幸福あふるるとある日
※サカ誕遅刻
※バレ後
サカズキがそれに気付いたのは、ふと壁際を見やった時だった。
「……?」
不思議そうに首を傾げたサカズキの目の前にあるのは、開いて置かれたスケッチブックだ。白い紙に線を引いて作られたマス目と、それぞれのマスへ数字が順番に並んでいる。
左から始まる三行のマス目のうち、二行目を超えたところまでがバツ印で消し込みされており、残すところはあと二マスだ。一番最後の一が、どうしてか妙にきらびやかな色を使われて記されている。
そして、そこにあるスケッチブックの持ち主は、サカズキの知る限りただ一人だ。
小さな足音が聞こえてそちらへ顔を向けたサカズキは、ナマエ、と姿を現した彼の名前を呼んだ。
「なんじゃァ、これは?」
不思議そうなサカズキの言葉に、ナマエがぱちりと瞬きをする。
それから、サカズキが指差した場所に開かれていたスケッチブックをその目に映して、びくりと脅かされた仔猫のように飛び上がった。
慌ててサカズキの前へ回り込んだ小さな手がスケッチブックを拾い上げて、パラパラとページをめくる。
『何でもない』
そうして向けられたナマエの『文字』に、サカズキはわずかに怪訝そうな顔をした。
言葉を話すことが出来ないナマエとサカズキの会話の手段は、ナマエのボディランゲージか筆談の二択しかない。
そう言った面での教育を受けていなかったのか、あまり文字が得意ではないらしいナマエがスケッチブックに文字を書いて見せるようになったのはサカズキが彼と知り合ってから結構な時間が経ってからのことだ。
最初は片言で、単語を間違って綴っているものも多かったが、最近ではその誤りも少なくなった。
だから、今のナマエが寄越した言葉は、何と書いていいのか分からないのではなく、ただサカズキを誤魔化そうとしているのだ。
マス目に数字を書いてそれを消し込みしているとなると、何かを数えているようなのだが、サカズキにはそれが何なのかも分からない。
追及したものかどうかをわずかに悩んだサカズキは、しかしそれを思いとどまり、一つ頷いた。
「……ほうか」
漏れたサカズキの声は普段と変わらないものであったはずだが、サカズキを見あげたナマエがわずかに目を見開き、わたわたと慌てている。
その手がサカズキの方へと伸ばされて、あまたの海賊達を焼き殺し、その体にやけどを負わせたこともあるマグマ人間の体へとやすやすと触れた。
サカズキの鍛え上げた体の端を少しだけ慰めるように撫でて、真下からナマエがサカズキを気遣わしげに見上げる。
その顔をサカズキがじっと見つめていると、何かを迷うように少しばかり視線を彷徨わせたナマエは、おずおずとサカズキの体に寄り添ったままでスケッチブックをめくった。
開いた白いページに触れたペン先が、サカズキが見ている前で文字を綴る。
『明後日、何時に帰ってくる?』
そうして綴られた問いかけは、普段ならあまり問われないものだ。
何か用事があるのか、と考えて少しだけ自分の予定を思い返したサカズキが、それから『明後日』が示す日付に気付いて口を動かす。
「屑共の遠征じゃァ、日の出前に出る」
戻りは一週間後に決まったと言葉を続けて、わずかに逸れた視線を自分の傍らの彼へと戻したサカズキは、そこにあった驚愕に満ちた相手の顔に、わずかにたじろいだ。
「……ナマエ?」
どうした、とその名前を呼んだサカズキの前で、ふらり、と少しだけ体を揺らしてサカズキから一歩の距離を取った彼は、家の中で相変わらず着込んでいる可愛らしいスカートを少しだけ揺らしてから、ぺら、とスケッチブックをめくった。
先ほどと同じ『何でもない』がサカズキへと向けられて、サカズキの眉間のしわが深められる。
