エピローグは終わらない
※終了前〜終了後
「ボルサリーノさん」
「なんだァい?」
声を掛けたナマエにボルサリーノが返事をする。
にこにこと微笑み、なんとも楽しげなその顔に、何でもありません、と返事をしたナマエはその手でひょいと皿を持ち上げた。
対面式のキッチンの向こう側で、皿洗いを終えたナマエを眺めるこの家の主は、何が楽しいのか分からないがいつものように笑みを浮かべている。
大将黄猿と呼ばれるかの海兵が、怪しげな薬によってナマエという一人の男性に『一目ぼれ』をしてしまったのは、つい先日のことだった。
にこにこと笑いながらもナマエを逃がさなったボルサリーノにより、ナマエは今、その薬の効き目が切れるまでの間休みをもらって、彼につきっきりで接している。
何故ならば、ナマエが自分よりも他の誰かと親しくすることを、目の前の海軍大将が良しとしなかったからだ。
目の前で人間が砕ける瞬間をナマエは初めて見たし、目の前で平然と砕けた体を再生する人間を見るのも初めてだった。
ひょっとするとその攻撃は同僚に対する気安さからくるものなのかもしれないが、まさか一般人を相手に試すわけにもいかない。
ナマエの知る限り、ナマエの身の回りの人間はいたって普通の民間人なのだ。
死んだ筈が紛れ込んでしまったこの世界にはまだ親密な間柄の人もいなかったので、自分や周囲の人間の命の為ならば、しばらくは『恋人ごっこ』をするのだって問題ない。
少しは不快感を感じるのではないかという懸念もあったが、ナマエ自身も戸惑うほどに、ナマエは目の前の年上の同性からの接触に対して不快感や嫌悪を抱きはしなかった。
それどころか、同棲という形とは言え誰かと近い距離で過ごすのも久しぶりで、相手の為に何かをするのが楽しかったりもする日々だ。
『楽しそうで良かったよ』なんて言ったことの元凶の言葉を思い浮かべて、小さく息を吐いたナマエの手が皿を拭く。
水気の無くなった皿を重ねながらちらりと視線を送ると、まだナマエを眺めていたボルサリーノが、向けられた視線を見返して更にニコニコと笑みを深めた。
海賊にとっては恐怖の対象でもある『海軍大将黄猿』たるボルサリーノがこんなにも優しげな微笑みを向けるのは、傍にいたナマエが知る限りは自分だけだった。
それは恐らく薬のせいなのに、そのことが嬉しいと感じる自分を最近見つけてしまって、ナマエは少々戸惑っている。
そんなナマエの胸の内を知らないボルサリーノへ、ナマエは優しげに言葉を向けた。
「これ終わったらコーヒー淹れたいんですが、ボルサリーノさんもどうですか?」
「オォ〜……嬉しいねェ〜」
寄越された問いかけに返事をしたボルサリーノに、それじゃあお湯を沸かしますね、と皿を片付けながら言葉を続ける。
水を入れたケトルを火にかけて、それからカップとコーヒーの缶のいくつかを用意したナマエが振り向くと、まだボルサリーノはナマエの方へと視線を向けていた。
楽しそうに幸せそうに笑うボルサリーノに、ナマエの口にも似たような微笑みが浮かぶ。
ボルサリーノの為に食事を作って、コーヒーを淹れて、家事をして、一日の殆どを一緒に過ごす。
職場について行くだなんていうのはさすがに新婚だってやらないようなべったり具合だが、ボルサリーノがナマエを離してくれないのだから仕方ない、という免罪符をナマエは手に入れていた。
けれども、こんなに近い場所にいられるのは、あとどれくらいの間だろうか。
「今日はどの豆にしますか?」
ひたひたと押し寄せる終わりを感じながら尋ねたナマエに、ナマエの好きにしていいよとボルサリーノが笑った。
※
ちちちと、遠くから鳥の鳴き声が聞こえる。
「…………んー……」
耳を叩くその鳴き声に小さく声を漏らしたナマエは、それからもぞりと身じろいで、傍らに感じる温もりにゆっくりとその目を開いた。
そうして目の前にあった自分のものでは無い体に、ぱち、と一つ瞬きをする。
体の上に乗せられた重みをそのままに寝返りを打って、寝ぼけた目が真上の随分と高い天井を見上げて、ああそうか、と小さくその口から掠れた声が漏れた。
「今日はボルサリーノさん家だった……」
