頭に鈍痛を感じて、ゆっくりと体を起こす。カーテンごしに見ても、外が暗いのが分かる。枕の位置を変えたり寝返りを打ったが、睡魔は一向に襲ってこない。
「…眠れない」
効果があるかないかは分からないが、こめかみを数秒押さえた後、暗い中、目を凝らして病室を出た。
誰もいない…。そう無意識に呟いた自分に苦笑いしながら薄暗い廊下を歩く。こんな夜中に誰も起きてるはずないよね。
「6002号室の患者さんがかなりのイケメンでさー」
「えぇー!マジですか!」
看護師さん達の会話が廊下に小さく響いている。私はナースステーションの前を通らないように遠回りしてから、あてもなく廊下を歩く。見つかったら病室に戻されるかもしれない。
「………」
夢を見た。
内容ははっきりとは覚えていないが、知らない人達が沢山出てきた事だけはボンヤリと覚えている。夢は記憶を整理している過程の1つで起こるものだと、いつだか聞いた気がする。たぶん記憶を無くす前に聞いた話だ。こんなくだらない事は覚えているのに、大切な事は何も思い出せない。
「うっ…」
だからといって思い出そうとすればこれだ。毎度頭に鋭い痛みが走る。そういえば目覚めて直ぐに、主治医の先生から、無理に思い出そうとすると精神が耐えられず崩壊する恐れがあるからやらないように、とキツく注意を受けていたんだっけ…。だけど、早く記憶を取り戻したいという気持ちは強まるばかり。
黒尾君と昼食を食べたあの日以降も、知り合いや友達と名乗る人が会いに来てくれた。そして、誰一人として分からない私の様子を見て、みんな決まって悲しそうな顔をする。そんな顔を見るたび思い出す事を諦めてはいけないと思った。
でも、思い出そうとすれば割れそうなくらい頭が痛くなる。…思い出そうと努めることすらできない。
「………」
ボヤけていく景色に、目に溜まったものを拭う。だけど、拭っても拭っても視界はボヤけたまま。記憶を無くして悲しいから泣いてる訳じゃない。自分のこの苦しみを理解してくれる人がいないこの孤独な状況が、しんどくて、辛くてたまらない。
「おやおや…こんな時間にどうしたのかい」
「…先生」
ロビーの椅子に腰掛けて俯いていたら、声を掛けられた。慌てて顔を上げたら、そこには教授の先生が立っていた。先生とは回診の時の1度しか会っていなかったが、優しそうな先生という印象で強く頭に残っていた。
「眠れなくて…」
「そうかい。そうだろうね。自分が誰かも分からない。頼れる人間もいない。そんな状態だと気持ちが休まる時もなかろう」
先生の優しい言葉に再び緩む涙腺。溢れそうになる涙をまた拭う。
「今は先の事も記憶喪失のことも考えずに、ただ自分の過ごしたいように過ごせばいい」
視線を斜め下に向けたまま、先生の話に頷いた。先生のその話に、早く記憶を取り戻さないと、という焦りの気持ちが薄れて少し楽になった。
「あぁ、それとね」
先生の何かを思い出したかのような声に、私は不思議に思いながらも顔を上げて先生を見る。目が合うと先生は顔をくしゃっとさせて笑った。
「一人でも話しやすい人を見つけるといい。看護師でも、見舞いに来てくれた人でも、誰でもいい」
話すと気持ちが晴れるからね、と先生は言い残して廊下の奥への消えていった。…話しやすい人、か。
私は今まで会いに来てくれた人や看護師さん達の顔を思い浮かべながら、病室に真っ直ぐ戻った。
*
教授の先生と話してから数日。お見舞いに来てくれた人達と話をしたが、先生の言った話しやすい人≠ヘ見つけられぬまま、入院生活は過ぎていく。
やっぱりそう簡単には見つからないよね、と落ち込んでいた夕方。
「よぉ、元気にしてたか?」
「!…黒尾君」
病室に顔を出したのは、これまでも何度かお見舞いに来てくれていたクラスメイトの黒尾君だった。今日の彼は、何故か病室に入ってこようとせず、ドアの前に立ったままだ。
「今日は俺の知り合いも連れてきた」
「知り合い、ですか…」
「あぁ。こいつもお前と面識あったからさ。取り敢えず」
そう説明する黒尾君の横から遠慮がちに顔を出したのは金髪の少し小柄な男子だった。だいぶ染めてないのか、根本の方から数センチくらい黒色の髪が出ている。
「ねぇ、取り敢えずって何」
「俺ほど面識あったわけじゃないから取り敢えず」
「意味分かんない。使い方おかしいし」
