暗いです。
色欲
かたん、と、何かが落ちるような音が聞こえた。
場違いなその音にベットデスクに置いた携帯が落ちたのかとちらと視線を動かす。薄暗い照明に照らされる黒い携帯電話の位置は変わらない。気のせいかと彼女の腰を掴む手に力を入れたとき、かたんかたんと今度は連続して何かが音をたてた。軽いそれはものが落ちたのではなく擦れる音だった。ブロックのようにいくつもの立方体となった彼女がかたんかたん、人の形を崩していく。かたんかたん、かたんかたん。俺は少しも動けなかった。膝をつき、彼女の腰があった場所に手を固定させたまま、目の前の奇妙な光景に言葉を失った。一ヶ所に集まった彼女は混ざって小さくなっていく。目も鼻も口も耳も頭も喉も胸も胴も腰も手も胸も全て。かたん。数秒後には元の体積とは釣り合わない、手足を生やし底に人間の顔のようなものがついたパソコンが一台、先程まで俺と彼女が抱き合っていたベットの上に転がった。呆然とする俺の前でチカチカとデスクトップが点滅する。人間の顔が歪む。それはいつかテレビで見たことがある、生まれたばかりの赤ん坊の顔だ。俺は何故か体の震えが止まらなかった。ぶるぶると震える腕で体を抱きしめる。汗が滲む。呼吸ができない。なんだ、これは。彼女はどこへ。どうしてこんなことに。赤ん坊。泣いている、赤ん坊。…誰の?そんなの決まってる。
「…はっ、はは……あははは……!」
俺と彼女の赤ん坊だ。俺と彼女の愛の証だ。二人の子供。愛しの我が子。なんて可愛らしい!
震える手でそっと我が子に触れる。パソコンの点滅が激しくなる。ああそうか、わかるのか。父親が俺だと知っているのか。
「いい子いい子。初めまして、ベイビィちゃん」
角を撫でると点滅はますます激しくなる。目を開けていられない。俺は目を瞑って我が子を抱く。なめらかな表面はプラスチックではなく陶器のようだ。どくんどくんと鼓動が脈を打つのを感じる。あたたかい。この子は生きている。
全身を埋めるこの歓喜が狂っていることくらい知っている。彼女は死んだ。代わりに生まれたのがこの我が子。正しくは殺されたのかもしれない、俺に、あるいは自分たちの子供に。
彼女はまさに運命の人だったに違いない。孤児院出の俺をかわいそうな目で見なかった。いつだって笑って、俺のくだらない嫌がらせにも笑って、俺を一人にしないでいてくれた。好きになってくれた。好きになってもいいと言ってくれた。子供の頃からの夢を彼女となら叶えられると思った。彼女も俺の夢に大切なものを捧げてくれた。幸せだった。今日抱き合ってベットに倒れた瞬間、俺はいままでの人生で初めて神に感謝した。
いまその彼女はいない。けれどそれでも構わない。だって待ち望んでいた我が子が腕の中にいるのだから。夢は叶ったのだから。
「そう、夢……俺のたった一つの夢。子供の頃からずっとみてた夢」
俺は親に捨てられた。
ならば俺は子を愛そう。
たとえどんな子だとしても。
かわいそうな俺の代わりだとしても。
憤怒
「っ、ぁ、…そんな」
熱い。ナイフが刺さった場所から身を焼くような痛みが広がってくる。たまらず腕を伸ばして目の前の男の服を掴む。しかし虫でも払うかのように手を弾かれ、支えを失った体はそのままコンクリートへ落ちた。喉へ血が逆流してくる。痛みは熱に変わり脳の働きを完全に奪った。この男に殺されるのだという事実だけが認識されている。
「最後に、言いたいことはあるか。聞いてやろう」
男が何を言っているのかわからない。霞んだ視界の中、もう一本のナイフを振り上げる腕が見えた。ああ私は死ぬのか。せめて男の顔を覚えておきたいと必死に目を凝らす。赤い目が闇の中で爛々と光っている。赤い赤い、血の色をした、瞳。
「……ごめん…」
男をそんな目にしたのは私だ。あの日私が奪った命がそうさせたのだ。故意であろうと罪の意識があろうと関係ない。愛は悲しみへ、悲しみは憎悪へ。行き着く先はどこだろうか。血を流すほど深い感情に囚われてしまった男はこれからどこに向かっていくのだろう。願わくは、あの子のように赤い目が映す世界を照らす人ができることを。
壊れてしまったものはもう二度と戻らない。
あの子も、私も、男も。もう。
傲慢
俺は祖父に育てられた。
父は母が俺を身籠ったときに事故で死んだという。
母は夢を追いかけ小さな俺を祖父に預けたという。
周りの人間は母をロクデナシだと非難した。
祖父はいつも悲しそうな顔をしてそれを聞いていた。
俺は母を愛していた。
母に相応しい息子でありたいと思った。
迎えにきてくれたときがっかりさせてはいけない。
母の夢以上の輝きをもった子供になろう。
小さな俺の確固たる決意だった。
あるいはこれを夢と呼ぶのかもしれない。
そしてある日、祖父が教えてくれた母の夢。
テレビの中でスポットライトを浴び微笑む母。
美しかった。
とても綺麗な人だった。
自分の容姿が一気に不安になった。
母よりも醜い俺をはたして抱きしめてくれるだろうか。
実際に母に会ったのはそれから数年後だった。
俺は母を抱きしめた。
白い絹のような肌がみるみる枯れていく。
俺と同じ金の髪が抜け落ちていく。
目の前に転がった老婆を俺は愛した。
俺よりも醜い母がいとおしい。
それは歪んだ愛情の芽生えだったのだ。
だがそれを悪と誰が言える。
今日も俺は、人を愛す。
???
「やぁ憐れなオフィーリア。ダンスパーティーは終了かい?」
子供のような調子の声。見なくてもわかった。見えなくてもわかった。彼だ。数分前までわたしの悩みを聞いてくれた、陽気で少し変わった男。
「ふふ、そんな怖い顔しないでよ。恨むなら君のお父さんを恨むんだね。パッショーネの申し出を断って連合なんか組むからこうなるんだ。悪くない条件だったのにね?」
組織の事情なんて知らない。わたしはただ普通に生きたかった。わたしが愛した人と争いのない街で子供といっしょに暮らしたい。そんな、普通の人なら簡単に叶えられる、遠い遠い夢。
ねぇ、あなたは馬鹿にしなかったじゃない?
「ぼくも久々に能力使って疲れちゃった。はやく帰って寝たいなぁ。ね、ソルベ」
彼のそばに誰かがいた。既に腕だけでなく聴覚を除く全てを破壊されたわたしにはその誰かがわからなかった。なんとか首を動かして声のするほうに顔を向ける。たったそれだけで脳がかき混ぜられたようだった。
「ああこれ?ぼくのソルベさ。それ以外の関係なんてない。よく誤解されるんだ、できてるのかって。みんな考えが浅はかだよね。オフィーリア、君もそう思うだろう?…あ、そっか、いましゃべれないのか。残念だなぁ。目も見れないんしゃあ顔も見れないね」
一体わたしに何をしたの?そう言おうと口を開くがヒューという空気の音しか出てこない。わたしはオフィーリア。運命に翻弄され海に身を投げ出したかわいそうな女の子。彼が初めてそう喩えたのだけど、最期に見ることも話すこともできないなんて、本当に水の中で死ぬみたい。
そうわたしはオフィーリア。本当の名前は、彼に奪われた。