此処こそ安全地帯
※アニマル主人公=仔猫(転生)は大将黄猿さんに拾われました
俺は猫である。
名前はナマエだ。
「にーい」
どんと胸を張って鳴き声を上げた俺の前で、何なの、と声を漏らしたそいつがこちらを眺めた。
しかしその目は俺を見下ろしているのではなくて、真横に倒れたその顔の中からこちらを見上げている。
何故なら、ここは海の平和を守る海軍海兵の本拠地、海軍本部の一室であるというのに、どうしてかその体が床の上に転がっているからだ。
サボリという言葉が頭に浮かび、俺はじとりと目の前の相手を見つめてから、そっと鼻先を近付けた。
何となくだが、俺はこいつを見たことある気がする。どこでだったろうか。
確かめるように鼻先を何度か押し当てると、くすぐってェよ、と笑ったそいつの手ががしりと俺を掴まえる。
「にっ」
「どーこから入ってきたの、お前」
そのまま掴み上げられ、足に触れていた床が無くなった事実に声を上げた俺を自分の頭の上まで持ち上げて、こちらを真下から見上げたそいつが言葉を零した。
どこからと言われたら、ドアからに決まっている。
何を言っているのだと見下ろして、ぴる、と軽く耳を動かした。
先程も言ったが、ここは海軍本部だ。いくら動物でも不法侵入できる筈がない。
俺は、俺の『飼い主』によってここまで連れてこられた。
もちろん、最初にいた部屋はここじゃなくて、もう少し離れた場所の、多分『大将黄猿』の執務室と呼ばれているだろう部屋だった。
他の海兵に比べても体が大きかった黄猿に合わせたその部屋はとても大きくて広々としていて、大人しく待ってるんだよォなんて言葉を置いて黄猿が出ていくと、更にがらんとしていた。
いくら中身が成人男性たる日本人だったとしても、寂しいものは寂しい。
ましてや、俺に安らぎを与えるあのコートは壁にかかっていて、飛び上がってもポケットに潜り込むことしか出来なかった。つられたままのコートのポケットは、なんともおさまりが悪かった。
つまり、俺がそのまま窓から部屋を脱出したのも、全部黄猿が悪いのだ。
思い出して何となく振ってしまった尾が顔にあたったのか、うお、と声を漏らした俺の真下の男が俺を自分の体の上へと降ろした。
指が長くて大きなその手が、俺の体を覆うようにして捕まえている。
「全く……あー、あれだ……忘れてた……お前、ボルサリーノんとこのナマエじゃねェの」
少し冷たく感じるその手の中でもぞもぞと身じろいでいたら、そんな風に声を漏らしてそいつが起き上がった。
ぐわん、と体の向きが急に変わって、驚いて飛び出た爪がそいつのシャツへと突き刺さる。
すぐに爪をひっこめたが、ちくりと痛みくらいは与えただろうに、そいつは気にした様子もなく、俺を自分の体に押さえ込むようにしたままでこちらを見下ろした。
「見つけたら教えろって言われてたんだった……見つけちまった」
「にー?」
いまこいつが言った『ボルサリーノ』というのが俺の飼い主の名前であることくらい、俺だって知っている。
面倒くさそうに言っているが、もしや黄猿が俺のことを捜していたんだろうか。
そういえば、あの部屋から外へと出て、どのくらい時間が経っているんだろう。この体では腕時計もつけていないので、すっかりそこに注意を払うのを忘れてしまっていた。
それにしても、と真上になったその顔を見つめる。
『戦桃丸くん』だって『オジキ』とは呼ぶが黄猿を呼び捨てにはしないのに、黄猿を『ボルサリーノ』と呼んだこいつは、一体黄猿の何なんだろうか。
額にアイマスクを押し上げて、ついさっきまでこの埃っぽくて薄暗くてそんなに広くない部屋で眠る気満々だったそいつが、はあ、と軽くため息を零す。
「……お前、自分で帰んなさいや。ほら、そこのドアから通路にでて、右だから。その後結構行ったら左ね」
「にっ!」
適当すぎる案内を口にしながら俺を自分の膝の上に降ろした相手に、俺は短く抗議をした。
だってこの男が言う『そこのドア』というのは、ちょっとだけ中を覗きたくてこの部屋に入った俺をここに閉じ込めた、あの分厚い壁のことなのだ。
俺だって、最初はここから出たくてあの壁と戦った。
そしてこの体の不自由さを嘆いて終了したのである。
