三単語の幸せ
※性別バレ後くらい
人間、努力はしてみるもんだ。
「どうしたんじゃあ、ナマエ」
久しぶりの二人での買出しの途中、足を止めた俺に気付いて、同じように立ち止まった赤犬がその目を向けてきた。
俺より随分高い位置にあるそれを見上げてから、俺はすぐ横の本屋へと視線を送る。
俺の視線の先を同じように見やって、赤犬が呟いた。
「何ぞ、欲しいもんでもあるのか」
問われた言葉にこくこく頷いて、寄っていいかとその顔を見上げながら首を傾げる。
俺を見下ろした赤犬が、珍しいのォ、なんて呟きながらその足を本屋のほうへと向けたので、立ち寄りの許可が出たと判断した俺は赤犬より先に本屋へと足を動かした。
本屋は相変わらず宇宙の言葉で溢れている。どこを見てもアルファベットで目が回りそうだ。
けれども、置かれているものの雰囲気で、俺は目的のものがどこにあるのかをちゃんと判断することが出来た。
だから足を止めて、棚にあった厚みの無い本をいくつか手に持ってぱらりと中身を確認した後、それが目的のものであることを判断する。
よし、とりあえずこれを買おう。
赤犬から時々もらっていたお小遣いを使うときがついに来たのだ。
「……それが欲しいんか?」
多分いわゆる知育ドリルに該当するんだろうそれを手にしてレジへ向かおうとしたところで、ひょいと俺から本を取上げた赤犬が不思議そうな顔をした。
その大きな手がぱらりと中身を確認してから、こうてくる、なんて言われて目を瞬かせる。
ダメだと首を横に振ったのに、赤犬は俺の拒否に知らないふりをして、ここで待っていろと言葉を置いてそのままレジへ向かって行ってしまった。
また買ってもらってしまった。
追いかけたいのに待っていろと言われては追いかけることも出来ずに、随分と大きなその背中を見送る。
赤犬は俺にお小遣いをくれるけど、一緒に出かけると俺が買おうとしたものを全部買ってしまう。おかげで、時々の買出しのたびにもらうお小遣いは全部引き出しへ貯金されている。
今日こそ使えると思ったのに。
お小遣いだって結局赤犬のお金なんだからどちらでも構わないだろうと言われそうだが、気分の問題だ。
ため息を零した俺の視界で、赤犬は途中の文具コーナーのあたりでノートとペンまで買ってくれたようだった。俺が何をしたいのかちゃんと分かってくれている赤犬の行動に、胸が切なくなる。
俺は、自分の気持ちを伝えるための手段が欲しいのだ。
『男』だと知って、それでも受け入れてくれた赤犬の傍にいられるようになってから、ずっと考えていたことだった。
簡単な挨拶なら、ゆっくり口を動かせば赤犬は読み取ってくれる。おはようとか、ありがとうとか、ごめんなさいとか、身振りも加えれば少しくらいは感じ取ってくれる。
けれどもそれじゃあ、俺が何を考えているかまでは伝えられない。
どうしてか俺は口がきけない。それが治らないのだったら、俺が選べる手段はあと一つだけだ。
けれども悲しいことに、このワンピースの世界の文字は『英語』だった。
英語なんて大嫌いだ。あれが地球語なら宇宙人で構わないと本気で思ったこともある。社会人になった従弟に職場で使うかと聞いたら全く使わないと言われたから、余計に勉強する意欲をなくしていた。
それでも今は、少しくらいは赤犬に自分の言葉を伝えられるようになりたい。
俺がそんなことを考えながらぐっと拳を握ったところで、会計を済ませた赤犬がこちらをちらりと見やった。
それを見て足を動かせば、先に店を出た赤犬の後を追いかける形になる。
自らレジに並んで買い物をしていった赤犬を戸惑った顔で見ていた店員が、どう見たって血縁関係でもない俺と赤犬を見比べて更に不思議そうな顔をしていた。
それをちらりと見やってから店を出て、赤犬の隣に並ぶ。
「ほれ」
赤犬の手がひょいと差し出した包みを両手で受け取って、ありがとう、と声も出せないままにゆっくりと口を動かす。
俺の口と顔を見てそれを読み取ってくれたらしい優しい誰かさんは、ふ、と小さく笑ってくれた。
※
家に帰り、着替えて夕食の用意をして一緒にご飯を食べた後で、早速買ってもらったものを広げた俺は、延々と文字を白いノートに綴りながらじとりと本を眺めていた。
さすがに子供向けだけあって、分かりやすい絵の下にあれこれと単語が並んでいる。
あっぷる、すとろべりー、どっぐにもんきーにばーど。
聞いた覚えがある単語を声も出ない口の中で繰り返しながらせっせと文字を綴っているが、書き取りなんて久しぶりすぎて少しばかり手が痛い。
というか、これは身になっているんだろうか。
そんな小さな疑問を感じてうつむいてしまえば、頭から被っている長めのかつらがさらりと音を立ててテーブルを滑った。
そういえば、性別が男だと知られた後も、俺は家では女の格好をしていることが多い。
外に出かける時用に男物の服を買ってもらったしそれも大事に着ているけど、たくさんもらった女物の服を処分してもらうのは忍びなかったからだ。
赤犬も、大将黄猿も大将青雉もつる中将も、本当にたくさんの服をくれた。おかげで、少しばかり女物の服に詳しくなった気がする。
