072 ――今でもよく覚えている。
あいつは、キヨハルは、本当に不思議な奴だった。
温厚というか、間抜けというか……。なんだか、近くに居ると、ほっとするようで、呆れるぐらいお人好しで、見ているほうが心配になるほど、底抜けにいい奴だった。
手を伸ばす者が居ればその手を取り、自分のものを簡単に与える。いつも、何時も笑顔を絶やさず、誰もを平等に扱った。
あいつは、毎日のように夢を語った。あいつの夢は、「この世で神になること」だった。
俺は、さも嬉しそうにそれを語るキヨハルを、毎日呆れ顔で見ていたよ。
だけど、あいつを見ていると、不思議とどんなことでも出来そうな気がする。あいつなら、そんな夢、
ひょいと叶えてしまいそうな気さえしたんだ。
俺たちは、いつしかそんなキヨハルのもとへ集まり、大勢でキヨハルを慕った。
時が経つにつれ、仲間は知らぬうちに膨大な数に膨れ上がり、もはや地下世界でひとつの国を作っているようなものだった。
俺が「人に好かれるのもいいが、程ほどにしろ」なんて、バカげたセリフを吐いたくらいだ。
もちろん、キヨハルは人に好かれよう、なんて気はちっともなかった。俺に言わせれば、キヨハルが通るだけで、磁石みたいに誰もがくっついてきやがるんだ。
どんなに人が増えても、どんなに助けを求められようとも、あいつはいつものようにただへらへらと笑って、「嬉しいことだよ」と答えるだけだった。
そんなキヨハルを慕って、どんどん集まってくる仲間たちを、公司たちはついに潰しにかかった。
俺たちに非はなかった、と言えば嘘になる。俺たちの中に、公司長よりキヨハルがこの世のトップに立つべきだと主張する奴らが居たことも、事実だった。
公司は俺たちが少しでも反抗する仕草を見せると、片っ端から捕まえて、罰を与えた。
最初のうちはもちろんそれが恐ろしかったが、一週間に一度は公司が何人も見張りに来てやがったから、すぐにそれにも慣れてしまった。
やがてキヨハルは皆を集め、「反抗しなければ公司たちも手を出せない。僕らはただ精一杯生きよう」と、そう言った。公司に復讐を誓った荒っぽい奴らも、キヨハルの鶴の一声には確かに頷いていた。
キヨハルは公司館との和解を求めたが、それは絶対に叶わない願いだった。
やがてキヨハルは、地下世界の地下に俺たちの住むべき場所を創りあげた。
公司の来ない、平和な自分たちだけの世界。俺たちはそれで満足だった。
家を作り、街を作り、そして世界を作っていく。公司の邪魔にもならない。それで、よかったはずなんだ。
しかし、さすがに地下の地下だけでの生活はできなかった。時折上へ出ては、買い物や用事を足すこともしなければならない。
公司たちはそこに目をつけた。何の反抗もしていない俺たちを、理由もなく潰しにかかったんだ。
ストレスのはけ口としてか、出る可能性のある杭は打て、などという上からの命令か……。
いつしかそれが公司内で広まり、俺たちは、定期的に襲われるようになった。
まあ、並以上の能力者の公司も、キヨハルにとっては子供を相手にするようなものだ。
たとえ何人束になってかかっても、キヨハルの相手ではなかった。
そんなキヨハルの強大な力を思い知った公司たちは、ついに対策を立てたらしい。
俺たちは、そのことをまったく知らなかったんだ。
そしてついに、その日が来た。
久々にキヨハルを交えた数人で買い物に出たその日、いつものように、最初は少数の公司の若手が、俺たちを襲ってきた。
いつもと変わらない未熟な公司の攻撃。いつもより易々と退治できる程度の数に、俺たちは甘く見てしまい、その時は気づきもしなかった。
少し脅してやると、怯んだ声をあげ、若い公司はすぐに逃げていく。俺たち全員で対処するのが、バカげていると思わされた。
そして、俺たちの中で最高の能力を持つキヨハルが、今回は自分が辺りを守るから、安心して買い物をして来い、と言い出したんだ。
