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恋の在処
※性別ばれ以前、まだくっついていない時期の二人
※名無しオリキャラ注意



 かたり、と響いた小さな物音に、サカズキはふと顔を上げた。
 その視線の先にあった扉の外を、何かができる限り控えめに物音をたてながら移動していく。
 その様子を窺って、完全にその物音が離れて行ってしまってから、サカズキはすぐさま立ち上がった。
 時間をつぶすために読み込んでいた資料を座卓に放って、一度廊下の様子を窺い、誰もいないことを改めて確認してからそこを開く。
 見やった通路には当然ながら誰もおらず、少し離れたところにある玄関口の方で、わずかな物音が響いていた。
 ちらりとサカズキが見やった室内の時計は、まだサカズキが『起床すべき』時間よりも一時間ほど早いということを示している。
 だというのにサカズキがこんなにも早く目を覚ましているのは、今玄関口で一生懸命靴を履いているだろう『ナマエ』のためだった。
 ナマエはサカズキが保護した『少女』だった。
 酷く恐ろしい目に遭ったのだろう、言葉も文字も失ってしまったナマエが、サカズキの下で過ごすようになって、もう結構な時間が経つ。
 サカズキが負わせてしまった火傷が治り始めてからというもの、ナマエは家のことを率先してやりたがるようになった。
 サカズキの体格に合わせて作られているこの家の中では、小さなナマエがそれを行うのは随分と大変だろうということくらいサカズキにだって分かるというのに、ナマエは毎日一生懸命だ。
 どうやら、保護してもらっているのだから働かなくては、というけなげな意識の表れであるらしい。
 そう理解してしまったら、サカズキが横から手を出すこともできなくなってしまった。
 あまり家事をしたことが無かったらしいナマエの手つきは覚束ないが、例えばあまりうまいとは言えない料理を出して恐る恐る窺ってくるその顔を見て、まずいと拒否することなどできる筈もないのだ。
 そして早朝の外出も、そういったものの中の一つだった。

「……行くか」

 がちゃん、と玄関の扉が開かれて、やや置いてから閉じられ錠の落ちる音まで聞いたサカズキは、一人でそう呟いてから廊下を歩いた。
 先ほどナマエが出て行ったのだろう玄関まで移動して、そのまま玄関から外へ出る。
 外へ出た後、元通りに鍵も掛けてから、出勤時の恰好よりは少々ラフな姿でそっと物陰から窺うサカズキの視界に、ぱたぱたと掛けながら道を進むナマエの小さな背中が入り込んだ。
 今日の服は、昨日サカズキが買って帰った新しい物にしたようだ。
 今期の流行だと店員に熱弁されて、そうかと流されるがままに買ってきたものではあったが、後姿から見ても、ナマエによく似合っているのが分かる。
 生地の薄いスカート部分がナマエの動きに合わせてふわふわと揺れて、刺しゅうされた何匹かの蝶が動く様はまるで本物が舞っているかのようだ。
 ナマエはいつも、サカズキが持ち帰った衣類を身に着けている。
 サカズキ一人しかいなかった屋敷にナマエが着ることのできる大きさのものなど無いのだから当然だが、そろそろナマエのための衣類の数はサカズキ自身が持っている物よりも上回っているだろう。
 サカズキが買う他に、サカズキの上司や同僚が贈って寄越すからだ。
 つる中将やセンゴク元帥は心からの親切心のようだったが、二人の海軍大将は明らかに面白がっている。
 そんなことを考えながら物陰からナマエを窺って、サカズキははっと身構えた。
 ナマエの前方から、早朝のジョギング中らしい海兵の青年が走ってきている。
 それに気付いたナマエが走る速度を緩めて足を止め、歩いている道の一番端へと寄った。
 ぺこり、と頭を下げた海兵に、ぺこり、とナマエも頭を下げる。
 そのまますれ違った海兵は、サカズキの前まで通りかかることなく途中で道を折れ、その姿が見えなくなった。
 去っていく海兵を見送ったナマエが、安心したように体の力を抜いたのが、離れていても分かる。
 ナマエのそれに合わせたように、サカズキも思わず握っていた拳を開いた。
 ナマエはあまり、人と接するのを得意としない。
 誰かと近距離になった時に体を強張らせて相手を窺うのは、どう見たって怯えているからに違いなかった。
 ナマエはどこかの海からさらわれて売られる寸前であったのだ。
 それゆえに恐怖症になっているらしいのだというのが、ナマエを診察した女医の診断だった。
 今のところ、人目を避けるように家で大人しくしているナマエが、唯一自分から進んで外出するのは、人がほとんど歩いていない朝のこの時間帯だけだ。
 それも、今再び歩き出した先で、すぐに辿り着いてしまった花屋へ通うだけの距離である。
 せめてもう少し人に慣れることはできないだろうかと、サカズキがナマエを一人で外に出すようになったのはここ一週間ほどのことだった。
 そして、ナマエのその身に危険が無いかとついつい後ろから見守ってしまう海軍大将赤犬は、自ら自分の起床時間を一時間早くしている。
 意外と心配性だねェとボルサリーノに笑われたこともあるが、ナマエに身の危険が無いかを確認するためなのだから仕方の無いことだ。

