068 公司館から出た後、公司が追ってこないことを確認して、ぼくはマルシェさんに話しかけた。
マルシェさんは唸り声をあげ、痛そうに頭と鼻を擦って、なんとか目を開ける。
明らかにぼくに対する文句が滲んでいるが、思ったより元気そうだ。ぼくは小さく安堵のため息を零した。
でも、まだ安心はできない。ぼくらはまだ公司館のすぐ近くに居るんだ。
「どこに行けばいいんですか」
ぼくは公司館のほうを警戒しながら、マルシェさんに問いかける。
「進め。指示は……俺が出す」
マルシェさんは途切れ途切れにそう言って、ぐったりとぼくの肩に寄りかかった。
ぼくは黙って頷き、足を進める。
固い床を踏みしめるぼくの足音が、コツ、コツとしっかり響いている。
それはまるで、ぼくの心臓の代わりみたいに……。
「アランさん!」
引きつって、半分悲鳴のような、聞きなれた女性の声が響いた。
テイルの必死の声に、ぼくは最後に振り返る。
呼ばれた名前が“ゼルダ”ではなく“アラン”だということに、ぼくは驚いた。
テイルが、いつもばっちりセットしている黄緑色の髪をぼろぼろにして、公司館の大扉から飛び出してきていた。
かんざしはかろうじて髪につかまっているものの、もうすぐ落ちてしまいそうだし、高く結んだ髪なんかは、もうすっかり落ちてしまっていた。
駆け寄ってくるのかと思ったら、やっぱり公司館から出る一歩手前で止まり、大きな扉の影で、ぼくを睨んでいる。
いや、睨んでいたんじゃない。
いつもおっとりしていたテイルの瞳が、ぼくに必死で何かを訴えかけているのに、ぼくはすぐに気づいた。
ぎゅっと噛んだ震える唇は、その必死さを表している。
ぼくが思うには、帰って来なさい! と言っているように、見えるんだけれど……。
それならばと、ぼくは眉を寄せ、マルシェさんを担ぎなおし、また進み出そうとした。
もう公司館には戻らない。ぼくにテイルのお説教を聞く必要はない。
「アランさん……!」
その時、テイルの口から出る声でない声が、ぼくの頭に直接響いてきた。
あまりの念の強さに、ぼくは一瞬クラッとする。
前にも、こんな声は聞いたことがある。ヴォルトと市場の大通りで大喧嘩した時に、ぼくたちを呼び戻した、マーシアの声と同じだ。
テレパシー、Teleparhy、精神遠隔感応。視覚、聴覚に頼らない、能力者独特の意思伝達能力。
呼んでもいないのにずらりと現れた文字列を引っ込め、ぼくはテイルに向けて顔を顰める。
「なんだよ、またお父様に叱られるって言うのかい?」
ぼくは、あえてテイルと同じように、唇を動かさず声でない声で返した。
テイルが少し眉を寄せたから、ちゃんと伝わったらしい。
「いいえ」
テイルは首を横に振った。
意外な答えに、ぼくはまた驚かされた。絶対、そうです、もちろんです、なんて言われると思っていたから。
ぼくは首を傾げる。
「あなたがその道を選んだのなら、わたくしは止めませんわ。でも、行ってしまえば、わたくしたちは敵同士になるのですよ」
テイルの声じゃない声が、またぼくをくらくらさせる。
あまりの念の強さに、負けそうだ。
「そうさ。わかっている」
ぼくは片手で頭をさすり、テイルから目を離さないで、答えた。
その答えに、テイルははっと息を呑み、宝石の色をした目を見開いた。
一瞬、まるで泣き出しそうな感じに見えたが、テイルが目を閉じたので、詳しくは確認できなかった。
「でも……」
言いかけたその時、突然テイルがその場に突っ伏した。
ぼくは思わず駆け寄りそうになったが、一歩出した足を引っ込める。
シオンの銀髪が、目に入ったからだ。
シオンがテイルに重力をかけたんだろう。
テイルは地面に倒れ、小さく縮こまり、その重さに耐えている。
辛そうに地面を引っかくその細い指に、ぼくは、苦しくなった。
シオンの冷たい青の瞳が、静かに、感情もなく、ぼくを睨んでいる。
シオンとテイルが、何かを話し合っている。
おそらく、テイルがぼくと話すのをやめたら、開放してやる、とかの取引だろう。
ぼくはなんだか不安になってきた。ぼくのせいで、テイルまで罰を受けなければいけないのかな……。
でも、ぼくはもう、戻れない。
テイルが、小さく頷いた。
シオンが同じように頷いた瞬間、テイルの体が浮くように元に戻った。
シオンはぼくをもう一度睨み、大扉に向かって、閉まるように指示をした。追ってくる様子はない。
扉が閉まることに気づいたテイルは、最後にまた、ぼくを振り返った。
大きく見開かれたミントグリーンの瞳は、また必死にぼくに何かを伝えようとしていた。
「それでも、わたくしは……!」
テイルの最後の言葉を吸い込んで、扉が音をたてて閉まった。
その瞬間、ぼくは思わず身を震わせ、青ざめた。
最後にテイルが約束を破り、ぼくに話しかけたことじゃない。
扉が閉まる瞬間、ぼくはある音を聞いた。
蹄のついた足が歩くような、カツン、カツン、という音と、重たい何かを引きずる音。
そして、一瞬閉まる扉の隙間から、爬虫類の尾のような、長いものが見えたからだ。
あれは、間違いなく……。
ぼくはゾッとするような思い出を振り払い、公司館へ背を向けた。
ぼくはもう、ここへは戻って来ないんだ。
テイルやマーシア、シオンに、そしてティーマとも別れる。
ぼくたちは離れた。これからは、ぼくらは敵同士となる。
ぼくの弱っちいデータに、そう言い聞かせた。
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