俺たちはそれに従った。キヨハルをその場に一人残し、極大な数の買い物を大急ぎで済ませることにした。
しかしそれが、間違いだった。
俺たちが大荷物を抱えて最後の店を出る頃、突然世界が揺れ動いたような爆発音と振動が轟いた。
嫌な予感がし、俺たちはすぐさまキヨハルのもとへ帰った。
予感は当たっていた。キヨハルが一人で居るのをいいことに、公司たちはありったけの数であいつに襲い掛かっていやがったんだ。
俺たちは荷物を捨て、すぐに応戦に加わった。しかし仲間を総動員しているのではと思うほどの数の公司に、さすがに手こずり、そう簡単にキヨハルの姿を確認することはできなかった。
俺の側にはキヨハルの恋人、フランが居た。あいつは女ながら昔から野蛮な奴で、買ったばかりの花瓶やらカトラリーやらで、手当たり次第に公司を殴りつけていたのを覚えている。
俺はそれより、キヨハルのほうが気になって仕方がなかった。その時まで、あんな不安をあいつに感じたことがなかった。
あいつは万能だ。神になると自ら宣言するほど、あいつの力は強大なんだ。
だが嫌な予感が消えなかった。キヨハルの姿が見えないだけで、その不安は一気に膨張していく。
なかなか手強かった筋肉質の公司をノックアウトした頃、フランが最後の一人に割れた花瓶を叩きつけた。
あれほどの人ごみがなくなり、何人か立っている俺たちの仲間がぽつりぽつりと見える。
俺はすぐにキヨハルを探した。あいつは居た。いつもと同じように微笑みを浮かべて、しかしさすがに疲れた様子で、腕を組んで壁に寄りかかっている。
生きていた。俺たちがそんなキヨハルに歩み寄ろうとした、その瞬間だった。
突然、強烈な耳鳴りがした。
頭が割れるかと思うほどの音に皆身を屈め、何人かは気を失った。
俺の目の前では、キヨハルがその音にも笑顔を崩さず、それでも瞳は真っ直ぐ前を見据えていた。
一瞬だった。
俺の目の前を、アイツが通り過ぎて行った。
たった一瞬、人の形を感じただけ。それほどの、早さだった。
しかし、確かに俺は見ていた。
あの、半身半獣の、化け物を。
アイツが、キヨハルの頭を片手で押さえ、持ち上げた。
キヨハルの体は、何の抵抗をするでもなく、ただ大人しく、化け物の腕にぶら下がっていた。
俺は、すぐに駆け寄ろうとした。だが、意識の戻った厳つい公司に、足を押さえつけられてしまっていた。
俺は叫び、足を振りほどこうと抵抗した。
しかし、公司はしつこく俺の足を引っ張り、ついに俺は、そいつと同じように地面に突っ伏した。
筋肉だらけの腕が、俺の首を絞めつける。
俺は心底自分の勘を恨んだ。恐れていたことが起きてしまった。
俺の予感は嫌なものであれば嫌なものであるほど、当たる確率が高い。
息の根を止めようとする公司に抵抗し、もがく俺の目の前で、それは起こった。
――突然意識の中に、真っ赤な眼が現れた。威嚇に燃えるような両眼。圧倒的な力に押しつけられ、自分がちっぽけなネズミになったような感覚が、俺を襲った。
ただ目を見開いて震えることしか出来ないなんて、あの時が初めてだった。
もの凄い威圧感に、俺は潰されそうになりながら、必死にキヨハルと化け物を見つめた。
しかし、長くは目を開けていられなかった。
真っ赤な眼が、俺を睨む。公司の腕力よりも、もっと強いものに喉を圧迫されているようで、呼吸さえできなかった。
意識がかすむ。キヨハルと化け物の姿が薄れ、俺は、目を閉じた。
俺は、死ぬのだろうか。このまま、心臓を握り潰されるように。
キヨハルは、今にも反撃するんだろう。いつだってそうだった。最悪のピンチにならないと、自分の本領を発揮しない。きっとまた、自分だけカッコよく、こいつらを倒すんだ。
ちくしょう、こんな奴らに、負けてたまるか。キヨハルなんかに、手柄は渡さねえ。
