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無知識トリップ系主人公は名前が覚えられない なーお、なーお。 高くて柔らかい甘えた声が足元から聞こえて、それから足元をすりすりと擦る毛皮に気付いた俺は、自分の足元を見下ろした。 「ん? どうした」 三角耳に滑らかな毛皮の、誰がどう見ても猫と呼ぶべきその生き物は、つい先日、海賊船へと乗り込んだ生き物だった。 嵐にでもあったのか、乗組員のいなかった古びた船の中にいた、哀れな漂流者の一匹だ。 助けを求めるように弱弱しく鳴きながら近寄った猫を抱き上げたのが誰だったか覚えていないが、美味しい食事や構い倒されまくったことですっかり飼い猫らしくなってしまっているそいつへ手を伸ばしながら屈みこみ、ひょいと柔らかい体を救い上げる。 抵抗することなくするりと動いた猫はそのまま俺の肩に前足をかけて、ぐるるるとご満悦そうに鳴きながら頭をこすりつけた。 「腹減ってんのか? なんか飯貰いに行くか、猫」 「また猫呼びしてんのかよい」 軽く顎を擦ってやって声を掛けた俺の耳に、そんな風に投げられた言葉が飛び込む。 出所を追いかけて視線を向ければ、いつの間にやってきたのか、われらが一番隊隊長がすぐ近くに立っていた。 名前があるんだから呼んでやれよいと言われて、ちらりと肩口に視線を向ける。 「……名前……?」 「…………おい、まさかまた忘れたのかよい」 俺の呟きに呆れた声が紡がれたのは、恐らくこれが初めてじゃないからだ。 そうは言っても、毛色にちなんだわけでもなくタマとか分かりやすい音でもない、たまにしか遭遇しない猫の名前なんて、なかなか覚えられない。 ただでさえ周りはカタカナなのに難しい名前が多くて、そちらを覚えるのにも神経を使っているのだ。 「でも、猫でも問題ねェと思う。なァ、猫」 言い訳を紡いで声を掛けると、呼ばれたと分かったらしい猫がにゃあと鳴いた。 とりあえず尻を支えるように持ち直してやりながら、体を隊長の方へと向ける。 やっぱり呆れた顔をしていた一番隊隊長は、仕方なさそうにため息を零した。 その手が軽く自分の首裏を撫でて、それからふと何かに気付いたように離れる。 そのまま伸びた手が青い炎を零して、驚いて身を引いた。 けれども一番隊隊長は気にせずさらに手を伸ばして、ぺち、と俺の頬へ触れる。 すぐそばで、ぼぼぼぼと炎のこぼれる音がする。 どう考えたって燃えているのに、相変わらず不思議な温度だ。 ついでに、触れたことで頬に擦り傷があったのを思い出して、思わず『痛い』と口にしていた。 「まったく……今度はどこでひっかけてきたんだよい」 言葉を零しつつ二度三度と俺の頬の擦り傷に触った隊長が、それからぱっと手を放した。 それと共に触られたことで痛んでいた擦り傷が痛くなくなったのを感じて、よく分からないものの自分の頬を擦った俺は返事をした。 「さっき船倉で、棚にちょっと」 「釘でも出てたか」 「そうじゃねェけど」 物を運ぶ作業中、うっかりたたらを踏んで転びかけたのだ。 物は落とさなかったし転びもしなかったが、俺の体は一度棚にもたれ込む形になり、ついでに頬を角で擦った。それだけである。 「相変わらず不注意な野郎だよい」 俺の返事に肩を竦めて、隊長がもはや完全に炎を消した片手を下ろす。 それを見送ってから猫を抱えなおした俺は、どうもありがとう、と目の前の相手へ礼を口にした。 「あァ、ドウイタシマシテ」 にまりと笑って慣れた様子の無い返事をした相手が、ほら行くよい、と俺を促した。 どういう意味かと思いながらも、押されるままに歩き出せば、俺は相手と並ぶ形になる。 「どこに行くって?」 「どこって、そいつに飯やるんだろい」 食堂だと返事をした隊長が俺を見たので、なるほど、と納得する。 それから自分が抱えている相手を見下ろすと、俺の腕の中ですっかりリラックスした様子の猫が、ぴくりと耳を揺らした。 ついさっきほど、すぐ近くを青い炎が通ったというのに、この猫はまるで何の反応もしなかった。まあ、体中が弱っていて怪我までしていたところに同じ炎を当てられたことがあるので、慣れてしまったんだろう。島でもらわれても炎を怖がらない猫になってしまうんじゃないかと、少しばかり心配だ。 「その時は責任取った方がいいと思うぜ」 「急に何の話だよい」 猫を抱えたままで傍らを見やって言葉を投げると、隊長は少しばかり怪訝そうに眉を寄せた。 猫が炎を怖がらなくなったらって話だよと説明すると、何が言いたいか分かったのか、ははァ、とその口が声を漏らす。 「ナース達が気に入ってるし、オヤジも可愛がってるんだ。今のとこァ、船からおろすつもりもねェよい」 「そう言うもんか」 「もう、おれ達の家族ってこった」 あっさりと猫を家族扱いしだした海賊に、そう言うものか、ともう一度言葉を繰り返した。 俺が乗るこの船の海賊団は、随分と懐の深い連中だ。 俺だって、この猫と同じく、あの日拾われた身だった。 何故だか古びた船の上にいて、傍らには飢えて死にそうな猫がいた。 持っていた鞄の中のものは本当は猫に食わせちゃいけないものだったんだろうが、あの時はそれしか無かったし、今の猫は健康そのものなので大丈夫だったんだと思う。 『おい、生きてるかよい』 猫と一緒に海を流れて、結局ともに飢えて、もはや身動きも取れなくなった漂流者である俺を見下ろして、そう声を掛けたのは傍らの隊長だった。 見やった先では猫が誰かに抱き上げられていて、助かったんだ、よかった、とかそんなことを考えた気がする。 何もかもが俺の常識と違う、訳も分からぬこの世界で唯一頼るとするならば、それは『白ひげ』と名の付くこの海賊団だけだろう。 「お前と同じだよい」 俺へ向けてそんな風に言い放ち、隊長がにまりとその口元の笑みを深くする。 その手が俺の背中を軽く叩いて、とんとん、と響いた衝撃が嫌だったのか猫が尾をゆらりと揺らして抗議するように鳴き声を漏らした。 なだめるようにその背中を撫でた俺の横で、まァとりあえず、と隊長が言う。 「まずはおれの名前から覚えたらどうだ」 「………………」 気付かれていたという事実に気まずくなって目を逸らしたら、たった三文字くらい覚える努力をしろと怒られてしまった。困った話だ。 end 戻る |