あきらかに気落ちした様子で肩を落としたナマエは、しかしそんなサカズキに気付いた様子もなくすぐにスケッチブックを自分の方へと向けて、それから新たなページに文字を綴った。
『気を付けて行ってきて。怪我をしないでね』
気遣わしげに言葉を綴り、そうして微笑んだナマエの顔に、サカズキはやはり追及することが出来なかった。
※
『サカズキ、昨日誕生日だったんだねェ〜』
おめでとう、なんて心にもなさそうなことを言い放つ電伝虫を、サカズキはじろりと睨め下ろした。
サカズキの同僚のいつもの笑顔を浮かべた電伝虫の口が、念波を伝って送られてきている相手の声をそのまま発する。
「おどれ、そがいな用事で軍の回線を使こうとるんか」
海賊を追い回す軍艦の一室、海軍大将へと与えられた部屋の中でそう唸ったサカズキに、君と話したくなったもんでねェ〜、と海軍大将黄猿が笑った。
相変わらず、サカズキより少し年上のかの同僚は気分屋だ。
実直に徹底的に海賊を排除するために力を注ぐサカズキとも、何を血迷ったか『だらけきった』正義へとたどり着いてしまったもう一人とも違う正義を掲げる男に、サカズキは舌打ちをした。
元より、サカズキへ私用の連絡を繋いでくる人間は少ない。
そしてサカズキの為にと用意された部屋で、海軍の連絡でしか使用しない筈の電伝虫が鳴ったなら、サカズキがそれに出るのは当然だった。
怒らないどくれよォ、なんて言葉を放った電伝虫の向こう側でおどけた顔をしているだろう相手に、怒るのも馬鹿馬鹿しいわ、と低く唸り、サカズキは手に持っていた受話器を電伝虫の方へと向けた。
『それにしても、ナマエくんも可哀想だねェ〜』
あともう少しで回線を切る、と言うところで、サカズキの同僚がそんな風に言葉を零す。
相手の紡いだ『ナマエ』という単語に、動きを止めたサカズキは改めて受話器を自分の方へと引き寄せた。
「ナマエがどうした」
『オォ〜、ナマエくんのこととなると反応がいいねェ〜』
「早う言え」
ニヤニヤと笑っている電伝虫を睨んで唸ったサカズキに、唐突に連絡をしてきた海軍大将が言葉を紡いだ。
『サカズキの為に色々とサプライズを用意してたってのにィ……ぜーんぶ無駄になっちゃったんだってねェ〜』
まあ仕事じゃあ仕方ないけどねェ、などと放たれた言葉に、サカズキはわずかにその顔に戸惑いを浮かべた。
『おやァ、聞いてなかったのかァい?』
優秀な電伝虫がそれを伝えてしまったのか、サカズキが何も言わぬうちからそんな風に言葉を寄越されて、知らん、とサカズキがそれへ答える。
まあサプライズだったって話だからねとそれに笑って、海軍大将黄猿が言葉を続けた。
『色々用意してるところだったらしいよォ〜、まァ、当人が当日にいないんじゃァお開きだろうけどねェ〜』
※
サカズキの率いる部隊を乗せた軍艦は、予定から何の狂いもなくその日程を終了した。
日の出とともに出発した港へ辿り着いたのは深夜近く、一日の休みを申し付けて部下達を帰らせたサカズキが人もまばらな道を歩いて辿り着いた家は、当然ながら灯りも殆どついていない。
恐らくは眠っているだろうただ一人を気遣い、そろりと自宅への侵入を果たしたサカズキが見つけたのは、よくともに食事をとっている畳の部屋のテーブルと、そこに伏せるようにして眠っているナマエの姿だった。
サカズキを待っているうちに眠ってしまったのだろうということは、テーブルの端に伏せておかれた湯呑や食器ですぐに分かる。
まるで噂に聞く『妻』とやらのようだと、ナマエの様子を眺めたサカズキは思った。
サカズキとナマエは同性なのだから結婚と言う概念が成立しないと分かってはいるものの、それに近い間柄である以上、悪くない表現であるような気もする。
起きて待っていようとしてくれていたのは嬉しいが、しかしどう見てもうたた寝するには薄着の相手に、サカズキの口からはため息が漏れた。
