成功も失敗もその手のうち
※『アドニスは知っている』より少し前
ナマエには、幼馴染がいる。
『ペンギン、手、つなごう』
道行く男女が手をつないでいるのを見かけて、興味を示した幼馴染に気付いたナマエがそう声を掛けると、え、と声を漏らしたペンギンの顔がナマエの方を向いた。
『いいけど、なんで?』
不思議そうにしながら、それでも差し出された小さな手を捕まえて、『練習だよ』と嘘を紡ぐ。
『大人になったら、好きな人とああやって手ェつないであるいたりするんだろ?』
いまから練習してたっていいだろうと、それこそ大人が聞いたら笑って額を叩いて終わりにしそうなナマエのおためごかしを、しかし幼いナマエの幼馴染はそれと気づかずに受け入れた。
『そっか』と納得するように呟いて、その小さな手にぎゅっと力が入る。
一生懸命なそれに笑って、ナマエもそれを握り返した。
そんな懐かしい思い出の中の、小さくて可愛かった彼が強くたくましくそしてやっぱり可愛いまま、ナマエの『恋人』となったのは、ほんの数日前のことだ。
幼馴染としていたあれこれを考えればむしろ今まで『付き合っていなかった』というのがどうなんだと問われそうなものだが、実際、付き合っていなかったのだから仕方ない。
それより今現在の問題は、『付き合っている』と言う事実である。
「うーん……」
「何唸ってんだよ」
トイレなら今誰か使ってたぞ、と親切なのか揶揄っているのかも分からない声が落ちてきて、ナマエはテーブルに懐いたままでその顔を相手へ向けた。
やがて島に着くと知らせを受けて、わいわいがやがやと騒がしい船内でナマエが食堂のテーブルに懐いているのは、不寝番で夜通し起きていたペンギンが今はぐっすり眠っているからである。
ナマエとペンギンが『付き合っている』と言うのは、仲間内では周知の事実だ。
何せナマエがとんでもなく情けない告白をしたとき、仲間の殆ど全員がその場にいたのである。
結果として、夜間の見張りなどと言った、少人数で回さなくてはならない重要な仕事について、ナマエとペンギンは明確に分けられてしまった。
むしろ付き合っていると知っているのなら一緒に過ごさせてくれそうなものだが、その際に『何か』盛り上がって仕事がうまくこなせなくては困る、というトラファルガー・ローからの判断である。
そんな下半身だけの存在でも関係でもない、と異論は唱えたが、『男の『何もしない』はアテにならねェんだ』とそう思った事情を聞きたくなるような発言を交えられ、さらにはペンギンにまで微妙な顔をされてしまい、結局はそうなってしまった。
新たな島のことは一緒に騒ぎたいが、かといって眠って一時間も経たないペンギンを起こすなんて非道なことが出来る筈もなく、ナマエはこうして大人しくしている。
「ペンギンがいねェから元気ねェのか」
わかりやすいな、なんて言って笑ったシャチがナマエの向かいの椅子に腰を落ち着けて、手に持っていた『前祝い』の酒瓶をごちりとナマエの額にぶつけた。
いてえよと唸りつつそれを受け取って、ナマエはテーブルに懐いたままでシャチを見やる。
「いや、ペンギンと一緒に降りられっかなァって考えてた」
「ポーラータングもドッグに入るって言ってたし、むしろ追い出されるだろ」
「そうじゃなくて」
不思議そうなシャチへ向けて言い放ち、ナマエはテーブルにこすりつけるように首を横に振る。
「係とか、別になったのにペンギンなんにも言わなかっただろ」
せっかくの二人きりになるタイミングが消えたというのに、ペンギンは残念がってもくれなかったのである。
少女でもあるまいし、そんなことでうじうじと考え込むのも馬鹿のような話だ。
何よりナマエは、何も知らないペンギンに『練習』と称して様々な行為の相手をさせた変態である。
年齢が心で測られるなら今頃インペルダウンにぶち込まれていてもおかしくない程度のことはしている、その自覚はあるのだ。
けれども決して体が目的では無かったのに、ローからの『船長命令』に困ったような顔をしたペンギンを思い出すと、うう、と小さな声がナマエの口から漏れる。
「二人きりだからって、何もしねェのに」
