Crape myrtle | ナノ

失くした記憶

『エピソード記憶…の喪失ですか…』
『はい。物の名前や歩行などの身体的感覚の記憶が残っているのに、自身の名前や周りの人の顔、それにこれまでの出来事の記憶だけが欠落しているあたり恐らく…』


昨日から続く検査がまた1つ終わり、軽く息を吐きながら近くの椅子に腰掛ける。
付き添いの看護師さんが来るまでの間、私は主治医の先生と私の母であるという女の人の昨日の会話を思い返す。私は1週間程前に事故に遭い、昨日まで眠っていたらしい。しかしながら、事故に遭った記憶なんて全く無かった。読み書きも普通に出来るし、日常生活には何ら支障は無い。そもそも何かを忘れているという感覚がない。そんな自分に恐ろしさを感じる。

「遅くなってごめんね。さぁ、部屋に戻ろうか」

考え込んでいたせいで、看護師さんに声を掛けられて初めて、彼女の存在に気付いた。はい、と返事をしてから腰を上げる。その際、看護師さんは優しく私の肩を支えてくれた。

「すみません。道が分からなくなってしまって…」

病室に戻ろうと歩き出してさほど時間が経たない内に、隣を歩く看護師さんにお婆ちゃんがそう話し掛ける。着ている服から、ここ患者なのが分かった。お婆ちゃんは一生懸命に看護師さんから話を聞いているが、大学病院という事もあり、あまりの広さに道がなかなか頭に入ってこないようだ。

「あの、私は一人で大丈夫ですので…」

私も昨日の今日で、到底病室までの道のりが分かっている訳ではないが、所々ある案内表示を見ればどうにかなるだろう。それに今回は血液検査だったから投薬が必要な検査とは違い、体への負担は少ない。ただ歩くだけなら一人でも問題ないように思う。

心配する看護師さんをよそに、大丈夫とハッキリ言い切ってから、病室に向かうのに再び歩みを進める。

「本当に広いな…」

院内の広さにうんざりしつつも、自身の病室のある階まで何とか戻って来れた。病室まで後少しという所で、ふと窓から入る光に眩しさを感じ、目を細めながらそちらを見る。空には雲一つ無く、青空だけが広がっていた。

「なまえ」

窓からボーッと空を見ていたら、少し離れた所から誰かが私の名前を呼んだ。まだあまり自分の中で定着していないその名前に反応が遅れる。数秒して呼ばれた方を見れば、名前を呼んだ人はもう目の前まで来ていた。
あぁ、この人は私が目を覚ました時に居た人だ。そう思いながらも体が強張る。自分の事すら全く分からずに不安な今、周りの人は恐怖でしかない。記憶を失くす前の私もこんな臆病な人間だったのだろうか。

「こんな所で何やってんだ?」
「…外を見ていただけです」
「ふーん。つーか、そんなに警戒しなくてもいいんじゃん?地味に傷つくんだけど」

特別距離が近かったわけではないが、少しずつ後退してそれとなく距離を取っていれば、すぐにその事に気づかれた。傷つくと言いながらも、とても傷ついているようには見えない。現に今も困惑している私を見てケラケラと笑っている。
一体この人はどういう人なのだろう…?第一、知らない人に警戒するなという方が無理な話だ。

「…同じクラスの人、ですか?私と」

目が覚めた昨日は、検査やら何やらでまともに話ができていなかった。だから彼の事を何も知らない。
友達?彼氏?…いや、彼氏はないか。見た感じ平凡な私にこんなかっこいい彼氏がいるはずがない。自分の元の性格が分からないから何とも言えないが、かっこいいとは思うけど苦手なタイプでもあるような気がする。と、なると友達という線も怪しくなってくるが。

