惰弱な誰かさん
※付き合う前の二人
これは一体、何なんだろうか。
自室として与えられた部屋の中で、俺は一人、手の中のものを見つめて首を傾げていた。
手に持っているものは、さっき帰ってきた赤犬が俺へくれた『お土産』だ。
つる中将から預かってきたというそれは、俺の掌で簡単に隠せそうなくらいの大きさの丸いもので、蓋をくるくるとねじって開くことが出来る。
中に入っているのはどうも軟膏だかクリームだかのようだが、何でつる中将は俺へこれをくれたんだろうか。
最近、火傷も治ってきたから慣れない家事をやっている俺の話を赤犬がしたんだろうか。
ということは手荒れようのクリームかとも思ったのだが、指でちょっと取ってみたら指先に薄く桃色っぽい色がついてしまった。さすがに手を桃色に染めるのがおかしいというのは分かる。
はて、とするとこれは何だろうか。
もう一度首を傾げたところで、廊下と自室を仕切っている戸が軽く叩かれた。
「ナマエ、入るけェの」
それから声を掛けられて、俺はくるりと引き戸のほうを見やる。
入ってきたのは当然ながらこの家の家主で、風呂上りらしくいつものワノ国の服に着替えた赤犬が、座ったままの俺を見て少し不思議そうにした。
「何しとるんじゃ」
問われて、手に持っていたものを赤犬へと差し出してみる。
赤犬が俺の持っている『お土産』へ視線を向けたのを見てから俺が首を傾げると、赤犬の目が少しばかり怪訝そうになった。
「使わんのか」
そうして問われて、どうやら赤犬はこれが何なのか分かるらしい、ということを俺は理解した。
それもそうだった。だって、これは赤犬が持って帰ってきた『お土産』なのだ。いくらつる中将がくれたとは言っても、何かも分からないものを持ち運んだりはしないだろう。
よし赤犬、俺にこれの使い方を教えてくれ。
期待を込めてその顔を見上げつつ、自分の手で丸いそれの蓋を開けてみる。
俺の動きを見つめる赤犬の前でもう一度首を傾げると、赤犬がそっと身を屈めてきた。
「……何じゃァ、まさか使い方がわからんのか?」
問われた言葉に、こくりと頷く。
こういうとき、口が聞けないのは不便だ。
全く、俺はどうして声の一つも出なくなったんだろう。
「そんなもん、指で塗るだけじゃろうが」
被っているかつらがさらりと揺れたのを見ながらもう一度顔を上げると、俺の顔を見下ろした赤犬が、そんな風に言う。
塗る、という言葉からして、やっぱりこれは軟膏か何からしい。
もしかして、火傷跡用だろうか。
俺は助けてもらったときの格好の所為で『女の子』だと誤解されているから、火傷跡が残ってしまうということに『同じ女性』としてつる中将が気遣ってくれているらしい、と言う話は前に赤犬から聞いたことがある。
つる中将からだと言って渡される服は袖の長いものばかりだから、多分本当にそうなんだろう。
なるほど、だとするとコレは腕に塗るのか。
色がつく意味は分からないけど、そういう軟膏なんだといわれたら納得するしかない。だってここは『ワンピース』の世界で、俺が知っている常識なんて通用しない場所なのだ。
こくりと頷いた俺は、蓋を傍らにおいてから片腕の袖をめくり、もう随分良くなった火傷跡を露出させた。
俺にこれを刻んだ張本人が、それを見て少しばかり眉を寄せる。俺を助けてくれるための余波で受けただけのものなのだから、そんな顔をしなくてもいいのに。
恩人にそんな顔をさせるのは忍びないから、これが火傷跡を薄くするためのクリームなら、確かに俺はこれを使うべきだ。
そう思って思い切り指でクリームを掬い取り、腕の跡へ塗りつけようとしたら、がしりと手を掴まれて止められた。
「……何しちょるんじゃ」
呆れたような声と共に腕が引っ張られて、今指で一掬い取ったクリームが容器によってこそがれる。
何か間違っていたかと思って赤犬を見上げると、眉を寄せた赤犬の手がひょいとクリームをほんの少しばかりとって、それがそのまま俺の唇に押し当てられた。
むにむにと唇を押されながら撫でられて、俺は目を瞬かせる。
赤犬の指は俺のそれより随分太くて、やっぱり海軍大将なんてやってるからか少し硬かった。