金髪の人は顔を不愉快そうな表情を作って黒尾君にツッコミ(?)を入れる。友達…?なのかな。
「あ、ここに椅子があるので…」
入口に立たせておくわけにもいかず、2人を自分の方へ呼んで、来客用に用意されていた椅子に座って貰った。ちょうど同室の3人もいないし、その間なら病室で話してても大丈夫だよね。
…と、思ったのまでは良かったんだけど…
「………」
「………」
「………」
向かい合って座る私達の間には、いつまで経っても会話が起こりそうにない。
「………」
「………」
「…お前ら口無いの?」
痺れを切らしたのか、黙り込む私達に黒尾君は呆れて言った。が、その後また訪れる沈黙。たぶん黒尾君は、金髪の人と私の2人に話をしてもらいたいのだろうけど、話をしようにも彼が黒尾君の知り合いって事しか知らないから話題が浮かばない。
それに、金髪という派手な髪色に未だに圧倒されつつある。助けを求めようと黒尾君の方を見ると、彼はそんな私の視線をスルリとかわして立ち上がった。
「喉乾いたからコンビニで飲み物買ってくるわ」
「飲み物ならそこに自販機が…」
「俺が飲みたいやつ、そこの自販機には置いてないんだよねー」
「ちょっと、クロ」
引き留めようとする私達の努力も虚しく、黒尾君は病室を出て行ってしまった。
再び訪れた沈黙の時間。先ほど以上に気まずさを感じて、何か話題がないかと懸命に頭を働かせる。
「…大丈夫?」
「…え?」
突然破られた沈黙に少し驚いた。そして、聞かれた質問の意味がよく分からず、彼の方を見る。何に対しての大丈夫?なのだろう。もしかして、沈黙を破る為の話題探しに焦っている事を見抜かれた?そんなに私、落ち着きなかった?
色々と良からぬ思考を巡らせていたら、体調…という呟きが聞こえた。そ、そうだよね。今、聞かれる事があるとすれば、それしかないよね。少し考え込み過ぎてたみたいだ。
「えっと、はい。体調の方は…」
「そっか」
「記憶はまだ戻らないんですけどね」
そもそも戻るのかも分かりません、と苦笑しながら言うと、窓の方を見た。
記憶の無い私は、周りの人からすると意識が戻ってないも同然だと思う。その証拠にこんなにピンピンしてる私を見て、みんな悲しそうな顔をする。みんなが会いに来ているのは記憶を無くす前の私だ。今の記憶の無い私ではない。
せっかく先生が元気づけてくれたというのに…私の頭の中はこんな事ばかり。
「…記憶が戻らない私に居場所は無いんです」
言った後にハッとなり、ごめんなさいと謝った。こんな事言っても迷惑になるだけなのに。
「今の忘れて下さ、」
「そんなこと、ないと思う」
「え?」
失言してしまった自分に情けなさを感じて、自己嫌悪に陥りそうになった矢先、彼は私に意外な返答した。今の私はきっとこれでもかって位に目が丸くなっているに違いない。
「おれは…記憶が無くても、なまえの意識が戻っただけでも嬉しかったし…。たぶん皆もそう。だから、」
今の自分を否定しなくていいと思う、と続いた言葉に、一気に溢れてきた涙が頬を伝って服に落ちていた。それを見て、初めて自分は泣いているのだと知る。
記憶の無い私≠ェ生きる意味があるのか。ひょっとしたら記憶喪失になる前の私≠フまま、ずっと眠っていた方が良かったのかもしれない。
意識が戻ってから記憶喪失になる前の私≠フ知り合いに会う度に思っていた。
「ごめん…泣かせるつもりじゃ…」
「いえ、大丈夫です。悲しくて泣いている訳ではないので」
申し訳なさそうにする彼に、私はほんの少しだけど明るく返事をした。同情からの言葉からかもしれない、お世辞なのかもしれない。でも、彼の言葉に私は確かに救われた。…さっきまで胸につっかえていた物が、スッと取れたような気がした。
「え、悲しくないのになんで泣くの?」
私の泣いてる理由が分からないのか、不思議に見てくる彼が可笑しくて思わず笑ってしまった。私の笑い声に彼はムッと口を尖らせる。
「そうやって泣き笑いするところ…前と変わってない」
「はははっ」
眉間にしわを寄せる彼の前で、私は声をあげて笑った。
(記憶を失くしてから、初めて心の底から笑った)
2018.10.17
Crape myrtle
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