▼ あの日の忘れ物 ∵
すると小太郎は、一瞬興味ありげに目を見開いたが、不思議そうに首を傾げた。
「名前がないの?」
「あ、あぁ……いや、あるはずなんだ、あったんだ。だけど……」
思い出せなくて……。
「お兄ちゃん、名前を忘れてきたんだ」
俺が頭を抱えていると、小太郎は、またにこっと笑ってそう言った。
俺はとりあえず頷き、手のひらを返したりと、無意味な行動を取ってみる。
本当に小太郎の言う通りだ。自転車の鍵のように、当たり前のどこかに置き忘れてきたような、そんな感覚。
頭がモヤモヤとして、はっきりとしない。何か、思い出せそうで、思い出せない……。いや、知っているはずなんだ。知っているはずなのに、喉の奥で何かが詰まり、自分自身へ教えることができない。
それより、
「ここはどこだ?」
俺は電車に揺らされながら、軽く腰を上げて後ろを振り返った。
小太郎との会話の中で、確かに俺は今の状況に気づいていた。いつの間にか乗り込んでいたのは、古びた木製の車内。覚えのある揺れ方より、かなり不安定に大きく揺れている。
車体が跳ね揺れるたびに、どこかが軋み、通りの床には穴さえ開いていた。
座っている座席には、懐かしい青色の布が敷いてあるものの、硬く、座り心地がいいとは思えない。
「電車だよ」
俺の問いかけに、小太郎はあっけらかんと答えた。
「それはわかってる。そうじゃなくて、何で俺は電車なんかに乗っているんだ?」
死んだはずなのに。
「お兄ちゃんも死んだんでしょ」
戸惑いを隠せない俺に、小太郎はまたも当然のことのように返した。
奥の座席で、親子連れがのんきにトランプなんか始めている。しかしその返答に、俺はすぐに振り返った。
「……お前も?」
「そう、ぼくも」
「なん……なんだって!?」
俺は素っ頓狂な声をあげ、思わず飛び上がった。
冷や汗が頬を伝う。もう一度電車の中を見回すと、うるさいな、と顔を顰める人々。
俺も同じように顔を顰め、小太郎に目を戻した。
「ここはどこだ?」
俺はもう一度、引きつった声で問いかける。
俺の問いかけに、小太郎は肩をすくめて見せた。
「わかんない。だけど、みんな死んでるよ」
小太郎がそう言って、俺の服を掴んで引っ張る。
「座ろうよ。迷惑になっちゃう」
俺はもう一度車内を見回し、現実となんら変わりない風景に唖然としつつも、再び硬い座席に腰を下ろした。
prev / next