まず第一に、ドアノブに届かない。跳んでも無理だ。
何か他に出口や道具は無いかと部屋の中を歩き回って、そのうち探検気分で楽しくなったせいでこいつが入ってくる音を聞きのがしたが、すでにドアはしっかりと閉ざされていた。
あそこから出るのは無理だとその顔を見上げた俺の真上で、えー、と声を漏らしたそいつが軽く頭を掻く。
「入ったんだから出れるでしょうや」
「にっ!」
まだ言うか。
腹立たしくなってしまった俺は、最近ようやく仕舞えるようになった爪を今度は自分の意思で持って露わにし、それで自らの足元の衣類を爪とぎの要領で引っ掻いた。
「あららら、ちょいと」
ぱりぱりと小さな音を立てながらスーツをひっかかれたそいつが、大して慌てた様子もない声音で声を漏らしながら、先ほどのようにひょいと俺の体を持ち上げた。
片手で軽く俺の体を支えて宙に浮かせた相手に、にっ! と改めて抗議の声を上げる。
少し尻尾まで膨らませてしまった俺を見つめて、んん? と声を漏らしたそいつが軽く首を傾げた。
「……何か怒ってない?」
怒っているのではなく、抗議しているのである。
じとりと見つめた先で、俺の顔を見ていたそいつは、仕方なさそうにため息を零した。
それから、俺を掴んだままで体を揺らし、ゆらりと立ち上がる。
その手が俺の体を自分の肩口へと押し付けて、ぱっと離れていったものだから、俺は慌ててその肩にしがみ付いた。
立ち上がったので気付いたが、こいつも黄猿に負けず劣らずの巨人だ。こんな高さから落ちたら、とてつもなく痛いに違いない。俺の受け身の下手さ加減は、黄猿のお墨付きだ。
「にい!」
「はいはい、出してあげるからそう騒ぐなって」
さっきより膨らんだ尾を伸ばしている俺を肩に乗せたまま、そんな風に言ったそいつが歩き出した。
俺という猫を肩に乗せているというのに、その歩き方には全く気遣いを感じない。揺れてとても居心地が悪い。
ぐらぐら揺れるそこで必死に爪を立てて、俺は重力という絶対的存在にあらがうことにした。
「はいよ、外だ……って、あ」
がちゃ、と音を立てて扉を開き、そんなことを言っている途中で言葉を止めたそいつが、ぴた、と動きを止める。
どうにかしがみ付いたその肩口で、男が動かないことに気付いて安定する場所によじ登った俺は、立ち止まった男の正面にある人影に気付いて、ぴん、と尾を立てた。
「にーい!」
黄猿だ。
黄猿がいる。
「オォ〜……ナマエじゃないかァい」
こんなとこにいたんだねェ〜、なんて言いながら伸ばされてきた手に飛び付けば、黄猿がするりと俺の体を引き寄せた。
安定感のあるその腕の中で身をよじり、ぐりぐりと頭を相手に擦り付ける。
ごろごろと体の中から音を漏らすと、それに気付いたらしい黄猿のもう片方の手が、軽く俺の頭を撫でた。
「甘やかしてんねェ」
「そうかァい?」
何やら頭上でそんな会話を交わしているような気がするが、聞こえなかったことにしておくことにする。
成人男性が同性に甘えているなんて事態には目を逸らすしかない。だってあれだ、今の俺は猫なんだから仕方がない。
よしよしと俺の頭を更に丹念に撫でながら、そういえばァ、と黄猿が声を漏らした。
「こんなとこで何やってんだァい……クザン〜?」
「あららら……そう怒んなって」
「今度の締め切りはちゃァんと守りなってェ〜……わっし、言った筈だけどねェ〜?」
どうやらやっぱり、黄猿の目の前の男はサボりだったらしい。
ぐりぐりと黄猿の体に頭を押し付けて、どうにかひと心地ついてから、あれ、と今の黄猿の声で気付いた俺は動きを止めた。
まだ頭を撫でてくる黄猿の手に身を任せながら体をよじって、先ほどまで俺を肩に乗せていた相手を見やる。
いいかげんにしないと脳天ブチ抜くよォ、なんてちょっと怖い脅し文句を零す黄猿を相手に面倒臭そうな顔をしているその男を、黄猿は『クザン』と呼んだのだ。
「にい」
クザンと言えば、『大将青雉』だ。
なるほど、通りで黄猿を『ボルサリーノ』と気安く呼んだわけだ、と納得した俺の頭を撫でる黄猿の手が、ゆっくりと止まった。
しかしまだ『クザン』への文句は続いているので、相手をまだ逃がしてやるつもりはないらしい。
まあ、サボろうとしていたんだから自業自得だろう。
