- ナノ -
TOP小説メモレス

裏切り者の告白
「ボルサリーノ先生」

「…………オ〜……ナマエ」

 呼びかけられた言葉に、黄猿は声がした方向を見やった。
 先ほど見かけたときは何人かの同僚と一緒に歩いていて、声を掛けるのを遠慮してやったはずの青年が、黄猿のほうへと向かって歩いてくるところだった。
 近付いてきた青年は、黄猿から見ればずいぶん低い位置から黄猿の顔を見上げて、成人しているとは思えないほど無邪気に見える顔で笑った。

「お疲れ様ですっ!」

「頑張ってんだねェ」

 その頬に張られた薄いガーゼを見下ろして、そういえば一般兵の訓練があったのだったか、と黄猿は思い出した。
 大将になった黄猿にはもう無縁のものだが、一般人から海兵となった者は大体が戦闘訓練をする。
 海兵である以上、海賊達と戦えなければならないからだ。
 それなりに厳しい訓練を受けはじめた頃、ひ弱な青年はよく倒れていたが、最近はそういう話も聞かなくなった。
 少しは体つきもたくましくなりつつある青年を見下ろした黄猿へ向かって、にかり、と青年が笑顔を広げる。

「今日は十七回しか負けませんでした! 二十戦中です!」

「…………オ〜、偉いねェ」

 模擬戦の回数と勝敗をしっかり数えていたらしい青年へ、とりあえず黄猿はそう呟いた。
 黄猿の感覚からすれば負けすぎのような気もするが、最初の頃は全敗だったのだから、それからするとすばらしい成長だ。
 うむうむとそれに頷いて、それから黄猿はその手で軽く自分の顎を撫でた。

「……ナマエ、さっきのだけどねェ」

「? はい」

「呼ぶなら名前だけで呼びなよォ〜……」

 黄猿の落とした言葉に、ナマエは不思議そうな顔をした。

「だって、空いてる時間に俺に訓練をしてくれてるんだから、先生は先生ですよ?」

「そりゃ、ナマエが頼んできたからねェ〜……」

 あまりにもひ弱すぎるナマエが三回目に倒れた日、黄猿は彼に海軍を辞めたほうがいいんじゃないのかと提案した。
 もともとナマエは、黄猿が保護してきた一般人だった。
 黄猿が殲滅した海賊の根城にいた彼は、黄猿が殺したために海賊に確認は取れなかったが、恐らくどこかの島からか攫われてきた一般人だったのだろう。
 ヒューマンショップへ売られる予定だったのか、首へ鎖を付けられて根城の奥につながれていた青年は、突如現れた光人間にそれはもう驚いた顔をしていた。
 どうやら海軍の最高戦力の名前程度は知っていたらしく、保護を申し出た黄猿を怪しむことなくついてきたナマエが、帰る場所が無いと言ったことを黄猿は覚えている。
 悪いことをしたからきっとここにいるんです、と呟いた後は多くを語らなかったナマエに、黄猿は追求することをしなかった。
 誰だって、言いたくない過去の一つや二つはあるものだ。
 行くあての無いらしいナマエへ、海軍に入ってはどうかと勧めたのは黄猿だった。
 だからこそ、新兵のための訓練で倒れるようなナマエの貧弱さに、黄猿は少しばかりの責任を感じていた。
 文官になるとしても、海軍である以上、ある程度の強さは必要だ。
 その強さを得るための訓練に耐えられないなら、海軍に居てもナマエがつらいばかりだろうと、そう考えたからだ。
 けれどもそんな黄猿の考えとは裏腹に、その日のナマエは首を横に振った。
 生きていくためには強くならなくてはいけないのだと、そう言ったナマエの顔には決意が浮かんでいて、その為に自分を鍛えて欲しいといったナマエに、少し考えて黄猿が頷いたのは先月のことだ。
 黄猿が直属の部下へ与える訓練に比べれば生ぬるいことこの上ないメニューだが、課されたナマエはいつも死にそうな顔でどうにかそれをクリアしている。
 そのおかげでかある程度の体力はついてきたらしく、最近では他の海兵との訓練でも倒れることは無くなったようだ。
 それは喜ばしいことだ。黄猿は思う。それは、とても喜ばしいことだ。
 ただ気になるのは、黄猿がナマエへ訓練を与えるようになってから、ナマエが黄猿を『先生』と呼ぶことだった。
 『先生』なんて、そんな風に黄猿を呼ぶのはナマエだけだ。

「ボルサリーノ先生のおかげで、筋肉だってついてきた気がするし、体力だってついてきた気がします!」

「そこは実感を持って言ってほしいところだねェ」

「じゃあ、ついてきました! 多分」

 嬉しそうに笑うナマエの様子に、何度か試した説得が今回も失敗したのを感じて、やれやれと黄猿はため息を吐いた。
 貧弱なくせに、案外黄猿の前の青年は意志が強いのだ。
 そうでなければ、訓練漬けの毎日を過ごすことを自分で選択するわけもない。
 まるでいつか恐ろしい日が来るとでも言うように、ナマエは自分の体を鍛える努力をしていた。
 貧弱すぎてそれがきちんと身になっているとは言えないが、帰る場所がないと言ったあの日よりはたくましくなった青年を見下ろして、やがて黄猿は軽く肩を竦める。