ひょっとしたらペンギンは、いくら付き合ったとは言え、ナマエと二人きりになることはあまりしたくないのかもしれない。
『もしもおれとああいうことをしたいなら、お前がおれに惚れてからだな』
ひょっとしたらあの発言だって、惚れたんなら仕方ないからたまに付き合ってやる、くらいの意味だったのではないだろうか。
もともとはそういった興味からほだされた関係の筈だ。その可能性は否めない。
おかしな方向に思考のとんだナマエに気付いた様子もなく、シャチが向かいでため息を零した。
「付き合っても面倒臭ェのな、お前」
「シャチが酷い」
「目の前でいちゃいちゃ絡まれるんでもなけりゃ、おれは気にしねェけど」
お前らはお前らだもんな、と言葉を続けたナマエとペンギンの友人が、酒瓶から直接酒を呷って口元を拭う。
「直接ペンギンから話聞かねえと、またこじれるんじゃねェの?」
次は慰めねえぞ、と言いながらテーブルの下から寄越された軽い蹴りが、ナマエの脛を少しばかり痛ませる。
しかしながら、確かにシャチの発言は真実なので、ナマエは報復を行わずに小さく一つ頷いた。
※
「……行かないのか?」
「あ、いや、行く」
不思議そうなペンギンの発言に、ナマエは慌てて首を横に振った。
ポーラータング号がドッグに入るぎりぎりまで眠っていたペンギンを起こしたのは、シャチだった。
ひどい起こし方をしたらしく、慌てて逃げて行ったシャチももう島へと降りていて、今はナマエとペンギンが揃って二人で港にいる。
直前までのナマエのうじうじとした悩みなど吹き飛ばすような軽さで、ペンギンがナマエと共に船を降りることを了承したからだ。
いつもの出で立ちにいつもの帽子をかぶったペンギンは、それこそいつもと何も変わらない。
夜の訪れた春島はあちこちで鮮やかな花が開き、空や店先からの光で照らされていた。
道に落ちた花びら自体も光っている気がするので、もしかするとそういう品種なのかもしれない。
ふわり、と落ちてきた花を片手で捕まえてからくるりと回したところで、ナマエの視界でペンギンが路地を曲がる。
その後を追いかけてナマエも曲がると、歩く速度を速めたらしいペンギンの背中が先ほどより少し離れている。
「ペンギン」
思わずその背中に後ろから声を掛けると、離れていたことに気付いたらしいペンギンがその足を止めた。
振り向いた相手に近付くと、じっとナマエを見やったペンギンの右手が、ひょいとナマエの方へと差し出される。
晒された掌に目を丸くしてから、ナマエは手に持ったままだった小さな花をその上へと乗せた。
路地に入って先ほどより周囲は暗くなっているが、花びらの色や形ははっきりと分かる。やはり、自力で淡く発光する品種のようだ。
集めて持ち帰ったらランプの代わりにでもなるかと、ペンギンの手の上を眺めて考えたナマエの傍で、おい、とペンギンが声を漏らす。
それと共にその手が花を潰さないように握り込んで、今度は逆の手がナマエの方へと差し出された。
しかも今度はナマエを待たず、動いたその左手がナマエの右手を捕まえる。
「手を寄越せと言ってるに決まってるだろう」
「決まってる……かァ?」
思わず首を傾げたナマエに対して、決まっているだろう、と何やら自信ありげに頷いたペンギンが、先に歩き出す。
腕を引かれたナマエもそれを追いかけて、二人で並ぶようにして路地を歩いた。
海賊をドッグに受け入れてくれる港町の暗い路地は、あちこちに後ろ暗いところのありそうな人間がいるが、ナマエ達を見ても気にした様子がない。
男性なのか女性なのか判別のつかない婀娜っぽい客引きが意味ありげに微笑んでくるのを見やり、手招きに空いた手を横に振ってやんわりと断っていると、ナマエの右手がぎゅっと握りしめられた。
「いっ」
小さな頃とはまるで違う、万力で締め上げるような痛みに思わず声を漏らして傍らを見やるも、ペンギンは前を向いたままだ。
「ペンギン、ちょっと、痛ェって」
「ああ、気付かなかった」
慌てて声を零したナマエに棒読みで言い放ち、ペンギンの手が少しだけ力を緩めた。
相変わらず握られたままの手を摩ることも出来ず、じんじんと痛むのを感じながら、どうしたんだよ、とナマエが言葉を零す。
