Crape myrtle | ナノ

変わり始めた空間

朝日の眩しさに目を細めながら、入院患者の唯一の共有スペースである談話室に向かう。談話室にはテーブルやパソコン、自動販売機、それになんと言っても、個室にあるテレビの何倍もの大きさのテレビがある。それに加え、外の景色が一望できる程の大きなガラス張りの窓があり、患者の間では居心地が良いと好評の場所だった。

「おはよう、なまえちゃん」
「おはようございます」

談話室に向かう途中、同室の人にバッタリ出会した。彼女は売店に雑誌を買いに少し前に病室を出ていた。

「今日も体調が良さそうね」

私が頷くと彼女も満足気に頷き、病室に戻っていく。
目が覚めて以来、体調の方は悪い日は殆ど無かった。しかしながら、気持ちが塞ぎ込んでいた為に、1人の時は病室を全く出なかった。その上、いつもカーテンを閉め切って閉じ篭っていたから、同室の人には体調が優れていないものだと思われていたらしい。

「良かった。空いてる」

談話室に着くと、大きなガラス張りの窓に向かい合うように設置された席に座る。このカウンター席は、私と同じように景色を眺めながら読書をしたり、食事を取りたい人に人気で、人の多い昼間はほぼ空いていない。しかしながら、今は朝の早い時間なのもあって、談話室自体にあまり人がおらず、席はガラ空き状態だった。
私は持って来た本を一旦テーブルに置くと、窓から見える景色を眺める。12階という高さも手伝い、遠くの方には海らしきものが見えた。ひょっとしてあれは、東京湾だったりするのかな。

「お待たせ!体調はどう?」

私が談話室に来てから約2時間。お見舞い客が出入り可能となる10時を過ぎた頃に、待ち合わせていた人物に声を掛けられた。私は読んでいた本を閉じると、彼女とともに4人掛けのテーブルに移動する。
彼女…白石さんはよくお見舞いに来てくれる人の一人だ。分かっているのは、白石さんは私のクラスメイトで親友だったということだけ。まだ事故からさほど日が経っていないことから、過度な情報の刺激により脳の混乱するのを防ぐ為、記憶喪失を起こす前の話は控えるようにと担当医の先生に言われているらしい。

「なまえさ、最近よく笑うようになったよね」

話し始めて暫くして、いきなり何の前触れもなく彼女は柔らかい笑みを浮かべて言った。そうかな?と返せば、最初に会った時なんかニコリともしてくれなかったのに、と頬を膨らまされる。そのことに関しては身に覚えがあった。まだ自分というものが受け入れられずに、周りとも距離を置こうとしていた頃のことだ。だけど今、それが変わりつつある。


『今の自分を否定しなくてもいいと思う』


孤爪君と話して以降、私は病室の外にも出るようになった。人と話すようになった。少しずつではあるけれど、あの日、孤爪君が私に言ってくれたその言葉が、私を確実に前向きにさせてくれていた。







「なまえ。今日はあなたに渡したい物があるの」

白石さんと別れた後、昼食を取りに病室に戻ったら両親が来ていた。話を切り出した母の手には携帯会社の名前が入った紙袋。彼女はその中から箱を取り出し、私に渡した。

「これ…」
「新しい携帯よ。先生が何もデータが入っていない携帯なら持たせても良いって言って下さったから。思い切って新しいのを買って来たの」

前のはもう古かったし、と母が言えば、父もうんうんと頷いていた。箱に入っていた携帯は直ぐに使えるよう、既に画面シールやカバーが付けられた状態だった。
記憶喪失前に使っていた携帯の行方を聞けば、家の引き出しになおしてあるという。処分されてなくてホッとした。
前の携帯には写真やメール履歴などの情報が残っているはずだ。まだ先生には止められているが、記憶を無くす前の自分がどんな人達と関わり、どんな生活を送っていたのか、やっぱり知りたかった。

「父さんと母さん、それに陸斗の連絡先は入れてあるからな。何かあったらいつでも連絡するんだぞ」
「はい。ありがとうござ…あ、ありがと、う」
「無理に敬語を外さなくていいのよ」

焦らなくていいからね、と母は優しく笑った。未だによそよそしさの抜けない自分を優しく見守ってくれる両親に感謝した。
記憶喪失直後に比べ、少しは周りと関わりを持つようになったとはいえ、まだ日は浅い。年が近い人とはだいぶ気軽に話せるようになってきたが、年上の人とはまだ気軽に接するのは難しい。

「携帯だけどね、まだ私達の連絡先しか入っていないから、連絡を取りたい人にはちゃんと連絡先を聞くのよ?いい?」

はい、と返事をすれば、母はまた微笑んだ。連絡を取りたい人…。そう聞いて一番最初に頭に浮かんだのは、まだ一度しか会ったことのない、孤爪君の顔だった。




2019.12.31
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