その指先にざらつきを感じないのは、今さっき容器から掬われたクリームが俺の唇と赤犬の指の間にあって、赤犬がそれを俺の口にぐりぐりと塗りつけているからだ。
普通人に触られないところだからか、何だかちょっとくすぐったい。
けれども手を押しやろうにも俺の力が赤犬の腕に勝てるわけもなく、顔を背けようとしたら先ほどまで俺の片手を掴んでいた手にがしりと顔を横から掴まれてしまった。
ぐっと力を入れられて、少し痛い。
「こうやって使うもんじゃろうが」
結局なすがままに唇をいいようにされた俺の口から指を離して、赤犬がそんな風に言った。
軟膏だかクリームだかを塗られて少しばかりべたついた唇の辺りに手をやって、困惑しながら赤犬を見上げる。
「……?」
俺の顔を見下ろした赤犬の顔が、何だかいつもより少し近い気がする。
どうしたのかと思ってその顔を見上げていたら、またほんの少し距離が縮まって、覗き込んでくるその目にぱちりと瞬きをした。
いつだって正義を宿している赤犬の目はまっすぐで、厳しく見える。
俺の顔に触れているその手が今、悪魔の実の能力を使えば、俺の体は簡単にマグマに焼かれて蒸発してしまうに違いない。
そんな風に思ってもあまり怖いと感じないのは、赤犬が無差別にそんなことをする人じゃないということを、俺が知っているからだ。
こちらを見つめる赤犬の目を見つめ返していたら手元がおろそかになっていたらしく、片手に持ったままだったあの軟膏だかクリームだかの入った容器がことんと落ちた。
それをきっかけにしたように体をびくりと揺らして、赤犬がぱっと俺から顔を離す。
ついでにその手が俺の顔を解放して、そのまま赤犬は屈んでいた姿勢から立ち上がった。
「……悪くない色じゃけェ、使うんならそれにしちょけ」
何かを誤魔化すようにそんな風に言って、さっさと風呂に入れ、なんて最後に無理やり付け足してから、赤犬はそのまま部屋を出て行ってしまった。
慌てたようにぴしゃんと閉じられた戸を見やってから、とりあえず落ちた容器を拾い上げて、横に置いた蓋を閉める。
それから改めてさっき赤犬にぐりぐりとやられた唇を触った俺は、机に仕舞いっぱなしの手鏡を取り出した。これも、少し前に赤犬が持ってきた『お土産』だ。確か、センゴク元帥がくれたとか言っていただろうか。
赤犬じゃなくて俺に合わせたんだろうその鏡は俺の片手で持てるくらいに小さくて、そこに映りこんだ自分の顔を確認して、ぱちりと瞬きをする。
鏡の中のそいつは、唇をつやつやと桃色に染めていた。
どう考えても、さっき赤犬が俺の口に塗りつけたものの所為だ。
鏡から手を離して見てみたら、さっき思い切り一掬いしていた指も、似たような色になっている。
なるほど、つまり今日の『お土産』はリップクリームだったのか。
そう把握して、俺が見つめた鏡の中のそいつはへにょりと眉を下げた。
唇が荒れたら確かにリップクリームを塗ることだってあるかもしれないけど、俺の唇はそう荒れてもいなかったと思う。
それに、唇が荒れていたって、普通の男は『色つき』のリップクリームなんて塗らないんじゃないだろうか。
なのに俺の唇がつやつやぷるぷると桃色になっているのは、俺が『女の子』だと思われているからだ。
センゴク元帥にも、つる中将にも、赤犬にも。
唇をなぞった指先を思い出して、もう一度自分の唇に触れてみる。
べたりと少し指先がクリームで汚れたけど、そんなのは後で洗えばいいだけのことだ。
そのまま、さっきクリームを塗りつけてきていた赤犬の顔を思い出して、小さくため息を零す。
分かってる。男の俺が、こんな化粧をしたって気持ち悪いだけだ。
それでも、『悪くない』なんて言った赤犬の言葉を思い出せば、ごしごしと唇を擦ってこの色を落とすことすら躊躇ってしまう。
仕方ないんだ。
だって、俺は赤犬が好きだった。
『女の子』だと思ってくれている間は今みたいに一緒にいられると分かっているから、『男』だって伝える努力すら出来なくなったくらいに。
「…………」
女々しくて卑怯で情けない自分を睨みつけてみても、鏡の中では唇を染めた女装野郎が情けない顔をしているだけだった。
end
戻る | 小説ページTOPへ