腕を引いたりすることは今までも時々あったが、こんな風に手をつないで歩くなんてこと、本当に小さな頃にしかしたことは無い筈だ。
戸惑いにあふれたナマエの声が届いたのか、ペンギンがちらりとナマエの方を見やった。
「別に、どうもしない」
「どうもって」
「昔だってよくつないだだろう」
そんな風に言い放ち、しっかりと合わせた手を軽く振られて、そうだけど、とナマエは呟いた。
確かに、小さなペンギンと手をつなぐ『練習』をしたのは事実だ。
けれどもあれはナマエがペンギンを丸め込んだからで、こうやって路地で手をつなぐことの理由になり得るものだろうか。
「……何かの練習か?」
何か意図があるのか、と首を傾げたナマエにため息を零したペンギンが、またその手に力を込める。
ぎりぎりと指の付け根を締め上げるその痛みに、いでででで、とナマエが声を漏らす。
「昔のあれは『練習』だが、おれはもう練習するつもりはないからな」
この前だってそう言っただろうと言葉を続けられ、痛みに顔をしかめながらもその言葉にナマエが頷く。
それを見やり、本当にわかっているのか、と言葉を続けたペンギンは、舌打ちを零しながら言葉を紡いだ。
「本番だと言っているんだ、馬鹿ナマエ」
「ほん……」
はっきりとそんな風に言って、ふい、とその顔が逸らされる。
痛みを与え続けていた手の力がまた少し緩み、しかしナマエの手を介抱はせずにそのままナマエを路地の奥へと誘導した。
ペンギンがどこへ向かっているのかも分からないが、とりあえずそれを追いかけながら、ナマエはペンギンの言葉を反芻する。
「本番……本番?」
『大人になったら、好きな人とああやって手ェつないであるいたりするんだろ?』
頭にぼんやり蘇ったのは、自分がペンギンへ紡いだ『理由』の一つだった。
握りしめた幼いペンギンの手がどれほど小さく柔らかだったかまでを思い返して、びく、と指が動く。
小さな頃のあれは、『練習』だった。
それはそうだ。ナマエがそうしたかっただけで、ペンギンにナマエと手をつなぐ理由なんて何一つなかった。
しかし今日のこれが『本番』で、もしもナマエの紡いだ言葉をペンギンが覚えているのだとしたら、とそんなことを考えたナマエの足が少しだけ早まって、引きずられるようだった立ち位置がまたペンギンの傍らへと戻る。
「……あのさ、ペンギン。あんなに練習したのに、なんでこんなに強く掴むんだよ」
「馬鹿がよそを向くから悪い」
「よそ見なんてしてねェよ」
言葉を返すと、どうだか、と唸ったペンギンの方から舌打ちが漏れた。
けれども、それが不機嫌さを装ったものだということは、幼馴染であるナマエには手に取るように分かることだ。
どちらかと言うと今のペンギンは、自分の発言に少し照れている。
同じように自分も少し恥ずかしいが、自らの照れより傍らの恋人の可愛らしさの方が問題だった。
「……かーわいいなァ、ペンギン」
現金なナマエが嬉しそうにそんな言葉を零すと、うるさい、とペンギンの方から言葉が漏れた。
今度は少しそれに怒気が含まれていたが、しかしやっぱりペンギンはナマエの手を逃がさない。
そのことがとんでもなく嬉しくて、なんだかもやりと騒いでいた胸のうちがすっきりしているという事実に、ナマエはにまりと唇を緩めた。
少し認識のずれはあるかもしれないが、ペンギンも間違いなくナマエのことを好いてくれているらしい。
そのことが嬉しくてたまらないのは、『練習』と称して触れ合いながらも長らく片想いのようなものだったからだろうか。
楽しげに足音を弾ませて、ナマエは改めて路地の彼方を見やった。
繁華街へと続くらしい路地では、あちこちに怪しげな店が看板を出している。
どこの島も似たようなものだが、遠目に見た限り、どうやらこのままいくと宿泊施設の多いあたりに着きそうだ。
「なあ、起きたばっかだし腹減ってるだろ? あそこで曲がって隣の通りに出ようぜ」
なんとなくいい匂いのする方向へ行けばいいだろうと考えて角を指差すと、腹が減っているのか、とペンギンが質問を寄越してきた。
