恋とは知らない
※有知識トリップ主は赤髪クルーでベックと同等年齢
赤髪海賊団には、ナマエという名前の海賊がいる。
ベックマンがシャンクスに誘われたしばらく後、仲間を募ったシャンクスのもとへとやってきた男だ。
『赤髪のシャンクスだろ? 四皇になる予定の』
ルーキーのシャンクスをそんな風に持ち上げたくせに、媚びるというよりはまるで決まった未来を口にするような顔をしていたナマエは、少しおかしな男だった。
銃火器に秀でているわけでもなく、料理が特別上手いわけでもなく、武術の心得はおぼろげで、航海術に秀でているわけでもない、例えばベックマンとチェスをしたところで一度も勝利できていない男だが、シャンクスはナマエを仲間にした。
船長の決定を覆せるわけも無いのだから、港町の酒場の店員だったナマエを気に入ったのだという発言に、ベックマンは肩を竦めただけだった。
赤髪海賊団に人が増え、そうして海を進んでいくうちに数年も経った頃には、極端に秀でたところの無いナマエも今や得難い船員の一人だ。
「ベック、何してるんだ?」
ベックマンをその愛称で呼んで、ひょいと船尾へ現れた相手に一瞥を投げたベックマンは、指でつまんだ煙草を揺らして見せた。
煙を零すそれを見て、たばきゅーか、とナマエが零す。『煙草を吸う休憩時間』の略称らしいが、今のところベックマンはナマエとそれを真似したクルー以外に、その単語を使っている人間を見たことがない。
その片手には小さめの籠が掴まれていて、そのことにベックマンが首をかしげると、ああ、と声を漏らしたナマエがベックマンへと近付いてきた。
「ほら、おやつ」
笑いつつ差し出された籠の中に入った数枚のビスケットは、少し形がいびつなところからして間違いなく手作りだろう。
ちらりと空を見上げ、太陽の角度を確認してから視線を戻したベックマンが、どうしたんだ、と口を動かす。
「今日は当番じゃねェだろう」
『おやつ』とやらをこの時間にふるまってくるのは、時たま料理当番の回ってくるナマエだけだ。
ほぼ専属で料理を担当しているクルーは求められた時に軽食を用意できるが、『俺は手際よく出来ないんだ』と自己申告したナマエは自分で時間を決めて取り掛かっている。
船に乗って数年も経つのだから今はその必要は無いのかもしれないが、ナマエが当番の時はそうなのだ、と他のクルー達が理解したので、今さら変更の必要は無いだろう。
他の仕事でも、ナマエは大体自分から、補充や交代の要員を買って出る。
専任のクルー達よりわずかに劣るその仕事は、しかしまるで触ったことがないクルー達がいじるよりも確かに仕事を片付けていた。
「誰かさん達が大事なコックを酔い潰すのが悪ィんだよ」
尋ねた言葉にそう返されて、ああ、とベックマンは昨晩のことを思い出した。
思い出話に花が咲き、怖ろしく酒を傾けていた船長の横には、確かにコックが座っていた。
「そういや、お頭が飲ませてたな」
「ベックも飲んでただろ」
「おれァ加減した」
「あれで?」
怪訝そうに問われて、当然だと答えたベックマンが肩を竦める。
「相変わらず鉄の肝臓だなァ、海賊ってのは」
しみじみそんな風に言い放つナマエの手がベックマンへと小さな籠を押し付けて、受け取ったベックマンは改めてその視線を手元の『おやつ』へ向けた。
形はいびつだが、それがそこそこの味であることはもはや確かめるまでもないことだ。
「飲み物はねェのか」
しかし間違いなく口が渇くだろうと考えたベックマンが尋ねると、あるぞと答えたナマエが後ろからひょいと一瓶の酒を取り出した。
銘柄からして度数の低いことが分かるそれは、酒盛りの時には大体ナマエが舐めている酒だ。
「昼から酒は良くねェんじゃなかったのか?」
思わずにやりと笑って尋ねたベックマンに、何年前のことを持ちだしてるんだ、と眉を寄せたナマエが酒瓶を押し付ける。
昼酒なんて不健全だ、と海賊船に乗りながら真面目なことを言い放っていた筈の男は、どうやらすっかり海賊稼業に染まってしまっているようだ。
なんだかそれが少しばかり面白く、喉を鳴らして笑ったベックマンが煙草を銜え、籠を持っていないほうの手で酒瓶を捕まえた。
すぐそばの樽の上にビスケットの籠を置き直してから、その体が船と海を隔てる欄干にもたれる。
自由を取り戻した片手でひょいとビスケットをつまみ上げ、それから焼きたてらしい温かさのあるそれを口に近付けると、何やら顔に視線が突き刺さるのが分かった。
「…………穴が開くぞ」
「ん? 何が?」
視線の主へ言ってみるも、相手の方は素知らぬふりだ。
ため息を零し、さっさと口に含んだビスケットをかみ砕いて飲み込んだベックマンは、それから一瞥と共にナマエへ向けて言葉を投げた。
「うまい。相変わらず」
コックの手が作るのとはまるで違う、素朴な味わいだ。
だからこそいつものようにそう言葉を掛けたベックマンの近くで、そうか、とナマエが嬉しさをその顔へと滲ませた。
「この前の島で買った小麦粉がな、なんだかいつもと銘柄が違ってたから、どうなることかと思ったんだが」