呟いてちらりと見やった先には、ナマエの真横に転がっている海軍大将の姿がある。
普段ならサングラスに隠れているその目を閉じて、静かに寝息を零すボルサリーノのその長い腕が、ナマエの体の上に乗せられていた。
もぞもぞと身じろぎ、その腕でできた輪をくぐるようにして抜け出したナマエが、ベッドの上へと起き上がる。
自宅とは違うがもはや見慣れた寝室は、わずかに開いた遮光カーテンの隙間から朝日が零れているものの、随分と薄暗かった。
目を凝らして壁にかかっている時計を窺い、そこにある時刻がまだ朝早いことを把握して、ナマエの両手が真上へ向かって伸ばされる。
大きく伸びをすれば、もともと寝起きの良いナマエの頭はすっかりと目を覚ましていた。
ナマエが覚えている限り今日は休日であるし、二度寝をしてもいいが、傍らの海軍大将はそうもいかない。いかに重役と言えども、休みでない以上出勤しなくてはならないし、それならばナマエは彼を送り出す為に朝の用意をするべきだろう。
昨日の夕食を思い返して、今朝は何を作ろうかななんて主夫じみたことを考えながら、ナマエの目が傍らへと向けられる。
まだ寝息を零しているボルサリーノは、朝が来ていることに気付いた様子もない。
『終わり』を迎えたはずのナマエとボルサリーノの『恋人ごっこ』が、そのまま本物の『恋人同士』になってから、もう数か月が経つ。
あの時の過激さはなりを潜めたものの、ボルサリーノは変わらずナマエを大事にしてくれている。
そこそこ強引ながらも、ナマエのやりたいことを優先してくれて、ナマエは自分の家にも帰宅するようになった。
日に日に家の中にボルサリーノの為の家具が増えつつあるが、彼が家に来てくれることは嬉しいし、ナマエのための家具ではボルサリーノに合わないのだから仕方ないことだろう。
そしてもちろん、ナマエ自身もボルサリーノの家に招かれ、ボルサリーノがナマエの家でやるように、相手の家で過ごすことも起きるようになった。
昨日もそれで、遅い時間になってしまったが為に泊まって行けと勧められ、それじゃあと素直に泊まったのである。
『恋人ごっこ』の頃との違いと言えば、ナマエがボルサリーノの寝室で目を覚ますことになった程度だろうか。
『晴れて好き同士になったんだから、客室に行くなんて言わないよねェ〜?』
最初の日、微笑みながらも有無を言わさぬ強引さでナマエを掴まえたボルサリーノは、頷いたナマエにご満悦だった。
昨晩も酒が入ってにこにこ笑っていたボルサリーノを思い出し、ひとまずは朝食を前にして同じように笑う彼の顔を見たいが為に、よし、と気合を入れたナマエの足が掛け布の間からずるりと滑る。
そのままベッドの外側に投げ出した足で立ち上がろうとしたとき、ナマエの体がぐいと後ろへ引っ張られた。
「わっ」
驚いて声を漏らしたナマエの体が、そのままベッドの上へと改めて倒れ込む。普段ボルサリーノの巨躯を受け止めている大きなベッドは、ナマエ一人の体重などものともせず、ただそのマットを軽く沈ませただけだった。
驚いてぱちりと瞬きをしたナマエの体が、回された何かにぐいと引き寄せられて掛け布の中へと引きずり込まれ、すっぽりと頭までおおわれてしまう。
ベッドの上には二人しかいないのだから、ナマエを引き戻す人間なんてたった一人しかいない。
「ボルサリーノさん?」
もぞりと身じろぎ、隙間から視線を向けながら声をかけると、やや置いて、先ほどまで穏やかに眠っていた筈のボルサリーノが小さく声を漏らした。
「……ちょいと、起きるの早くないかァい……?」
寝起きのかすれ声で囁かれて、目が覚めたので、と返事をしながらもぞりと身じろいだナマエが、体をボルサリーノのいる方へと反転させる。
それを受けて、回した腕でナマエの背中に触れたボルサリーノが、更にナマエを自分の方へと引き寄せた。
掛け布の中、真新しいシーツの上で体が滑って、されるがままに引き寄せられたナマエの体が、少しばかりボルサリーノの体に押し付けられる。
「朝ご飯用意したら呼びに来ますから、それまで眠ってても大丈夫ですよ?」
「いらないよォ〜……」