「いらっしゃいませー。あ、ナマエちゃん」

 丁度店を開けたところだったらしい店員が、ナマエへ声を掛けた。
 朗らかなその声音は、最近早朝の店番をするようになった店主の跡取り息子のものだった。
 さわやかに微笑んだ彼の視線が、自分よりずいぶん小さいナマエを見下ろしているのを、サカズキも離れた場所から見守る。

「いつもの薔薇でいいのかな?」

「……」

 尋ねられて、ナマエが言葉の代わりにこくりと頷いた。
 それを受けた店員が、店先に出した薔薇の何本かをナマエへ差し出して見せる。
 そのうちの一輪をナマエが指差して、頷いた店員がそれを包んでいる間に、ナマエが持ってきた小さな鞄からベリーを出した。

「はい、お待たせしました」

 毎朝サカズキの胸元を飾っている薔薇が、店員の手によりナマエへと渡される。
 間に金銭のやり取りが発生しているものの、交わす品のせいで、まるで店員の男がナマエへ赤い薔薇を贈っているようだとまで考えてしまったサカズキは、少しばかり不愉快そうに眉間に皺を寄せた。
 けれども、どうして不愉快に感じるのかが分からずに、小さく息を吐いてからナマエと店員から目を離そうとして、そこに見たナマエの表情にぱちりと瞬く。 店員が小さな声で何かを言い、それを受けて、いつもなら誰かと接するのに顔を強張らせているナマエが、小さく微笑んだのだ。
 サカズキの前では最近よくやるようになった笑顔のナマエに、サカズキの体がびしりと強張る。

「へえ、やっぱりそうか。うらやましいなァ」

 店員が先ほどと何一つ変わらない笑顔で何かを言っているが、今一つそれを理解しきれず、とりあえずサカズキは機械的に足を動かした。
 店員と言葉を交わしたナマエが、くるりとそのまま踵を返したのだ。このままでは鉢合わせてしまう。
 自宅の前を通り過ぎるように陰から移動して、そこで様子を窺うと、ナマエはまっすぐに花屋から家へと戻ってきた。
 小さな体が門をくぐり、鍵を開けて、家の中へと入る。
 玄関先から奥へ移動していくナマエの気配を確認してから、サカズキもひっそりと帰宅した。
 もうすでに台所にいるらしいナマエの様子を窺ってから、サカズキの手がゆっくりこっそりと玄関の鍵を掛ける。
 今日も、ナマエは無事である。
 そう判断して、そこでようやくサカズキも安堵のため息を零した。
 気付けばその手は拳を握っていて、マグマに変質しかけていた指から慌てて力を抜く。
 玄関先の靴箱の上に置かれた時計を見やれば、当然ながらまだサカズキの起床時間には早いことを示している。
 けれども、いつもなら部屋に戻って起床時間を待つはずのサカズキは、どうしてかそのまま、あれこれと小さく物音がしている方へと移動を始めた。
 足音を隠さず歩けば、台所と繋がっている居間へとサカズキがたどり着いたところで、それに気付いたらしい小さなナマエが振り返る。

