- ナノ -
TOP小説メモレス

だいすきクザンさん


 深く深くため息を吐いてから、ナマエは口を動かした。

「クザン大将なんて大っ嫌いです」

 あまりにもきっぱりはっきりとした宣言に、クザンがぱちりと瞬きをする。
 その顔がそのまま声の主の方へと向けられて、あららら、と小さく声が漏れた。

「真正面から言われちゃうと、さすがのおれも悲しくなっちゃうんだけど」

 どうでもよさそうな声音でそう紡ぎながら、その体がソファから起き上がる。
 いつもと変わらない顔でよく言いますよ、と唸って、ナマエはじとりとクザンを睨み付けた。
 何とも不機嫌極まりないその顔に、クザンは軽く肩を竦める。
 今日は、クザンが久しぶりに海軍本部へと顔を出した日だった。
 遠方の島からずっと自転車をこぎ続けていて疲れたので港で一度休憩を取った後、『遠征』の報告でセンゴクの下を訪れ、それからこの執務室へと入ったのだ。
 一人でふらふらとしてきたクザンに対して海軍元帥は酷くお怒りで、その雷を受け続けていた自分を労うべく、クザンはソファに身を横たえていたところだった。
 この執務室に入ってから、まだこの副官に文句を言われるようなことは何もしていないはずだ。

「今日はまだ何にもしてねェと思うんだけど」

 そう思ってのクザンの言葉に、そうですね、とナマエは頷いた。

「『何もしていない』ですね。仕事しろ」

「あららら、怖い顔しちゃって」

 寄越された言葉に、クザンがへらりと笑う。
 それを見て舌打ちをすると言う何とも不敬な大将青雉の部下は、その手に抱えていた書類を運び、クザンの前のローテーブルへと乗せた。
 ぎし、とわずかにテーブルが軋んだのは、決して気のせいではないだろう。うずたかく積まれた白い紙は、ソファに座ったクザンの顎へ届くかというほどの高さになっているのだ。

「こちら本日締切になります。どうぞ」

 朱肉と角印まで用意して発言したナマエに、クザンは軽く頭を掻いた。

「ひっでェ量……なんとかなんないの、これ」

「本来なら三日前には仕上がっていた筈なんですけどね」

 呟いてみるものの、ナマエの言葉は何ともとげとげしい。
 これはもう仕方ないか、とため息を零して、クザンはその手で書類を一枚摘み上げた。
 面倒くさいが、今のクザンにはこの書類を処理する道しか残されてはいないようだ。
 クザンが仕事を始めたと見て取って、ナマエがそのままクザンの前を離れる。
 そのまま部屋の隅に置いてある自分の机へ向かおうとする背中へ、ねえ、とクザンが声を掛けた。
 引き止められて振り返った彼をちらりと見やって、クザンは首を傾げる。

「これ頑張ってやったら、なんかご褒美ないの?」

 小さな子供がねだるように発言したクザンに、ナマエが眉間に皺を寄せる。

「たくさん給料もらっておいてさらに何か報酬を要求しますか」

 俺との給料明細の差を考えてください、と続く言葉に、それはそれ、これはこれ、とクザンは書類を軽く振った。
 本来ならもう少し休んでいたいところを働くのだ、何か褒美が無ければやっていられないだろう。
 別腹が可愛いのは婦女子の間食までです、ときっぱり言い切るナマエへ、そう言わずに、とクザンが言葉を投げる。
 引く様子の無いクザンを観察して、向けていた背中を反転させたナマエが、その体の正面をクザンに向けてからため息を零した。

「……何が欲しいんですか?」

 問答したところで、クザンが引くはずもないと分かっているのだろう。
 尋ねたナマエへ微笑みを浮かべて、クザンが応える。

「ナマエのコーヒーでいいよ」

 楽しげに呟いたクザンに、了解しました、とナマエは軍人らしく返事をした。

「それでは、給湯室からお持ちしますので」

「待って待って待って、それ罰ゲームだから」

「チッ」

 そのままもう一度背中を向けた相手を、クザンが慌てて呼び止める。
 舌打ちを零したナマエに、海兵が舌打ちなんてしないの、と注意まで放てば、仕方なさそうにナマエがその目でクザンを見やった。