ついでに言えば、いくらなんでも短い髪でフワフワひらひらのスカートを穿くのは鏡の前での違和感がありすぎたので、かつらもまだ現役だ。
何より、赤犬は、俺がどんな格好をしていても構わないらしい。昨日だって、どう見ても変態な格好の俺を可愛いと言ってくれた。
赤犬が可愛いと思ってくれるなら、家の中でくらい女装したって構わない、とは思えるくらいに俺は赤犬が好きだ。
「……」
赤犬は、俺が男だと知っても、気持ち悪がったりしなかった。
それがどれだけ俺を嬉しくさせたかなんて、どこかの誰かさんはちっとも知らないのだ。
けど、もし俺が文字を手に入れることができたなら、少しくらいは赤犬に伝えることが出来る。
面と向かってはさすがに恥ずかしいから、文が書けるようになったら手紙を書くと決めていた。
でも、なんて書こう。
ふと手を止めてそんなことを考えて、ううむ、と少しばかり眉を寄せる。
俺を何度も助けてくれてありがとう。好きになってくれてありがとう。俺と一緒にいてくれてありがとう。
しまった、ありがとうしか出てこない。
他にも何か無いか。
考えながら改めて手を動かしてみたら、ゆらりと揺れたペン先が『L』と書いた。
それを見てぴんとひらめいたので、前に一文字足して、後ろにも続けてみる。
よし、これだ。
「…………?」
いや、何か違う気がする。
けれども何が違うんだろうかと首を傾げたところで、上から少しばかり影が掛かった。
「ナマエ? どうしたんじゃァ」
それと共に落ちてきた言葉に、ぱちりと瞬いてから上を見上げる。
さっき食後の鍛錬で庭に出て行ったはずの赤犬が、いつの間にやら後ろに立っていた。いつ戻ってきたんだろう。
その顔を見上げた俺を見下ろしていた赤犬が、その視線で俺の手元を見やり、怪訝そうに眉を寄せる。
「……綴り間違えとるぞ」
言いながら伸びてきた手がノートの上を指差したので、俺も赤犬の腕を辿って目の前のノートを確認した。
『I LAVE YOU』と試しに書いてみた文字列の傍をなぞった赤犬の指が、とんとん、と『A』の辺りを示した。
あ、そうか。ラブはLOVEだった。
どおりで何か変な感じがするはずだ。いくらなんでもちょっと恥ずかしい。
慌てて下に正しい綴りを書こうとしたら、赤犬の手が昼間に本屋でしたように俺の手からひょいとペンを奪い取った。
「正しくはこうじゃけェ」
俺の背中に少しばかりくっつきながら、言い放った赤犬の手がペンを持ち直し、そのペン先をノートに押し付けた。
どうやら見本を書いてくれるらしい。
そう気付いて、俺は目を輝かせた。
だって、今赤犬がお手本を示そうとしてくれているその三単語は、世間一般的に見て『愛の告白』とでも言うべきものだ。
赤犬は俺に好きだと言ってくれたし、俺も赤犬が好きだけど、文字にしてくれたなんてことは当然ながら一度も無い。
後で、赤犬が書いてくれた辺りだけちぎって大事にしよう。
心に誓ってゆっくり動くそのペン先を見つめた俺の視界で、『I』と『L』と『O』と『V』まで綴ったところで、その動きがぴたりと止まる。
何だ、どうした。
「?」
首を傾げて改めて後ろを見やると、ぱちりと目が合ったはずの赤犬が、ふいと俺から目を逸らした。
その手がそっとペンを置いて、代わりのように俺の頭を軽く撫でる。
そうしながらも目をそらしたままの赤犬に、あれ、と俺は目を丸くした。
なぜだろう、赤犬が照れてる。
「……そろそろ終いにして、残りは明日にせんか。わしゃあ風呂に入る」
少しばかり戸惑った俺へそう言って、赤犬はひょいと立ち上がって行ってしまった。
ゆっくり引き戸を閉めていった赤犬を見送ってから、む、と少しばかり口を尖らせて改めてノートを見やる。
あと四文字で完成だったそれにペン先を当てて、残りを書いてみるけど、赤犬の字と俺の字では違いがありすぎた。赤犬は少し筆圧が高いほうだと思う。白いノートに記されたくっきりはっきりとした文字は、まるで赤犬自身みたいだ。
不恰好になってしまった一文の横に改めてペンを置いてから、そっと指で文字に触れてみる。
インクは速乾性だったのか、軽く触ってみても擦れないし指も汚れない。
この字で、残りも書いて欲しかったな。
そうは思ってみても、風呂に行ってしまった赤犬が戻ってこないことなんて分かりきったことだ。
「…………」
とりあえず、文字が書けるようになったら手紙で強請ってみよう。
新たな目標を一つ手に入れた俺は、赤犬が風呂から上がるまでの間、改めて英単語の書き取りに時間を費やすことにした。
子供みたいな字と文体で手紙を書けるようになったのは、それから二ヶ月くらい後のことである。
英語なんて滅びてしまえとずっと思っていたけど、人間、努力はしてみるもんだ。
照れた赤犬が眉を寄せながら書いてくれた三つの単語を眺めた俺は、しみじみとそんなことを考えていた。
end
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