俺は別に、とそれに応えると、ならいい、と答えたペンギンの足が更に前へと踏み出す。
「あれ?」
そのまま曲がり角を通り過ぎられて、ナマエが目を丸くする。
「……シャチから聞いた」
その傍らでナマエを見やったペンギンが、お前はどうだか知らないが、と言葉を紡いで、ずっと掴んでいたナマエの手を逃がす。
強く掴まれていた手を解放されて、その温もりすら離れたことに戸惑ったナマエが足を止めると、同じようにペンギンも足を止めた。
「おれは、二人きりでも『何もしない』なんて言わないからな」
帽子のつばで目元を隠したペンギンの言葉は、何ともはっきりとナマエの耳へと届く。
届いたそれがどういう意味なのか理解するまでに数秒を必要として、理解した途端にじわりと滲んだ汗に、ナマエは足を一歩引いた。
そんなナマエを見やり、その反応もどうなんだ、とペンギンが唸る。
「お前の方から始めたことじゃないか」
「そうだけど、あれ? いや、そうだけどっ」
混乱しながら声をあげると、大声を出すなと窘められる。
けれどもそれに『ごめん』と謝りながらも、やはりナマエは混乱したままだった。
確かに、ペンギンを『練習』と称したあれこれに誘ったのはナマエの方だ。
ペンギンは大体誘われるのに応じる形で、ずっとナマエに付き合ってくれていた。
だからと言って、ナマエだって体が目的だったわけではないのだ。
「俺は、その……!」
「……しないのか」
何と言っていいのか分からず、ぐるぐると目を回しそうなナマエの向かいで、ぽつりとペンギンが声を漏らす。
どことなく不安のにじんだそれに気付いてナマエが見つめると、帽子で目元を隠したままのペンギンが、声を潜めて言葉を零した。
「本当に、何も?」
首を傾げながら落ちたその言葉に頷くなんて、男に出来ることだろうか。
なんだかとんでもなく恥ずかしい問いをされた気がしたが、大きく手を動かしたナマエは、構わず両手でペンギンの片手を捕まえた。
先ほどナマエの手を握りしめていた掌を両側から包んで、しっかりと握る。
「ごめん、嘘言ってた。する」
きっぱりと言い放ったナマエに、ふ、とペンギンの唇が笑みを浮かべる。
それと共に『ならいいんだ』と言い放ち、ペンギンはそのまままた歩き出した。
そのつま先がどちらへ向かっているか分かっていながら、ひとまず片手を離したナマエの手が、改めてペンギンの手を握りしめる。
しばらく二人で並んで歩いて、そうしてふと大事なことを言っていないと気付いたナマエは、すぐさま傍らを見やった。
じわりとわいた羞恥は押しつぶして、どうにか言葉を口にする。
「あの……ペンギン」
「なんだ」
「か……体だけ、とかじゃないからな」
これだけは言っておかねばと気合いを入れて言葉を放ったナマエに、どうしてかペンギンが吹き出した。
慌てて片手が自分の口元を押し当てて、ゆるく握った拳がナマエの視界に入る。わずかに開いた指の隙間からは、光る花びらがちらりと見えた。
それは恐らく先ほどナマエがペンギンの掌に乗せた小さな花で、そういえばまだ持っているのか、とそんなことを頭の端で考えたナマエの視界から、拳と共に花びらの輝きが外れる。
「知ってる」
ふふ、と小さく笑い声を漏らしてそんな風に言い放ち、そういえば、とペンギンが言葉を続けた。
「『後で仕切り直す』と言っていたが、あれからまだちゃんと言われていないな」
「えっ」
楽しそうに言い放ったペンギンが何のことを示しているのかはすぐにわかり、ナマエは目を瞬かせた。
一世一代の告白を噛んでしまった思い出がすぐさま蘇り、羞恥に体温をあげて、見る間に挙動不審になったナマエの手を引いたペンギンが、柔らかく言葉を零す。
「二人きりならどれだけ失敗してもいいだろう。楽しみにしておいてやる」
ナマエの可愛くて格好良くて愛しい恋人である幼馴染は、時々意地の悪いことを言う。
楽しげな相手に『まだ練習不足だから勘弁して』と唸りながらも、結局その手を振り払って逃げ出すことをせず、ナマエはペンギンと共に路地の奥へと姿を消した。
end
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