赤い眼の恐怖と、いかつい公司に首を絞められながらも、俺は歯を食いしばってまぶたを上げた。
きっと今頃、キヨハルが逆にあの化け物を締め上げている頃だろう。
若い公司たちのように、情けない悲鳴をあげながら、化け物は公司館に戻っていくんだ。
しかし、俺のまぶたの裏に映された光景は、現実とはまるで違っていた。
それは、まるでスローモーションを見ているようだった。
あのキヨハルから、笑みが消えたのは、初めてだった。
紫黒色の目を大きく開き、瞳孔の開いたその瞳で、あいつはただ化け物だけを見つめていた。
暗い、路地裏の影へ、ゆっくり、ゆっくりと、キヨハルは倒れていった。
灰色のほこりが、舞い上がる。
「――やったぞ!」
足元に倒れていた若い公司の一人が、擦れた声をあげた。
俺は動かなかった。その光景を目に焼きつけたまま、動けなかった。
俺を掴む公司の腕が、同時に俺を始末しようと目いっぱい力を込める。
ほとんど見えなくなった瞳が、世界をさらに霞ませた。
ついに――目の前が、真っ暗になった。
「うわあぁぁああ!!!!!」
気づいたら、俺は飛び出していた。
俺を締めていた公司の腕を解き、そいつの頭を掴む。
鈍い音がして、何かがはじけ飛んだ。生ぬるい液体が俺の腕を這って落ちた。
叫び声と罵声が辺りに響いた。
公司たちは叫び、逃げ出す者の気配や、飛びかかってくる者の気配がする。
その後、どうやって自分が動いていたのか、どうしても思い出せない。
ただ何も考えられなくて、その場のものをすべて、消してしまいたかった。
たった一人の友人を、初めての、親友を、
心を許せる、唯一の人を、俺は……――
――気づいたら、俺の周りには誰も居なくなっていた。
俺は、息を切らしていた。呼吸する音が低く響き、体にはまったく水分がない感じがした。
自分がカラカラの干物のように感じた。
数百人も居た敵は、誰一人、居なくなっていた。
跳びかかってきた奴らは、その後怖じ気づいて逃げるような奴らじゃない。俺が、消したんだ。
俺の見えなくなった瞳は、傍から見ればどんなふうに見えているだろう。
それでも俺はなぜか、目が見えている時よりも、ずっと鮮明に世界を感じているような気がした。
俺は歩きながら、いや、歩いている感覚はなかった。這っているのか、走っているのか、わからなかったが、とにかく、進んでいた。
辺りがシンと静まり返る中――キヨハルの、遺体に向かって。
側に膝を下ろすと、ひんやりとした空気が、路地から流れ出て来た。
俺には、キヨハルがまったく見えなかった。
さっきまで見ていた路地裏は、はっきりと感じられる。
しかし、その光景の中に、キヨハルは居なかった。
だが、確かにキヨハルはここに居た。からっぽの体が、転がっていた。
俺は、大きく震える手を、キヨハルに伸ばした。
指先が、肌を触る感覚を俺に伝える。
俺の視界には、キヨハルが居なかった。しかし、俺は今、あいつを触っている。
冷たくなった、キヨハルの頬を。
信じられなかった。あのキヨハルの顔から、笑顔が消えた。
力なく笑い、かっこつけるようになびかせていたあの黒髪が、冷たくなった顔にまばらにかかっている。
あいつら、やりやがった。本当に、やりやがったんだ。
俺が消してやった。安心しろ、キヨハル。
だから、なあ。ふざけんなよ。
お前、この世界を変えるんだって言ってたじゃねぇかよ。
お前が自信満々にそう言うから、俺は、ついてきてやったんだ。
なぁ、起きろよ。いつまで寝てんだよ。
いつものように笑えよ。ムカつくぐらい、幸せそうに。
お前、
お前が……
神様になるんじゃなかったのかよ……――!
俺が、一番恐れていた
一番、信頼していた
一番、勝てないと思っていた
キヨハルは
いとも簡単に
死んだ。
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