そんな風に思いながら、黄猿の腕の中で体を伸ばして、目の前に佇む『クザン』を見やる。
先程までの部屋の扉はまだ閉じていなくて、開きっぱなしのそこからは、薄暗い室内がしっかりと見えた。
黄猿が俺を置いていったあの部屋よりは狭いが、それでもやっぱり広い部屋だった。探検も悪くは無かったけど、それでもやっぱり、閉じ込められて心細かったのも事実だ。
『クザン』が来なかったらまだもう少しあの部屋の中で一匹っきりだったんだろうかと、少しだけ考える。
「……にーいー」
仕方ない。
今の俺は猫の体だが、日本人として、受けた恩は返さなくてはいけないだろう。
黄猿の説教の間に割り込むように声を上げると、それに仕方なくと言った風に口を閉じた黄猿が、ちら、とこちらを見下ろした。
「オォ〜……どうしたんだァい?」
問いかけながらもう一度頭を撫でられて、ぐり、とそちらへ頭を押し付ける。
そしてそのままその手の下を潜り抜け、その肩口までよじ登った俺は、にい、と自分でも呆れるくらい甘えた声を出して、黄猿の頬あたりに擦りついた。
「に、にい、にーい」
かなり面倒臭そうだったが、一応『クザン』は俺を外に出そうとはしてくれたのだ。
最初は自力でやれなんてひどいことも言ったけど、最後は手を貸してくれた。
だから許してやってくれと、言葉は伝わらないもののどうにか頼み込むことにする。
話しかけるような俺の鳴き声を聞いていた黄猿は、それからやや置いて仕方なさそうにその手を俺の体に添えて、ちら、とサングラス越しに『クザン』の方を見やった。
「ナマエに庇われるなんて、何したんだァい、クザン〜?」
「え、それ庇ってんの? 飯強請ってんじゃなくて?」
「にっ!」
飼い主だからかもしれないが、黄猿には俺の気持ちが伝わったと言うのに、俺が庇ってやった当の本人が察しないと言うのはどういうことだ。
またしても俺に抗議の声を上げさせた『クザン』は、少し驚いたような顔をしてこちらを見た後、それじゃあ庇われてるうちに退散するか、なんて言葉を置いて歩き出した。
「ちゃんと書類出しなさいねェ〜」
「はいよ」
黄猿が投げた言葉に返事をよこすものの、その適当すぎる声音に、何となくあいつは締め切りを守らないんじゃないかというような気がしてくる。
黄猿には迷惑かけるなよ、とその背中を見送り、そっと黄猿の頬から頭を離した俺の体が、さっきまで支えるように触れていた黄猿の手でがしりと掴まれた。
「にい?」
そのままひょいと先ほどのように腕の中へと戻されて、裏返されてしまった体勢もそのままに黄猿を見上げる。
「……クザンに遊んで貰ってたのかァい?」
俺の背中を腕で支えてもう片手で俺の体を正面から掴まえた黄猿が、そんな風に言いながら、その長い指の間でむに、と俺の顔を軽く挟んだ。
感覚が鋭敏なひげにまで指が触れて、そのむず痒さに変な顔になった気がするが、黄猿には気にした様子もない。
別に、俺は『クザン』に遊んでもらった覚えはない。
しいて言うならあの不安定な肩にしがみついていたくらいだ。あれが遊びというのなら遊びなのかもしれないが、俺は全然楽しくなかった。
どうせよじ登るなら、黄猿の肩の方がいい。
だって黄猿なら、絶対に俺を落としたりしないと信頼できる。
「にい」
「ン〜? 違うってェ〜?」
「にっ」
何だか最近、黄猿と会話が交わせるようになってきた気がするんだが、どういうことだろうか。
小さな頭のなかで少しだけ考え込んだ俺を見下ろして、ナマエがそう言うなら信じてもいいけどねェ、なんて呟く黄猿の顔は少しつまらなそうだ。
それでも、少しだけ手の力が緩んだので、体をよじって指の間から顔を逃がす。
しかし、俺の体を真上から閉じ込めている掌はそのままだった。
さっき『クザン』にも似たようなことをされた気がする。
いくらその手が大きくて、俺がまだまだ小さいからって、こんなにも簡単に握り込めてしまえるのはどういうことなんだろうか。
理不尽さを感じて目の前の指に軽く噛り付くと、くすぐったいねェ、なんて言って黄猿が笑った。
相変わらず、俺の飼い主は打たれ強いらしい。
end
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