「……何をしちょるんじゃ……」
眉をよせ、小さく呟いたサカズキが、ナマエの傍にそっと屈みこむ。
座ってテーブルに伏せているナマエは屈んだサカズキよりも更に小さく、寝顔はとてもあどけなかった。元より、ナマエはサカズキよりずいぶんと年下なのだから当然だろう。
ひょいと脱いだサカズキのスーツを掛けてやるも、体格の差が歴然となっているせいで、もはや上着では無くてケットか何かのようだ。
肩につくほど伸びた黒髪が顔にかかっているのをサカズキがそっと避けてやると、丸みのある頬をサカズキの指がわずかに擦る。
刺激を受けてむずがるように少し肩を竦めた後、ナマエの目がゆっくりと開かれた。
「…………?」
まだ寝ぼけているのか、ぼんやりとした目がサカズキを見やって、それからその顔がふわりと笑みを浮かべる。
安心しきったようなその顔に身のうちのどこかを焦されたような気がして、サカズキはわずかにたじろいだ。
そんな相手を気にした様子もなく、まだ寝ぼけているらしいナマエが、自分の身にまとっているサカズキのスーツに気付いて、自分の体に巻き付けるようにそれを引き寄せる。
寒いのかとその仕草で気付いて、サカズキの眉間にしわが寄った。
「そがいな格好で寝よるからじゃァ」
ナマエは、サカズキよりも極端に体が弱いのだ。
いつだったか風邪を引いた自分のことは棚に上げて非難したサカズキが『まだ眠いんか』と尋ねると、こく、とナマエが一つ頷く。
それからその小さな体がサカズキの方へと近付いて、ぴた、とサカズキへとくっついた。
唐突な相手からのスキンシップに、サカズキがわずかに固まる。
先ほどまで上着を着込んでいたサカズキの体が温かいのか、体を包んだはずのスーツの前を開いてサカズキの方へ体を押し付けたナマエは、袖を通してしまったらしいサカズキのスーツの袖ごとサカズキの体へと腕を回して、サカズキの胸元で安堵するようにため息を零した。
それを受け、どうにか動かした腕をサカズキがナマエの体に回すと、抱き留められたと把握したらしいナマエの小さな頭が、すりすりとサカズキの体へと擦り付けられる。
ナマエの言葉を放つスケッチブックはローテーブルの脇に置かれたままで、ナマエの言葉を求めようにもどうにもできず、とりあえずサカズキが視線をナマエの方へと向けると、やや置いて顔を上げたナマエが、嬉しそうに笑いながら口だけを動かす。
おかえりなさい、と声も無く動いた唇が、更に言葉を綴る。
はくはくと動くだけの唇を読むのには時間がかかったが、うまく伝わらなかったかと考えたらしいナマエがスケッチブックを手にするためにサカズキから離れようとするのを阻止したのは、彼の体に回されたサカズキの腕だった。
ぎゅっと抱き寄せられ、初めは自分からすり寄ってきた癖に顔を赤らめた相手がちらりと視線を向けてくるのを、サカズキが見下ろす。
わずかに自身の顔が緩んだのを感じたが、この場には自分とナマエしかいないのだから気にしなくていいだろうと、そう考えたサカズキは、とりあえず自分の体がこれ以上温度を上げないよう細心の注意を払った。唯の一般人であるナマエに、再び火傷を負わせるわけにもいかないのだ。
「……おう、楽しみにしちょる」
そうしてマグマの代わりに零したサカズキの言葉に、ナマエが幸せそうに笑った。
※
翌日、数日遅れで行われたささやかな誕生日祝いは、どうしてだか二人ほどの闖入者がやってきたせいで二人きりで祝うことが出来なかったが、それなりに賑やかで和やかな場となった。
「あららら……子供じゃねェんだからさ、ほら、一口」
「やらん」
「オォ〜、ひっどいねェ〜……」
少々歪な形の小さなケーキをサカズキが独り占めする格好となったのは、まあご愛嬌というものだ。
end
戻る | 小説ページTOPへ