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誰のものにもならなければ 貴方のものです
 ナマエと名乗った青年は、クザンが驚くほどに世間知らずだった。
 南の海も北の海も東の海も西の海も、ましてや自分が今いるグランドラインですらも知らないと言うのだ。
 世界地図を見せてくれとまで言って、持ってこさせたそれを見せながら、クザンはやれやれとため息を零す。

「……っと、説明はこれくらいでいい? 随分と世間知らずだったんだね、お前も」

「……世間知らず……」

 ぽつりと呟きつつ、ナマエはまだ世界地図を見下ろしている。
 大まかに描かれたそれを自分も見下ろしながら、そんな不思議そうにしなくても、とクザンは呟いた。

「グランドラインも知らないなんて、普通は無いでしょうよ」

 悪魔の実も能力者も知らないで、よくもグランドラインで生きてこれたものだと、クザンは思った。
 まるでおとぎ話の世界を聞くような顔をしていたナマエの様子からすると、とてつもない箱入り息子だったのかもしれない。
 それならば、海軍にも捜索願は出ているだろう。
 家に帰してやるのも手っ取り早く済みそうだ、とまで考えてちらりとナマエの顔を見やったクザンは、その顔色の悪さに怪訝そうに眉を寄せた。

「…………顔色悪いよ? 大丈夫?」

 思わずそう尋ねたクザンの前で、くしゃり、とナマエが地図を握り締める。
 海兵をせかして取りに行かせたそれは哀れなほどに皺を寄せ、ナマエの小さな手の中で南の海を記した文字が歪んだ。

「………………もし。もし仮に、今の話が本当だとしたら」

「いや、あれだけ説明させといてそれは無いんじゃないの」

 恐る恐ると言葉を零すナマエに、クザンの口から呆れた声が出る。
 聞かれるがままに答えていたら、ナマエの住んでいた島を確認するためのはずの聞き取りはもう一時間も経過していた。
 これだけ親切にしたのに、嘘を吐いていると思われていては心外だ。
 そう思ってのクザンの台詞に、ナマエがその視線を地図からクザンへと向けた。
 まだ顔色は悪く、まるで悪夢でも見ているかのような表情をしていた。

「俺には、帰る場所がありません」

「…………え?」

 ぽつりと落とされたナマエの言葉に、クザンが戸惑い小さく声を漏らす。
 それを無視して、まっすぐにクザンを見上げながら、ナマエは繰り返した。

「南にも、北にも、西にも東にもこのグランドラインとか言う航路にも、俺の帰る場所はありません」

 そうまで言って、ナマエの顔がくしゃりと歪む。
 クザンを見つめるその目が、だんだんと潤んでいった。

「俺は……もう、帰れないんですね」

 苦しそうに言葉を吐き出して、地図を掴んだままのその手が震える。

「父にも母にも、友達にも、もう会えないんだ」

「……ナマエ」

 かすれていくその声に、クザンは思わずそっと目の前の彼を呼んでいた。
 慰められるようなその声に反応すらせず、いつか帰れるって思っていたのに、とナマエは呟いた。

「だから、あんな……ッ だったら……もう帰れないんだったら、いっそあのまま、」

「……そんな悲しいこと言わないでよ」

 続けられていく言葉の先が何かに気付いて、クザンがそう言葉を遮る。
 その意図によって言葉を区切ったナマエは、そのまま言葉を飲み込むように俯いた。
 小さく息を吐き出して、俯いたままのその顔の下にぽたりぽたりと雫が落ちる。
 声を抑えながら涙を零す青年に、クザンは目を丸くした。
 その手がぱたぱたと自分の服を探って、目当てのものを見つけられずにデスク脇の小さなボックスティッシュを捕まえる。

「泣くなって。男の子でしょうが」

 言葉を放りながら一緒にティッシュを差し出したクザンに、それを受け取りながら嗚咽を漏らしたナマエが、反論するように口を動かした。

「男、だって、泣きたいときは、泣きます、よっ」

 嗚咽を堪えながら聞き取りづらい言葉を吐いて、ティッシュを何枚か手に取ったナマエがそれで顔を覆う。
 時々体すら揺らしながら涙を零すナマエに、やれやれとクザンはため息を零した。

「そこでぐっと我慢するのも男だと思うけど……まァいいや」

 論点はそこじゃないと呟いて、クザンの手がナマエの頭に触れる。
 クザンの片手で簡単につかめてしまいそうな頭を撫でれば、くしゃりとその髪が乱された。

「よしよし、泣きたいなら泣いてもいいからさ、そんなつらそうにしないで」

 あんな悲しいこと言わないでよ、と優しく囁いて、クザンは続けた。

「もしかしたら帰れるかもしれないし、それに、家族にも友達にも会えなくたって、ほら、おれがいるでしょう」

 言葉を零すクザンの前で、まだナマエは顔を上げない。
 こんな不安定な相手を放り出せるほど、クザンも冷たくは出来ていなかった。
 助けたのは自分なのだから、きちんと最後まで面倒を見るなりする責任はあるのだと、海軍大将にだって分かっているからだ。

「寂しいんならおれがいるじゃないの。帰れるまで、おれと一緒にいたらいい」

 慰めるように言いながら頭を撫でるクザンの前で、ひく、と嗚咽を噛んだ青年はやや置いてから顔を上げ、涙に濡れた赤い目でじっとクザンを見上げた。
 まるで雨の日に見かけた捨て犬のような所在無げなその表情に、よしよし、とクザンは更に青年の頭を撫でる。
 自分の頭を軽々つかめそうな大きな手にくしゃくしゃと髪を乱されて、赤くなった目をやがて手元のものでぬぐった青年は、分かりました、と小さく呟いた。
 その手がティッシュを自分の膝へ落とし、空いた手で自分の頭を撫でているクザンの袖を掴む。
 くいと軽く引っ張ることで自分の頭に触れるその手を遠ざけてから、改めてナマエはクザンを見つめた。

「……捨てないでくださいね、クザンさん」

 涙を孕んだ声でぽつりと寄越された言葉に、何女の子みたいなこと言ってるの、とクザンが笑う。
 そんな冗談が言えるなら、もうあんな悲しいことなんて言わないだろう。
 そう判断した海軍大将の前で、彼を見上げたナマエはまるで縋るようにクザンの袖を掴んでいたけれど、クザンは残念ながらそれには気付かなかった。



END


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