「それじゃあ……頑張ってるナマエに昼でも奢ってあげようかねェ〜」

「え! あ、いや、そんなその……そういうつもりじゃ……」

「分かってるよォ、わっしが食わせたいだけだからねェ……しィっかり食べて、もっと肉付けなよォ〜」

 慌てた顔をするナマエの頭をがしりと掴んで、黄猿はそのまま歩き出した。
 頭を掴んで引きずられるようにされたナマエが、すぐに足を動かして、黄猿の横へ並ぶ。

「ボルサリーノ先生、頭もげちゃうんで放してください」

「……相変わらず弱いねェ」

 頭を捕まれたままの訴えに、やれやれとため息を零したボルサリーノはそれでも青年の頭を手放した。
 自由になった頭を上向かせて黄猿を見上げたナマエが、にかりと笑う。
 いくら助けてもらったとは言っても、これほどまでに人を信じられるものなのだろうか。
 大将黄猿は光人間で、海軍における最高戦力の一人で、ナマエの目の前でだって何人も海賊を殺したのだ。
 その様子に怯えた顔をしたナマエは恐らくずいぶんと平和な場所で暮らしていたのだろうと、そのくらいは見ていたら分かるというのに、いわば兵器にも近い力を放つ黄猿の手に触れられても、ナマエが慄くことは無かった。
 そうして、絶対の信頼を覗かせる目で黄猿を見上げながら、黄猿を呼ぶのだ。

「ボルサリーノ先生」

 昔、黄猿がそうやって誰かを呼んだとき、黄猿もこんな顔をしていたのだろうか。
 黄猿には、よくわからなかった。







「ボルサリーノ先生」

 呼びかけられても、黄猿は返事をしなかった。
 冷え冷えとした視線を向けられても、ナマエは笑顔のままだ。
 相変わらずの笑顔と視線を受け止めて、黄猿の口からはため息が漏れた。

「ボルサリーノ先生」

 口を動かしたナマエの後方で、大きな物音が鳴り響く。
 空気が割れるような音に続いて大地と海が揺れて、最初に披露されたときよりも大きな津波がぶわりと海面から伸びた。
 逃げるつもりだ、と海兵達のうちの誰かが叫ぶ。
 事実、砕けた海水の氷から離れ始めた白鯨は、他の多数の船をも引き連れて出航し始めていた。
 青雉が大津波を凍らせようとするのを、相手側の誰かが攻撃して止めさせる。
 先ほど鎖で拘束されて動けなくなってしまった赤犬が何かを怒鳴っているが、体が動いていないその様子から見ると、どうやらその鎖には海楼石が含まれているらしい。
 じゃき、と物音を立てたのは、黄猿の後方に控えている彼の部下の何人かだ。両手で銃を構えた彼らの視線は黄猿の前に立つナマエへ注がれて、その銃口も当然ナマエへ向けられていた。
 右手に大きな火傷を負って、支給されたものとは別に黄猿が仕立てさせた制服を身に纏ったナマエは、その様子に少しだけ怯えた顔をして、けれども無理やり浮かべた笑顔のままで黄猿を見ていた。

「……理由は聞かせて貰えるかねェ」

 この場で対面して初めて口を開いた黄猿に、ナマエの目が少しだけ細められる。
 その息が少し荒いのは、右手の大火傷と、先ほど黄猿が軽く蹴り飛ばした所為だろう。
 怪我をさせないように、無理をさせないようにと気を配ってきた黄猿の訓練と新兵訓練で鍛えたとは言っても、まだまだ貧弱なナマエのことだ。もしかしたら、アバラの一、二本は折れてしまったかもしれない。

「……俺は悪いことをして『ここ』へ来ました」

 声を上ずらせながら言い放ったナマエの言葉は、黄猿がかつて出会ったあの日に聞いたものによく似ていた。
 悪いことをしてここへ来たからもう帰る場所が無いと、そう言ったナマエは泣きそうな顔をしていたくせに、泣かなかった。
 あまりにもその様子が哀れで、その『悪いこと』を追求しなかったのは黄猿だ。
 誰にだって言いたくない過去の一つや二つはある。だから聞かなかった。
 けれども、もしかしたら聞いていたら、今のこんな状況は起こらなかったのだろうかと、黄猿の頭がぼんやりと考える。
 だが、そんな仮定はもはや無意味だった。
 戦争は海賊達の勝利で終わった。
 処刑台に登っていたはずのポートガス・D・エースはあの白鯨の船にいる。
 助けに来た革命家ドラゴンの息子も、インペルダウンの脱獄囚達も、それぞれが逃げ出している最中だ。
 逃げようとしたポートガス・D・エースを挑発し、その義理の弟共々殺そうとした赤犬が鎖に拘束されて転がっているのは、今黄猿の目の前にいる貧弱な裏切り者の所為だ。

「……こんなことしたって、殺した相手が生き返るはずもないのは分かってるんです」

 痛みを堪えるように無理やり笑いながら、言い放ったナマエが深呼吸をした。
 途中でぜい、と息を吸い込んで左手で胸を押さえて、それでもすぐにまっすぐに背中を伸ばす。
 正面から黄猿を見上げるその目は、こんな状況であってもいつもと変わらなかった。
 ナマエは黄猿を信じている目をしていた。黄猿の全てを信じて、信頼して、任せ切った目をしていた。

「こんな、非現実的な世界にきて。あの時俺は死んだはずだったのに、生きてて。苦しい思いをしても死にそうな思いをしても、生きてて。生き延びて」

 まるで悪夢を見ているかように、ナマエが言う。

「知らなかったでしょう、ボルサリーノ『大将』」

 囁くようにしながら、やがてナマエの顔から笑顔が消えた。

「俺はずっと死にたかった」

 だから、殺してください。
 そう囁いたナマエの望みを黄猿が叶えてやれなかったのは、飛んできた不死鳥に目の前の標的を奪われたからだ。
 自分にそう言い訳をしながらも、どうしても黄猿は、空飛ぶ青い火の鳥を追うことが出来なかった。




end


戻る | 小説ページTOPへ