「……『俺の』コーヒーですか」

 面倒くさそうに尋ねられて、うん、そう、とクザンが頷く。

「ナマエがそこの休憩室に隠してある豆を挽いて淹れたコーヒー」

 言葉と共に、休憩室と呼ばれている仮眠室を指差すと、指を追いかけてそちらを見やったナマエの眉間のしわが深くなった。

「………………絶対に気付かれない場所に隠したと思ったんですが……」

「人が昼寝してる時にごそごそしてりゃあ、そりゃあ気付くでしょうや」

 低く唸る相手に、クザンは肩を竦める。
 つい先日、珍しく仮眠室で大人しく眠っていたクザンの横で、ナマエがごそごそと何かを隠していたのだ。
 不審なそれに気付いて狸寝入りを続けたクザンが、ナマエが立ち去った後で物音の正体を確認したのも当然だと言えるだろう。
 海軍本部の給湯室に置かれているコーヒーは、誰かが各自好きなように飲んでも構わないと言うことになっているが、基本的にコーヒーメイカーに置きっぱなしであるため、何とも酷い味わいだ。
 給湯室に置けば同じ末路になると分かっていたのだろう、ナマエが隠したそれは少し高級なコーヒー豆で、どうやら自分でそれを使ってつかの間のコーヒータイムを楽しんでいるらしい、と上司が気付いたのは、発見した袋を見ながらのことである。

「いびきまでかいてたくせに起きてたんですか」

 唸ったナマエへ、まァね、とクザンが軽く胸を張る。
 それを視界の端に入れたらしいナマエが、何を威張ってるんですか、と呆れたような声を出した。
 それから、何かを考えるように少しだけ目を彷徨わせてから、もう一度その口からため息を零す。
 歩き出した足先が、自分の机では無く休憩室の方へと向けられた。

「……仕方ないですね、用意してきますから、仕事頑張ってください」

 言葉と共に隣室へと入っていく背中に、はいよ、とクザンが軽く返事をする。
 すぐにコーヒー豆の袋を持って出て来たナマエが、その右手でクザンを指差した。

「言っておきますが、俺の休憩のついでに分けてさしあげるだけですからね。エスプレッソ並に濃ゆかろうが我慢して飲み下してくださいよ」

 眉間に皺をよせ、何とも不満そうな顔をしながらのその発言に、はいはい、とクザンは頷く。
 わざとらしく書類へ視線を落とせば、ナマエはそれ以上何かを言うことも無く、不機嫌な足音を立てながらそのまま廊下の方へ向けて歩き出した。

「行ってらっしゃい」

 扉を開けた音を聞きながら声を掛けたクザンへ返ったのは、扉が閉ざされる軽い音だけだ。
 少しだけ耳を澄ませて、給湯室の方へ向けて歩いていく足音を拾ってから、クザンはその目を書類から逸らした。
 ちらりと見やった扉はきちんと閉ざされていて、もちろん人影はない。
 しばらくすればナマエが開くだろう扉を見やって、書類を揺らしたクザンが頬杖をついた。

「…………とかなんとか言っちゃってェ、おれの好みに淹れてくれるくせに」

 口では憎まれ口を叩くナマエが、そのくせ結局上司に甘いことを、クザンは知っていた。
 そうでなければ、一年に何度か来る異動願いの時期に『現状維持』の申請をするわけもないし、クザンがいない間も大人しくこの執務室で書類を片付けているわけがない。
 一緒に連れて行った遠征でも、クザンが甲板で昼寝を始めれば呆れた顔をしながら枕を用意するのはナマエなのだ。
 可愛いねェ〜、とクザンの同僚が笑っていたのはいつのことだったろうか。
 本当にねえ、と思い出の中の同僚へ返事をしてから、クザンの手が改めて書類を持ち直す。

「さて、頑張りますか」

 せめてコーヒーが来るまでに一枚くらいは終わらせてあげようじゃないの、と珍しく気遣いを示したクザンの目が、書類の上を撫でていく。
 数枚の承認印を押したところで戻ってきたナマエは、珍しいこともあるもんですね、と何とも失礼な驚きを顔に浮かべていた。




end


戻る | 小説ページTOPへ