侵略警報
※主人公は(まだ)仔猫
猫だなんだと主張するのも馬鹿らしいが、俺は猫だ。
名前はナマエ。
そう名付けてくれたのは俺を拾ってくれた海軍大将『黄猿』と呼ばれる海兵で、とんでもなく大きくてとんでもなく強くて、俺がとんでもなく安心できる相手である。
「にーい」
そして、いつもならお仕事で忙しい黄猿は、どうやら長期休暇をとっているらしい。
体調が悪いのかと心配したが、当人にはその様子もない。猫相手に寄越した言葉が本当なら、まるで休まない部下を休ませるために自分の有休をとっているということだった。
そういえば確かに、黄猿にくっついて一緒に海軍本部へ行ったときに、あまり顔色のよくない海兵に頭を撫でられた覚えがあった気がする。
頑張り屋なのはいいけど無茶するのはねェ〜、とため息を零した黄猿の声音を思い出しつつ、俺はぴるりと耳を揺らした。
「ん〜……? どうしたんだァい?」
いつもの時間に起きてこなかった相手のベッドへもぐりこみ、タオルケットの中を前進して首元で顔を出すと、起きたらしい黄猿の方からそんな風に声が掛かる。
降ってきた大きな手が俺の体をケットの上から軽く撫でて、ひょいと俺の体をタオルケットから引きずり出した。
「にっ」
「あァ、おはよう、ナマエ」
真下の顔へ向けて鳴き声を放つと、俺を見上げた黄猿が軽く笑ってそんな風に言葉を零す。
数秒を置いて大きな体がベッドの上で起き上がり、俺を自分の膝の上へと落として、軽く伸びをした。
「……あ〜、寝坊しちまったねェ〜」
「にい」
時計を見やったらしい相手の言葉に、軽く鳴き声を零す。
俺を見下ろして笑った黄猿は、もう一度俺の頭を撫でてから、そのままベッドを降りた。
最初にキッチンへ向かって、俺の皿へミルクを入れてから、そのまま洗面所のほうへ歩いていく。
後ろをついて歩いた俺は、自分の皿の前で立ち止まってそれを見送った。
とりあえず、なみなみと注がれたミルクを美味しくいただくことにする。
皿を舐めるだなんて元人間としてどうかとも思うが、今の俺の体は間違いなく猫なので、もはや抵抗もなくなってしまった。
寝起きで乾いた喉をすっかり潤して、腹も満ちたところでべろりと口元を舐める。
そこで戻ってきた黄猿は顔を洗ってついでに着替えてきたのか、先ほどとは違う服装になっていた。
自分の分の朝食を適当に用意してリビングへ向かった相手を、すっかり腹がいっぱいになった俺も追いかける。
腹が膨らんだせいで少し歩きづらく、ソファに座る黄猿には追い付けなかった。
「ぐえ」
しかし、ソファに座った途端聞きなれない声音が黄猿の方から漏れて、驚きにびょんと体が飛び跳ねてしまう。
なんだ、一体何があったと尾を膨らませて立ち止まると、黄猿が座った横に長いソファの端から、ひょこりと腕が生えた。
「ちょいと……重ェんだけど」
「家主より寝てるなんて、椅子希望かと思ったんだけどねェ〜」
おかしいねェ、なんて声を漏らした黄猿に、そんな趣味無ェから、とじたばたと腕が跳ねて主張している。
よくよく聞いてみると聞いたことのある声に、戸惑いながらも足を進めた俺は、椅子の方から漂う酒と知らない誰かの匂いにくんくんと鼻を鳴らした。
「……にい?」
「ああ、クザンだよォ〜」
ソファに近寄りながら見上げると、俺の方を見下ろした黄猿がそんな風に言葉を寄越す。
『クザン』と言うのは、確か大将青雉の名前だ。
どういうことなのかと戸惑いつつも、いつものように差し出された足をよじ登った俺は、膝へと登頂したところでその言葉の意味を理解した。
ソファに座った黄猿の尻の下に、横倒しに寝そべっていたらしい人間がいる。
「…………にっ!」
思わず毛を逆立ててしまった俺に、横向きになった人間が『あららら』と声を漏らす。
「ナマエまでそんな反応するわけか、少しはおれを可哀想がってもいいでしょうや」
「酔っ払って真夜中にやってくる迷惑野郎には言われたくないねェ〜」
寝起きのかすれた声音で寄越された非難に、黄猿がそんな風に言葉を放つ。
それと共に少し後ろへ体重を掛けたようで、やめて本当に苦しいから、と唸った青雉がそこでようやく黄猿の攻撃から逃れた。
二人掛けのソファへ、ひじ掛けの向こうへ足を放り出して座った青雉の背中を、黄猿が肘で軽くつつく。
「起きたんならさっさと帰んなよォ〜」
「あー……あれだ、今日仕事でさァ……」
「知ってるよォ」
わっしは休みだけどねェ、と呟いた黄猿に対して、青雉が羨まし気にため息を零す。
明らかにまだ酔いの残っている男に、とりあえず警戒を解きながら、俺は改めて顔を向けた。
