あれだ。
「しゅららら……」
大将青雉、と呼びたかった俺の口が、呼気で鳴き声のように音を漏らす。
広い森の中で暮らしている俺が、男が近づいてきたことをにおいで感じ取ったのはほんの少し前のことだ。
ついこの間の女の子のように危ない目に遭ってはまずいだろうと思って、俺はその人間を森から追い出すために男の方へと移動した。
俺の体はずいぶんと大きく育っている。巻いたとぐろに人間の一人くらい隠せるくらいだ。
きっと俺を見たら、この間の彼女のように今度の人間もいちもくさんに逃げていくだろうと、そう思った。
そして、男と遭遇して、彼が『生前』読んだ漫画に出てきたのと同じ顔をしていると気付いたのはほんの数分前のことだった。
だがしかし、そんなはずが無い。
だってあれは漫画の話だ。
漫画というのは作り話だ。
暇すぎて夢でも見たのかと思ったが、頬をつねろうにも俺には手が無かった。
人間を脅かそうととぐろを巻いた状態で、俺が少しばかり体を持ち上げると、俺の様子を眺めた大将青雉のそっくりさんは軽く首を横に傾けた。
「そういや、そこの町で『森に化物みたいな蛇が子供を襲った』と聞いたが……あいつァ、お前か」
寄越された言葉に、俺はぱちりと瞬きをした。
元『人間』である俺が、子供を襲うわけがない。
何の誤解だろうと考えてから、ああ、と思い出した。
この間森に入ってきた女の子を脅かしたのは、確かに俺だ。
他の動物に何かされる前に俺へ絶叫して逃げて行ったあの子は、どうやら無事に住処へ帰れたようだ。
男が言っている町というのは、随分前にこの森の外れで見たことのあるあの村のことだろうか。あれから結構経っているから、もしかしたら大きくなっているのかもしれない。
この森は広いが、そこに侵食するほど町が広がりつつあるとは知らなかった。
俺の体は蛇だから、普通の人間に見られたら怖がられることは必至だ。あの子が来た方にはいかないことにしよう。
そんなことを考えた俺の前で、ぱきん、と小さく音が鳴る。
驚いて少しそれていた視線を向ければ、目の前の男の片腕が白く氷づいていた。
ひんやりとした冷気に、体が強張る。
この島はどちらかと言えば温かい地域だ。
だというのに、この男の体はどうして凍っているのだろうか。
「しゅら……」
まさか、本気で大将青雉だとでもいうつもりなのだろうか。
巻いていたとぐろを解きながら体を後ろへ下がらせると、警戒している俺を見やって笑った男の足元が、ぱきぱきと少しばかり氷づいた。
「普段は動物をどうこうするつもりは無いんだが、子供を襲うんなら話は別だ。人間を食うことに興味を持ったっていうんなら、それは『市民』を脅かす害獣だからな」
「しゅららららら!」
何とも蛇聞きの悪いことを言い放つ男に、頭をぶんぶんと横に振る。
誰が害獣だ。俺はむしろそういうのを絞め殺して食べる方だ。
言葉が通じたらそう言葉で訴えるところだが、あいにくなことに俺の体には声帯が無かった。これほど蛇の身を恨めしく思ったことはない。
けれども俺の必死の訴えが聞いたのか、俺の様子を眺めた男が、怪訝そうにその眉を寄せた。
しゅうしゅうと音を立てて、その片腕の氷が消えていく。
「……なんだ、襲ってねェって?」
そうして尋ねられて、こくこくと頭を上下に振る。
声が出せない以上、俺が相手と意思疎通をするためにはボディランゲージしかない。
まだ少し巻いていたとぐろも解いて、必死になって相手に敵意が無いことをアピールすることにする。
俺の様子をしばらく眺めて、完全に腕の氷を溶かしてしまった男は、足元の氷を踏み砕きながら軽く頭を掻いた。
「……お前、人の言葉を理解できるのか」
「しゅ!」
寄越された問いかけには、短く息を吐いて頭をもう一度上下に振ることで答える。
俺の様子を眺めてから、男は軽く息を吐いた。
「……そうか、それなら話が早ェじゃないの。お前、これからはあの町には……あー……あれだ、ほら……」
だらだらした様子で寄越された言葉に、どうやらその続きは『近づくな』と言いたいんだなと理解して頭を上下に振った。
俺の動きを見た男が、忘れたけどまあいいや、なんて適当なことを言ってから少しばかり笑って、その手をひょいと伸ばしてくる。
近付いてきた手にびくりと体を揺らしたものの、男の様子があまりにも普通だったので、俺はそれ以上身構えずに男の掌が体に触れるのを見やった。
蛇らしく体温の低い俺に勝らず劣らず、男の掌もひんやりしている。さっきまで凍っていたんだから当然だろう。
なでなでと俺の体を軽く撫でた男が、どこか面白いものを見る目で俺を見た。
「野生動物のくせに、妙に人に慣れてんなァ。……誰かに飼われてたか?」
それを言うなら、野生動物だと分かっている爬虫類に触ってくる自分はどうなんだろうか。
よく分からないが、男の雰囲気が先ほどまでの敵意など微塵も無かったので、俺はほっと息を吐いた。
人間臭い動きだなと、俺の様子を見た男がまたも笑う。
しゅう、と息を吐きながら舌をちらちらと飛び出させて、空気の匂いを確認した俺は、男がまったくこちらへ敵意を向けていないことを判断してから男の方へと近寄った。
体を寄せてきた俺を見上げて、大将青雉のそっくりさんは笑っている。
さっきもだが、今も、大蛇である俺が近づいているというのに全く身構える様子が無い。