ぐいぐいと顔をその胸板に押し付けられながら、どうにか声を漏らして顔を逸らしたナマエを抱えたままで、ボルサリーノが唸る。
落ちて来たその声に、あれ、とナマエが首を傾げた。
「今日は朝ご飯いらないんですか?」
ナマエの知る限り、目の前の海軍大将は食事をきちんととる人間だ。
ナマエが用意した食事をいらないと言われたことは無いし、今まで朝食だって同じように食べていた筈だ。
もしや今まで無理をさせていたのだろうかと眉を寄せたナマエに、そうじゃないけどォ、と呟いたボルサリーノの手が、するりとナマエの背中を下から上へ向かって撫でる。
辿るようなその動きに思わず背中を逸らしたナマエの首裏までたどり着き、そこから更に上へ行ってナマエの髪に指を差し入れたボルサリーノは、ナマエに比べて随分と長いその指でやわらかくナマエの髪を梳いた。
「せっかく一緒にいるんだからァ……もう少しわっしと寝ててもいいでしょォ〜……」
頭皮を撫でられるくすぐったさに少し肩を竦めたナマエが、落ちてきた囁きにぱちりと瞬きをする。
それから、シーツの上を泳ぐように少しだけ上へと伸びあがって、頭と肩口だけを掛け布の中から脱出させ、その両目でボルサリーノの顔を見つめた。
まだ目を閉じているボルサリーノは、先ほどの安らかさとは打って変わって少々眉根を寄せている。
どことなく不満げに見えるその顔に、少し間を置いてから、ナマエは困ったように笑みを浮かべた。
「二度寝なんてしたら、寝坊しちゃいますよ」
「ン〜? ナマエは休みだって言ってたよねェ〜……?」
「俺はそうですけど、ボルサリーノさんは仕事だって言ってたじゃないですか」
どうせなら休みを合わせたかったと昨日つまらなそうに言っていた相手を思い出して言葉を紡げば、んー、とまたボルサリーノが声を漏らす。
それからゆっくりとその目が開かれて、身をかがめたボルサリーノの額がナマエの額に軽く触れた。
近くなったその顔にナマエが少しばかり顔を赤らめれば、その反応に気付いてか、目の前にあるボルサリーノの顔に笑みが浮かぶ。
「寝坊したらァ、休む口実になっていいねェ〜」
「いや、駄目ですよ……」
楽しげに呟くボルサリーノにそう返事をしてみるものの、きちんと仕事をこなすボルサリーノがそんな誘惑に負けるわけもないと知っているナマエは、仕方なくその体から力を抜いた。
先ほど見やった時計の時間を思い返して、一時間だけですよ、と囁き、ナマエの片腕がボルサリーノの体に触れる。
先程背中にやられた仕返しを込めて軽く掌を滑らせれば、わき腹を撫でられたボルサリーノがくすぐったいよォと声を漏らして少しだけ腕をよじった。
「さっきの仕返しです」
「オォ〜……コワイねェ〜」
一つの掛け布に入ったままでくすくすと笑い合って、そんなたわいもない会話を交わす。
ナマエの了承を得て二度寝に入るつもりらしいボルサリーノが目を閉じたのを見送りながら、どことなくくすぐったい気分のまま、ナマエはベッドの上に横たわっていた。
ほんの数か月前の自分だったなら、今もこんな風にボルサリーノと一緒にいるだなんて、想像もしなかったに違いない。
すぐ近くにいた『終わり』が来てもなお、ボルサリーノはナマエを好きだと言ってくれた。
『元の世界』に遺してきた家族より近い距離で微笑んでくれるボルサリーノに、ナマエは毎日たまらなく幸せな気持ちになっている。
しいて言うなら目下の悩みは、目の前のこの人が結婚式とやらを諦めていないことくらいだ。
「おやすみなさい、ボルサリーノさん」
二度寝にふさわしいかも分からない言葉を囁いたナマエの前で、ボルサリーノがその顔に浮かべた笑みを深くする。
大事なものにするようにナマエを抱きこんで、そのまま眠りに落ちていったボルサリーノの傍らで、ナマエもそっとその目を閉じた。
一時間きっかりに目を覚ましたナマエにボルサリーノは少々不満そうだったが、その日一日を一緒に過ごしたので、どうにか満足してくれたようだった。
end
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