先ほどの黄猿の言葉を聞くならば、この来訪者は夜中にやってきたのだろうか。
俺は多分眠っていたのだろうが、酔っ払いと言えば騒がしいものと決まっている。
なのにまるで気付かなかった。
動物としてどうなんだろうか。
「……にい」
なんとなく落ち込んでしまった俺の頭を、黄猿が背中ごと軽く撫でる。
「いいんだよォ〜ナマエ、子供は寝るのが仕事だからねェ〜」
まるで俺の落ち込みを察したような声音と共に触れるぬくもりに、すり、と頭をこすりつける。
仕方なさそうに立ち上がった青雉が、ちらりとこちらを振り向いて怪訝そうな顔をした。
「また、何話してんの」
「オォ〜、クザンには教えねえよォ〜」
寄越された言葉に、黄猿がそんな風に言い返す。
猫と話をする海軍大将ってのはどうなの、とさらにあきれた顔をしてから、青雉は軽く頭を掻いた。
「仕方ねえな……働くか」
「酒くせェからちゃんと着替えていきなさいねェ〜」
サカズキに怒られるよォ、と黄猿が言うと、青雉が自分の腕に鼻先を押し付ける。
しかしながら、自分からかおる酒の匂いなんてよくわからないのか、不思議そうに少しだけその首が傾げられた。
「そんなにする?」
「まァねェ〜」
「にっ!」
寄越された言葉に俺も頷くと、猫にまで肯定されちゃしかたねえな、と青雉がため息を零した。
その手がひょいひょいと床に転がっていた自分の荷物を取り上げて、それじゃ、と軽く手を振る。
「泊めてくれてありがとね、そのうち何か持ってくるよ」
「いらねェから真面目に働きなさいよォ〜」
今度は中将につぶされないようにねェ、と続いた黄猿の言葉に、青雉はひらりと手を振った。
それからそのまま勝手知ったる様子で歩んだ相手の姿が、廊下の方へと消える。
少しばかり耳をそばだてていると、数分の間に足音がどんどん遠ざかり、そして最後は玄関を開閉する音がした。
「……にい」
帰って行った相手に鳴き声を零すと、びっくりさせちまったねェ、と呟いた黄猿の手が俺の背中を撫でる。
「人の家の庭先で寝ようとしやがったからねェ〜、海軍の醜聞にならねェよう家の中に蹴り込んでやったんだよォ」
家まで送ってく義理は無いしねェ、なんて言い放った黄猿に、俺はちらりとリビングの大きな窓に面した庭を見やった。
朝を過ぎて昼手前の今、庭にはあたたかな日差しが落ちているが、夜はまだ冷えるはずだ。
そんなところで寝たら風邪をひいたかもしれないし、酔っ払って外で眠るだなんてことが知られたら、確かに外聞が悪いかもしれない。
この家には客室もある筈なのに、リビングのソファに寝ていたのは黄猿が意地悪をしたのか、酔っ払いが言うことを聞かなかったのか。
たぶん後者だなと見当を付けて、朝食を食べ始めた黄猿の膝に改めてなついた俺は、ふわりと漂った匂いにひくりと鼻を動かした。
「…………に」
短く鳴き声を零し、たぶん剣呑になっただろう眼差しを黄猿が座るソファへ向ける。
「どうしたんだァい?」
食事をしながら落ちてきた問いかけには答えず、するりと黄猿の膝を滑り降りた俺は、あちこちにぬくもりが残っているソファをくんくんと嗅いだ。
いつもと変わらぬリビングのソファに、いつもとはまるで違う匂いがついている。
酒のにおいだけならまだいいが、間違いなくそれはあの大将青雉の匂いだった。
ここは俺と黄猿の家なのに、しっかりとその匂いが残っているという事実に、ぱたりと尻尾が揺れる。
「……にっ!」
鳴き声を零して、ころりとソファへ転がった俺は、ぐりぐりと肌触りがよくまだ生暖かいソファの背もたれや座席面に体をこすりつけた。
ちょっと毛がくっついてしまった気もするが、掃除はきっと黄猿がしてくれるだろう。
「ナマエ、くすぐってェよォ〜」
ぐりぐりと体をこすりつけたままその後ろ側までもぐりこむと、くすくす笑った黄猿が少しだけ体を動かした。
開いた隙間に体をねじ込んで、大きめのソファの上を往復する。
しかし、全身を使っても小さな俺ではソファに到底太刀打ちできず、それどころか体中が酒と他の匂いにまみれてしまった。
「……にい……っ!」
「ナマエまで酒くさくなっちまってるじゃねェか〜」
己の非力に絶望したところで、仕方ないねェ、なんて零した黄猿が俺をひょいと持ち上げる。
そしてそのまま、黄猿は俺を自分の昼風呂に付き合わせてくれた。
乾いたタオルの上でごろごろしている間に掃除してくれたらしいソファは、いつも通りの匂いになっていたので一安心だ。
泊まりに来た上に人の縄張りを侵略していくとは、あの海軍大将は油断ならない男だった。
end
戻る | 小説ページTOPへ