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 急いで地下三階まで駆け下りる途中も、運良く公司に出会うことはなかった。
 ぼくは早速、前のように腕を氷塊で固めてマルシェさんの牢を壊し、マルシェさんの手や足につながれていた重たそうな鎖も切った。
 さすがに、手首や足首に嵌められている頑丈そうな鉄の輪は、鍵がないと取れないけれど。マルシェさんは満足そうに自由になった手足を動かし、もう慣れているからいい、と言ってくれた。
 外に出れば金属を切る機械もあるだろうし、そうすればマルシェさんの腕を傷つけずにすむ。
 マルシェさんは軽く肩を回しながら、ふと天井を見上げた。
「それにしても、お前平気なのか? ここまでやって気づかないとは……公司は何やってんだか」
「はい、今は大丈夫です。公司は最近忙しそうなんですよ。ほとんどは外に出ているから、地下三階までわざわざ見回りに来る人も居ないし、お父様も自室から出てこない。普段もそうなんですけどね。どうやら、ここ数年じっとしていた反公司勢力が動き出したようで、あちこちでテロが起こっているって」
 ぼくがそう言うと、マルシェさんは突然声をあげて笑いだした。
「あぁ、そりゃあ、心当たりがある」
 マルシェさんはそう言って、悪戯っぽくにやりとする。
「しぶといな。奴ら、まだやる気なのか」
 顔を顰めてそう唸っていたら、明らかに悪口なんだけれど、今のマルシェさんの表情は、なんだかいきいきとしていた。
 マルシェさんのこんな表情、初めて見た。出会った頃は青白く、ガリガリで、半分がいこつのような人だったのに、今では表情も明るく、なんだか前より頼もしい。
「知っているんですか?」
「あぁ、よーく知っている」
 マルシェさんは意味ありげにそう言っただけで、あとは教えてはくれなかった。

 そしてぼくらは、ついに危険極まりない計画を実行することになる。


 今、ぼくの目の前には、麻酔ですっかり眠っているマルシェさんが横たわっている。
 局所麻酔じゃないと横になってやらない、なんて最後までギャアギャア騒いでいたけれど、それを騙して全身麻酔をかけるなんて、ぼくにも悪知恵がついたのかな。
 だって、自分の体が切り開かれるところなんて、誰も見たくないじゃないか。
 まぁ、ぼくらは、腕が取れたり、頭が取れたり、体が開かれたりするのは、いつものことだけれど。
 ちゃんとした設備はないけれど、薄い水の膜をドーム型にしてぼくらを覆い、できる限りの消毒はした。
 あとは、今、ぼくにできることの、精一杯をするだけ……――。
 ぼくは用意の終わった周辺をもう一度確認して、深く、長い呼吸をした。
 そして、頭の中が唸ると共に、ぼくの目の前が赤く染まっていく。
 周りの音が何もかも聞こえなくなった。元々牢獄内は静かな場所だけれど、いつの間にか入り込んできた虫が這う音や、遠くでかすかに聞こえる足音さえも、聞こえなくなった。
 ぼくはピクリとも動かず、マルシェさんの体内を透視する。
 ヒトの体の構造ぐらいなら、最初からぼくの中にデータが入っていた。
 ただ、今日取り込もうとしていた医療データは途中までしか覚えてないし、それにぼくに度胸がないのも問題だ。
 しかし、そんなことで迷っている場合ではない。今は一刻も早くマルシェさんを脱獄させて、ぼくも外の世界へ出るんだ。
 そして、この人が世界を変えてくれることを――ヒーローになってくれることを、願う。
 マルシェさんの体内を見回しながら、徐々に透視の力を強めていった。
 心臓がある場所は胸の真ん中、ほんの少し左寄り……本当に心臓が二つある。
 生きている証を刻み続ける心臓は、胸のちょうど真ん中から、右と左に一つずつ分かれていた。
 本当に二つもあるなんて……実は、内心ずっと嘘だとも思っていたから、本当に驚いた。
 確かに、心臓が二つある人間は存在するとデータには入っているけれど、こうして実物を見ることになるなんて……。
 いや、今は、そんなことに衝撃を受けている場合ではない。
 ぼくはぎゅっと目をつむって、再び開き、もう一度最後の深呼吸をした。
 ぼくらは呼吸する必要はないけれど、気分を落ち着かせる方法として、ヒトと同じようにこれは有効だ。
 それから後は、ぼくの弱虫な意思とは関係なく、勝手に動いてくれる便利な腕に、すべてを任せるだけ。

 何時間経っただろうか。
 いや、まだほんの数分しか経っていないのかもしれない。だけど、妙に一分、一秒が長く感じる。
 ぼくの両手は、ぼくが自分で驚くほどスムーズに動き、ぼくはただマルシェさんの体を拡大透視して、じっと見つめては頭にデータを送り、それを元に動く肘から先を感心しながら眺めていた。
 こういう時こそ、ぼくは“造られたもの”なのだと実感する。
 だからこそ、マルシェさんの体を少しでも傷つけないよう、素早く、正確に動かすには、“ぼくの意思”ではなく、“ぼくの体”に任せるほうが、よっぽど安心なのだ。

 ぼくの目の前が通常の色に戻る頃には、ぼくの目の前には縫合や消毒、その他後処理の終わったマルシェさんと、その横の銀の皿に入ったマルシェさんの心臓がひとつ、確かにあった。
 マルシェさんの体に異常がないことを念入りに確認して、ぼくはほっと胸を撫で下ろし、マルシェさんに柔らかい毛布をかけた。
 マルシェさんは小さくだが、確かに呼吸をして、薬のせいか、前よりも楽そうに眠っている。
 ぼくはふと、マルシェさんの心臓を見つめる。
 そして、思わず自分の左胸に手のひらを当て、ほんの少しの期待を、手のひらに集中させた。
 しかし、心臓の音など、するはずもない。
 ぼくは、ロボットなのだから。

『お前にはないよ』

 一瞬、ゼルダの声でそう聞こえた気がした。
 ……わかっていても、ほんの少しの望みぐらい、持っていたっていいじゃないか。
「わかっているよ」
 ぼくは眉を顰めて頭の中のゼルダに呟き、マルシェさんの心臓をそっと手にとった。
 まだ暖かく、“生きるもの”のぬくもりを感じる。
 そしてもう一度、マルシェさんに目を移す。
「いってきます」
 ぼくは力強くそう言い、足を踏み出した。



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