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恋は盲目とはよく言ったもの
このネタが前提


 あの日出会った時の衝撃を、ボルサリーノは生涯忘れないだろうと思っている。
 街角で人にぶつかるなんて、海軍の最高戦力とまで言われている海軍大将にとってはありえないような話だ。
 自分も驚いたが相手も驚いた様子で、持っていた大きな荷物を落とした相手を見下ろしながら、自分の所為で落とした荷物を拾ってやろうとしたボルサリーノは、自分が転ばせてしまった相手が荷物を拾おうとしていた手に触れてしまったその瞬間、まるで雷に打たれたような衝撃を受けた。
 動きの止まったボルサリーノを不思議そうに見上げた彼は、初めて見る顔ではなかった。
 最近マリンフォードへと移民してきたらしい彼は配達員で、笑顔で街中を走り回っては荷物を届けるその様子を見たことは何度かあったし、相手が覚えているかはボルサリーノには分からないが、幾度かすれ違ったこともある。
 恐らくボルサリーノは、彼と遭遇したその一分にも満たない何度かのことを全部覚えていた。
 何となく気になる存在だった相手が、ぱちりと瞬きをする。
 ぶわりと沸き起こった胸のうちの感情は久しく感じていなかったそれで、ああどうやら自分はこの青年が好きらしい、とボルサリーノは他人事のように自覚した。
 そうなればもはや手放すわけも無く、あれよあれよと言う間にナマエと言う名前の彼はボルサリーノの傍に置かれることになった。
 ナマエにちょっかいを出していた青雉が、体をぱきぱきと再生させながら「ちょっとは落ち着きなさいや」と言ってきたのは心外だったが、ナマエが傍にいるのだから、他と交わした会話など些細なことだ。
 『薬』がどうしたのこうしたのと言われたけれども、自分の胸のうちの感情がその『薬』とやらに左右されるものだとは到底思えなかった。

「ボルサリーノさん、お仕事早いですねェ」

 今日もまた、一緒に出勤してきたナマエが、せっせと執務室で書類を片付けるボルサリーノへコーヒーを運びながらそんなことを言う。
 彼にそう言われたくて頑張っているのを、ナマエはどうやら気付いていないらしい。
 そうでもないよォ、と余裕ぶった声を出して、ボルサリーノはナマエが淹れてくれたコーヒーをひょいと持ち上げて啜った。

「ナマエが淹れてくれるコーヒーは美味しいねェ〜」

「そうですか? どうも」

 褒めたボルサリーノに、ナマエがとても嬉しそうな顔をする。
 その顔があまりにも可愛いものだから手を伸ばしたくなったボルサリーノは、自分の欲望に正直に手を動かしてナマエの頭をよしよしと撫でた。
 頭を撫でられたナマエは、少し戸惑ったような顔をしたけれども、大人しくボルサリーノの手を受け入れている。

「そういえば、今日の夕飯は何が食べたいですか」

「オォ〜、ナマエが好きなもんでいいよォ。わっしはナマエの作る料理なら何だって美味しいからねェ」

 ボルサリーノがそう言えば、それじゃあどうしようかな、と頭を撫でられたままでナマエが少しばかり考えるそぶりを見せる。
 ずっとずっと一緒にいたいと願ったボルサリーノに頷いたナマエは、接触したあの日からボルサリーノの家に住んでいる。
 一つ屋根の下で一緒に食事をして、一緒にくつろいで、一緒に出勤して一緒に帰宅するのだ。
 何か不満があるとすれば、ナマエの希望で寝室が別であることくらいだろうか。
 大将になったのだからと客室のある大きな家を購入したことが今更悔やまれる。自分の体躯に合わせた大きな家が少しばかり煩わしく思えたのは、初めての経験だった。
 ナマエから手を離し、しみじみ考えながらコーヒーカップを傾けている間に、格別の味だったコーヒーはあっさりと姿を消して、名残惜しいながらもボルサリーノの手がカップを降ろす。
 それに気付いたナマエがカップを回収しようと近寄ってきて、カップとソーサーを手に離れようとしたところを、もう一度動いたボルサリーノの手が捕まえて引き止めた。

「ボルサリーノさん?」

 ぐいと引っ張って足の上に座らせれば、不思議そうな声を出したナマエがボルサリーノを見上げる。
 他に人がいるときは恥らってしまうナマエが大人しくボルサリーノのするがままにされているのは、ボルサリーノとナマエのいるこの部屋に、他には誰もいないからだ。
 一人でしたほうが捗るからと部下との部屋を分けた在りし日の自分を、褒めたくなる日がくるとは思わなかった。
 あまり見ない色の髪と目をしたナマエを見下ろしてから、ボルサリーノはにこりと口元を緩ませる。

「大好きだよォ、ナマエ」

 子供みたいな言葉を紡げば、ボルサリーノを見上げたナマエが少しばかり困った顔をした。
 ナマエが、件の『薬』の所為でボルサリーノが自分を好いているんだと思っていることを、ボルサリーノはちゃんと知っている。
 けれども、たかだかベガパンクの作った薬程度でどうこうされるほど、海軍大将はやわなつくりをしていないのだ。
 それを今一分かっていないナマエは、やはり可愛らしい。
 どう見ても女性には見えないナマエへ対してそんなことを思いながら見下ろした先で、ナマエがボルサリーノを見上げながら口を動かす。

「ボルサリーノさん、お仕事がまだ残ってるんじゃないですか?」

「今ある分は終わらせたよォ〜」

 ナマエの言葉へそう答えて、ボルサリーノは自分の机の上のものを指差した。
 ナマエとこうして過ごす時間を持ちたいから、ボルサリーノは恐ろしいほどの速さで毎回書類を片付けているのだ。
 早く出来るならいつもそうせんか、と赤犬が少し呆れた顔をしていたのは確か昨日のことだった。
 ボルサリーノの言葉に、そうですかお疲れ様です、と頷いて、ナマエの手が改めて中身の入っていないコーヒーカップとソーサーを机へと置く。
 それを見届けてからボルサリーノが長い腕をその体に緩く絡めると、ほんの少しの身じろぎをしたナマエは、それでも逃げ出そうとせずに大人しくボルサリーノの膝へ座り続けることを選んでくれたようだった。
 ナマエはいつだって大人しく、ボルサリーノの望むだけボルサリーノの傍にいてくれる。
 愛しくて可愛くてたまらない彼が傍にいるだけでどれだけボルサリーノが満たされることかを、きっとナマエは知らないだろう。
 自分が使っているのと同じ洗髪剤のにおいがするその頭に顔を寄せて、ボルサリーノの手が少しばかり強くナマエの体を抱きしめる。

「……あの、ボルサリーノさん、苦しいです」

「オォ〜、そいつはすまなかったねェ〜……」

「………………いや、腕緩めてくださいよ」

 されるがままになっていたナマエが少しばかりの苦情を申し立ててきたので、しぶしぶボルサリーノは力を入れていた腕を少しだけ緩めた。
 締め切られた扉の向こうで中を窺って入りづらそうにしている部下が扉を叩くまで、もう少し時間がありそうだ。
 もう少し堪能しようとナマエを抱きしめたまま考えて、ボルサリーノはまた幼稚な言葉でナマエへ愛を囁く。

「好きだよォ、ナマエ」

 愛しげに名前と言葉を繰り返すボルサリーノの腕の中で、はいはいありがとうございます、とナマエが毎回と同じ返事を寄越す。
 愛しい彼を抱きしめていたボルサリーノは、いずれ自分が、そういえば彼から決定的な言葉をもらったことが無かったと気付いて愕然としてしまうことを、まだ知らなかった。




end


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