「そういや少し香ばしいか? 粉の違いはさすがに判らねェが」
「俺にも分からん」
あいつなら分かるんだろうけどなあ、とコックの名前を出したナマエに、そうだろうなとベックマンも頷いた。
そうしてそれから、おや、と少しばかり首を傾げる。
「他の連中には聞いてねェのか?」
自分が作ったものを評価されたい、と言うのは誰でも抱く欲求だ。
辛辣な批評を受けたい人間はそういないだろうが、例えば先ほどのベックマンのように『うまい』と言わせることなど簡単だろう。
仲間のうちだったらその『粉の違い』とやらも分かる人間がいたかもしれない。何なら、そろそろ酒が抜けて来るだろうコックもその中には入っている。
ナマエの無言の求めに気付いて答えるのは大体ベックマンだけだが、今日はいつもと違う食材を使っているのだから、さすがに他の誰かにも感想を求めるのだろうと考えたベックマンの前で、え、とナマエが声を漏らす。
驚いたような顔をして、それから少しだけ視線をさ迷わせたナマエは、すぐさま笑みをその顔へと浮かべた。
「他の奴らにはこれから配るんだよ」
みんな俺が何作っても気にしねェけどな、と笑うナマエの言葉に、うまいもんにはうまいと言うだろう、とベックマンは一つ答えた。
その指が酒からコルクを引き抜いて、穏やかに波打つ液体が瓶の中で水音を立てる。
「わざわざ焼きたてをおれのところに運んでくるまでに、他の奴らに食われなかったのか」
「そうなんだよ、幸いに」
そんなことがあったらお前のおやつ無かったかもなあ、なんて言って笑うナマエは、いつもと変わらない。
脳内で船内から船尾までの地図を描いてみても、間違いなく大食漢のクルーの傍を通る気がしたが、ナマエが言うならそうなのだろうとベックマンは考えた。
ナマエは求められれば応えるほうだから、食べたいと言われればこの籠の中身は他のクルーのものになっていて、ベックマンのところへはもう少し冷めたビスケットが届いていたに違いない。
ナマエの手作りの品をベックマンが誰より先に口にするのは、よくある偶然だ。
「今日の夕飯までは俺が担当するんだが、ベックは何が食いたい?」
「もう夕飯の話をするのか」
「今から支度するんだよ」
俺が手際よくないの知ってるだろ、と眉を寄せて言葉を放ったナマエの前で、ベックマンは口の中を酒で湿らせた。
瓶の口から流れ込むそれは殆ど水のようなものだが、わずかなアルコールの匂いが鼻を抜ける。
そのついでに先日の島でのことを思い出して、そういや、とベックマンの唇が瓶を離れて言葉を紡いだ。
「この前の酒場で食った、あの芋の奴はどうだ?」
「芋の? ……ああ、ベックが気に入ってた奴か、肉が挟まってた」
名前すら知らない料理を示したベックマンの向かいで、どうやら同じ料理を脳裏に浮かべたらしいナマエが答える。
気に入ってたか、と首を傾げたベックマンに、自分で追加注文してただろとナマエは言葉を返した。
「あれなら、そういや給仕の姉ちゃんから作り方聞いてたな。そうするか」
よく見ているものだと感心したベックマンをよそに、楽しそうな顔でナマエが言う。
『給仕』の単語にベックマンの優秀な頭が思い返したのは、酒場らしくエプロンを着込んであちこちのテーブルを回っていた妙齢の女の姿だった。
つややかな黒髪を伸ばし、切れ長の目で怯えるでもなく海賊達を見やった彼女は、露出がそう激しいわけでも無いのに体の凹凸がはっきりと分かる恰好をしていた美人で、クルーも数人が鼻の下を伸ばしていた。
その中にナマエが含まれていたかどうかは思い出せないが、いくら時々担当するとは言えそれほど料理に対する研究意欲のないナマエが作り方を聞いたというのは、すなわちあの給仕に話しかけたかったからだろう。
「…………」
「ん? ベック?」
行き着いた予想がなぜだかとても不愉快な気がしてわずかに眉間の皺を深めたベックマンに、ナマエが不思議そうな顔をする。
それをよそに、少しだけ息を吐いて、ベックマンは意識的にゆっくりと酒瓶を樽の上へと置いた。
「……忘れてたが、そういや昨日のつまみに芋が使われていた」
「え、そうだっけか?」
他の連中より早めに船内へ引き上げたナマエが目を瞬かせて、じゃあやめよう、と口にする。
別に芋が続いたところでそれに文句を言うクルーなどいないのだが、ベックマンはあえてそれは口にしなかった。
口をつぐんだ理由など自身でも分からないが、思い浮かばないのだから、どうせとるに足らない理由に違いない。
「それじゃ、他だと何が食いたい?」
「何でもいい」
「お前、それ一番言っちゃいけない奴だぞ」
ベックマンの発言にわざとらしく顔をしかめたナマエは、結局その日の夕食を魚料理にした。
使われていた食材の半分近くがベックマンの好むものだったこともまた、よくある偶然の一つだろう。
end
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