お話の始まり (1/4)
どうやって、その世界へやってきたのかは分からない。
「……はっ?!」
思わず驚きの声を上げたナマエがその目で見たのは、自分へと向かってくる眩いきらめきを散らした水面だった。
どうしてか内臓を引っ張られるような感覚があり、自分が『落ちている』のだと把握したのとほとんど同時に水へと叩き付けられる。
小さな子供の頃にプールで味わったようなひどい痛みに悲鳴を上げようとして、その口へと流れ込んだ水の塩辛さにごぼりと空気を零した。
「げほ、ごほっ!」
慌てて水面へと顔を出し、目に染みる水を拭いながら咳き込んで必死に息を吸い込む。
体のほどんどが水の中にあり、水面から出た部分に触れる風は冷たい。
ひりひりと痛む体は『今』が現実だと言うことを表していたが、ナマエにとってはそれすら信じたくはないものだった。
だって、そうだろう。
この塩辛さ、生臭いような独特の匂い、足の届かぬ深い深い水底、澄み渡った青。
自分が浸かっているその水たまりはどう考えても『海』と呼べるもので、しかしナマエの日常において、それは簡単に飛び込める場所にあるものではなかった。
ナマエはただ、いつものように駅の階段を降りていたところだったのだ。
一歩足を踏み外して、驚きに目を見開いたと思ったら、目の前の光景が全く変わってしまっていた。
「……なんだ、これ……」
混乱しきった様子で目の前を見つめ、呆然と呟いたナマエの後ろ側で、『おーい』と声が上がる。
それを聞いてじゃぶりと水を掻きながら振り向いたナマエは、そこにあった木造船にもう一度目を瞬かせた。
何やら荘厳な女性の姿を船頭に刻んだ帆船が、波を掻きわけながらナマエの方へと近付いてくる。
ナマエから見える、船の一番先に佇んだ男が、ナマエへ向けて大きく手を振っていた。
なんだろうかと思いながら身構えたナマエから少し離れた場所で、大きな船が動きを止める。
さざめく波がナマエの体を揺らして、ナマエはまた頭まで一度水に沈んだ。
「よォ! 大丈夫か、アンタ」
慌てて再び水面から顔を出したナマエへそう尋ね、船の上からナマエを見下ろした男は、日に焼けた肌の、とても明るく笑う人間だった。
ただ、その片目を覆う黒い眼帯が、その顔立ちに爽やかさ以外の色を差している。
いびつなドクロを刺繍であしらったそれを見上げて、ナマエは海としか思えない水の中で首を傾げた。
「……海賊……?」
頭にはバンダナを巻き、腰にはサッシュベルトを巻いて、サーベルらしきものをさしている。
子供向けのアニメや絵本でしか見ないような、分かりやすい姿だ。
コスプレだろうか、と混乱しきった頭で考えたナマエの上で、はははは、と男が笑う。
「おう、そうだ、よく分かったなァ!」
おれの手配書でも見たか? なんて言って笑う男のその言葉は、その時のナマエには理解不能なものだった。
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