「…………?」

 声が出ない代わりに首を傾げて、じっと視線を注いできたナマエへ、おはよう、とサカズキは言葉を紡いだ。

「目が覚めただけじゃあ、気にせんでおけ」

 さらにそう言葉を紡いで居間の座布団の上に座り込み、その手が食卓の上に用意してあった新聞を手に取る。
 ばさりとそれを広げ、ちらりと窺った先では、不思議そうにしながらも頷いたナマエが、すぐにサカズキへ背中を向けた。
 サカズキに合わせて作られた家の中で動き回るナマエには、踏み台が必須である。
 今日もまた、サカズキが買ってきた踏み台の上にその小さな体が乗っていて、あまり慣れているとは言えない手つきで朝食を作っている。
 しゅんしゅんと音を立てたケトルが火からおろされて、水音を立てながら急須に注がれていく様子を眺めて、サカズキはもう一度視線を手元の新聞へと向けた。
 世界で起きていることをあれやこれやと並べた記事のいくつかを読んでみるが、食卓の端に置かれた小さな花瓶にさされた真っ赤な薔薇が視界に入れば、それだけで先ほどの花屋でのナマエの笑顔が脳裏に浮かんでしまい、新聞に集中することができない。
 他人を怖がるナマエが、他の誰かに笑顔を向けているのを見たのは初めてだった。
 それだけ相手に慣れたと言うことだろう。
 あの花屋へ、ナマエは毎日サカズキのために薔薇を買いに行っているのだから、顔なじみになるのも当然のことだ。
 そうわかっているというのに、どうにも、面白くない。
 もやもやとくすぶる感情が何なのか、分かるような気がするものの自覚するのが憚られて、サカズキの手が軽く新聞を握りしめた。
 とたたたた、と足音がして視線を紙面から動かせば、どうやらサカズキに茶を淹れてきたらしいナマエが、その湯呑をそっとサカズキの前へと置く。
 サカズキの手の大きさに合わせた湯呑に急須の口から茶を注いで、手の動きを止めたところでサカズキの視線に気付いたらしいナマエの双眸が、不思議そうにサカズキを見やった。
 ぱちりと瞬きをして、どうかしたのかともう一度首を傾げてくるナマエへ、サカズキは首を横に振る。

「……なんでもありゃあせん」

 不思議そうなナマエへ向けてそう言い放ち、続いて茶を淹れてもらった礼を述べれば、ナマエの顔に笑顔が浮かぶ。
 ふんわりと和らいだそれの幼さに、サカズキは少しばかり目を細めた。
 サカズキが保護しているナマエという名前の『少女』は、口がきけない代わりに随分と表情が豊かだ。
 その体に火傷までさせたサカズキに怯えることも無く、守ってくれる相手だと分かっているからか、サカズキのことを純粋に慕ってくれている。
 無防備に見せるその笑顔は、花屋の前で見せていたそれよりも穏やかで、柔らかく見えた。
 たったそれだけのことで優越感を感じている人間がいるなどということを、ナマエは恐らく知らないに違いない。
 そうしてそれでも先ほどの光景を思い出せば口の中が苦みを増す、贅沢な男が目の前に座っているということも。
 あの時花屋と何を話していたのかと聞いてみたいところだが、それを『見ていた』と知られたくなくては疑問を口にすることもできはしない。

「…………」

 サカズキの大きな手が湯呑を掴んで、胸の内にわいたもやもやとした感情の全てを沈下させるために、淹れてもらったばかりの茶を口へ運ぶ。
 ナマエが手ずから淹れたばかりの茶はまだ随分と熱かったが、マグマ人間がそんなことを気にするはずも無かった。


 花屋の彼が、毎朝『同棲相手』から赤い薔薇を贈られるサカズキをただ純粋に羨んでいたのだと知ったのは、それから随分と後のこと。



end


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