俺が怖くないんだろうか。
少し戸惑ったが、そうだそれなら、と思いつき、尾の先だけを動かして男の腕にくるりと回した。
俺の動きに瞬きをしてから、男が自分の腕を見やって、それからもう一度俺を見上げる。
「……なに、やっぱりおれを食いたい?」
どこか面白がるように言い放った男の体が先ほどよりひんやりと冷えてきたのを感じて、慌てて頭を横に振る。
体の動きが少し鈍く感じるのは、俺が蛇らしく変温動物であるせいだ。冷えるのはやめてほしい。
俺の動きを見やって、冗談だよと冗談にならない言葉を言った男が、俺の尻尾が絡んだ腕を軽く上下に振る。
「それで、そうでないならこれはなんだって?」
何かおれに用でもあるのか、と尋ねられて、頭を上下に一度振ってから体を動かす。
するすると森の中を動きながら尻尾を引くと、俺が導くのに気付いたらしい男がゆっくり歩き出した。
苔むした森の中を進んで、ずっとずっと奥地を目指す。
途中で面倒くさがった男が歩きたくないと言い出して、ちょっと休憩もしつつ進んだ俺が男を掴まえて辿り着いたのは、大きな湖へ落ちる滝の真上だった。
遥か彼方に広がる海が一望できる、俺のいくつかに分かれた住処の中でもお気に入りの場所だ。
「……へェ、こんなとこがあったのか」
そんな風に呟いた男が、どかり、とゆるく円を描いて伸びた俺の背骨の上に座る。
休憩のときに服が汚れるだろうと思って俺の背中に乗せたのが、どうやらお気に召したらしい。
長い体を折り重ねて、男が座っている背中に当たるように背もたれのようなものを作ってみると、それに気づいた男の背中がそちらへ軽く預けられた。
その状態で、男の視線が俺を見る。
「で、おれにこれを見せたかっただけってことは……無いよな?」
面白そうに寄越されたその言葉の含みに、俺は軽く頭を傾げた。
わざわざここまで連れてきたのに、それ以外の理由などどうしてあると思うんだろうか。
ここは俺のお気に入りの場所だ。
なんで蛇なんだもう嫌だとうんざりしたり、誰か話せる相手が欲しいと思ったり、ひとりぼっちで寂しい時に来る場所だった。
いつか、俺を怖がらない誰かが現れたら一緒に来ようと、ずっとずっと思っていたのだ。
まさかそれが『人間』の『男』で漫画のキャラクターのそっくりさんになるとは思いもしなかったが、まあ、長い蛇生そういうこともあるだろう。
「しゅららら」
だから息を吐き出して、軽く尾をぱたぱたと振って見せた後で、海が広がる方へ視線を移す。
彼方へ続く大海原は、今日も美しくきらきらと光をはじいて輝いていた。
あの向こうには何があるのかを、俺は知らない。
海の近くまで森は広がっていなかったし、もし森が続いていたって、海を泳いでいけるとも思えない。俺は蛇であって魚じゃないのだから当然だ。
時々行き交う船を見かけるから、いっそ密航でもしてみようかとも思ったが、体がこうも育ってしまってはそれだって難しいことは分かっていた。
人間を脅かしてしまうし、見つかれば殺されるだろう。海に放り捨てられただけだとしても、死んでしまうのは目に見えている。
俺の様子を眺める男の視線が頭の後ろに突き刺さっていたが、少し置いて、男の体勢が変わったのと同時にそれが外れた。
ぐっと体を後ろに倒して、完全に体を俺に預けてしまっている男に気付き、視線をぐるりと男へ戻す。
「…………………………しゅ?」
そしてそこにあったのは、俺の体の上に殆ど寝そべるようにしながら、額に押し上げていたアイマスクを下ろした男の姿だった。
いやいや、いやいやいや、おかしいんじゃないか。
どうして今寝る体勢に入ったんだ。
俺は蛇だ。あの女の子を平均の少女として考えるにこの男は規格外に大きいが、それより少し大きな体を持った蛇だ。
大きく口を開ければ、今男を飲み込むことだってできる。
そんな俺のすぐそばで、いやむしろそんな俺の体の上で、どうして眠るんだ。
意味が分からない。
おい、と声を掛ける代わりに体を動かして、男の体を真上から覗き込んだ。
ちらちら、と舌を出し入れして確認してみても、感じる『匂い』はリラックスした生き物のそれだった。
この男、本気で眠る体勢に入っている。
「……………………しゅら……」
ぐうと寝息すら零している男を見ていたら、何だか困惑していたのが馬鹿らしくなってきて、俺は小さく息を吐いた。
体勢を戻して、男が寝返りを打っても岩の上に体が落ちないように体を折り曲げて並べながら、温かい岩の上に自分も顔を降ろす。
こうして全身で浴びてみると、今日の気温もあたたかくていい天気だ。
この陽気なら眠くなるのも仕方ないかもしれない。蛇の上で眠るなんて図太い神経をしているのはこの男だけだとは思うが、俺も何となく眠くなってきた。
男が起きる前に目が覚めたらいいなと思いつつ、そっと俺も目を閉じる。
まさか、目を覚ました時にはどうしてか軍艦の上にいて、そっくりさんだと思っていた男が本当に本気で『大将青雉』で。
すなわちここが漫画『ワンピース』の世界で、自分に『大将青雉のペット』という何だか意味の分からない肩書が増えてしまい、更には『ナマエ』と名付けられてしまっていたことなど、俺は全く知る由も無かったのだった。
end
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