「あ?あぁ…まぁそうだな」

彼は変わらず笑いながら答えた。その返事を疑っているわけではないが、自分よりもかなり背の高い彼を見上げながら、本当に同級生なのかと感じる。

「それよりさ、お前昼飯食った?」
「?…いえ、まだですけど…」

唐突に話題を変えられ、質問の真意が分からないまま答えれば、食堂に食いに行かね?と彼は下を指差す。そういえば1階に食堂があると看護師さんが言ってた気がする。

「でももう11時半ですし…私の分は病院食が用意されて、」
「すみませーん。こいつの今日の昼食キャンセルでお願いしまーす」
「え!?」
「ふふふ、分かったわ。病室と名前を教えてもらってもいいかな?」

腕時計を見ながら話をしている最中に、彼は近くを通りかかった看護師さんを捕まえて満面の笑みを作って言った。止めようとするも看護師さんは私達を見て何故か微笑んだ後、私に病室番号と名前を聞いてくる。なんで看護師さん笑ったんだろう…

「6186室の……え、と…」
「みょうじです」
「!」

自分の苗字がパッと出て来ず、言葉に詰まっていたら、彼が代わりに看護師さんに伝えてくれた。そんな彼に、ありがとうございますと軽く会釈する。名前の方は辛うじて覚えているが、気を抜くと苗字のようにまた忘れてしまうかもしれない。しばらくの間は常に自分の名前の分かる物を携帯しておくようにしよう。

「よし、じゃあ行くか」
「え!?ちょ…」

看護師さんと分かれると、私は半ば強引に食堂に連れて行かれた。







「人多いなー」
「もうお昼ですし」

あれから食堂に来た私達は各々の頼んだご飯を食べていた。気を遣ってくれたのか、席は向かい合わせの形になったテーブル席ではなく、窓側のカウンター席。見える景色は病院の中庭という限られた空間だけど、今の私にとっては人と向かい合わせで食べるよりも全然リラックスできる。

「…あの、何か?」
「お前さ、トマト嫌いなの?」

サラダに入っていたプチトマトだけを残し、味噌汁を飲んでいたら、ふと視線を感じて彼を見る。すると、サラダの入っていた食器を無言で見ている彼が目に入り、質問すれば逆に質問で返された。

「はい。味も食感も全てが苦手で…」

今朝の朝食で出たプチトマトの感触を思い出し、それを掻き消すかのように水を飲んだ。

「…そっか」

そんな私に、さっきのようなイタズラな笑みとは違い、フッと柔らかい笑みを浮かべて彼はそう一言だけ言った。何かを懐かしむようなその顔に、記憶を無くす前の私はどんな人物だったのだろう、とまた思う。

「お会計、962円になります」
「じゃあ1000円からで」
「!私も半分、」
「いいって」

そう言い切られ、バッグから財布を出そうとしている手を止めた。相手は私を知っているとはいえ、私からしたらほぼ初対面の人にお金を出してもらっているようなものだ。申し訳なく思うも、既に会計は終わっていた。食堂に行く前にわざわざ財布を取りに病室に戻った意味を自身に問いながら、彼のあとを追って食堂を出た。

「すみません。お金出してもらっちゃって」
「気にすんな。…つーかさ、その敬、」
「なまえ!あんた大丈夫なの!?」
「?」

彼の声を遮るように別の声が被せられた。声の主を見たが、また知らない顔。意識が戻ってからお見舞いに来たという知り合いや友達とも一致しないその顔に私は軽く会釈する。

「そんじゃあ、俺は帰るとするか」
「!」

駆け寄ってくる女の人を見ると、彼は気を回してか、この場を立ち去ろうと私に背を向ける。私は慌てて彼を呼び止めた。今さらだけど彼の名前を私は知らない。

「名前は…」
「あぁ、そういやまだだったな。黒尾鉄朗」

彼は、覚えとけよ?、と茶化した風に言い残して病院を出て行った。だけど、彼が私を茶化す前に見せた一瞬の表情を、私は見逃さなかった。

「もう出歩いて平気なの!?あ、私はあんたのいとこで…」
「………」

私と自分の関係を説明してくれているいとこだと名乗る女の人には申し訳ないが、話が右から左に次々と流れていく。

一瞬見せた彼の悲しそうな表情に、私は何故だか胸が締め付けられていた。



(だけどその意味なんて到底想像が付かなくて)


2018.10.08
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