044 マルシェさんの言葉に、ぼくはただ、唖然としてマルシェさんの黒い瞳を見つめた。
「……え?」
やっと出した言葉は、また裏返っていた。
マルシェさんが、黒く光る目を、ニヤリと細める。
「俺はな、ちょっと普通と違うんだ。わかるか?」
突然の言葉に、ぼくはぽかんと口を半開きにしたまま、首を横に振る。
気の抜けた顔のぼくに、マルシェさんは突然、自分の左胸をこぶしで叩いてみせた。
「俺の心臓は、ふたつある」
その言葉に、ぼくはまた唖然とさせられた。
なんだって? 心臓が、ふたつ?
「人間の……心臓は、ひとつだ」
ぼくは無駄に口をぱくぱくさせ、もっともな正論を言った。いや、違う。多分正論。
そんなぼくを見て、マルシェさんはさらに笑い声をあげた。
「あぁ、そうさ。だから俺は、普通じゃないんだ」
確かに、ちょっと変わった人だけれど。
ぼくはどこかでそう思いながらも、ありえないと首を横に振る。
仮に本当の話だとして、その二つの心臓と、脱獄が、何の関係がある? まだわけがわからない。
「いいか、お前が俺の心臓を抉り出せ。ひとつだからな。そして、それをふんぞり返ってるお前らのボスに見せてやれ。あいつは死んだと。あいつは、確かな証拠がないと何事も認めないと聞いた」
マルシェさんはすらすらと自分の提案を告げながら、自分の心臓のある場所を何度も親指で突く。
ぼくの必要なデータを全てひとつに集めたつもりだったが、まだ本体のほうにかなりのデータを置いてきたらしい。
人間は、すごい。この小さな頭から、どこからこんな考えが浮かぶんだ?
ぼくは眉間にしわを寄せ、必死に頭の整理をする。
仮に、マルシェさんの心臓が本当に二つあったとしても……――
「で、でも、理由がない。理由もなしに、ぼくらだって人を殺したりはできない……」
「あぁ、そんなもん、なんでもいい。お前に襲いかかったとか、脱獄しようとしたとか、公司を殺そうとしたとか。なんでもいい」
「で、でも、心臓を取ったりしたら、血が体中に流れ出て」
「俺が一瞬で穴を封じて出血を止める。大丈夫だ」
マルシェさんは自信たっぷりにそう言った後、「やったことはないがな」と苦笑いして付け加えた。
今までのマルシェさんの考えを聞いているうちに、頭の中のグラフでは、ぼくの無鉄砲な作戦の成功確率がグンとのびていた。
あれほど危険な賭けはないと思っていたのに――もっと恐ろしい賭けを持ちだすなんて!
「そ、そんな、できるわけない!」
ぼくはきっぱりと言い、思わず立ち上がった。
「じゃあ、他にいい案はあるか?」
マルシェさんがぼくをじろりと睨み上げる。ぼくは反論できず、不機嫌なティーマのようにぐっと顔を顰めた。
だって、そんなこと危険すぎるじゃないか。今まで二つの心臓で機能してきた体だ。ひとつを抜いたら、全ての働きが停止してしまうなんてこともあるかもしれない。
ましてや出血を自分で止めるだなんて、もしマルシェさんが気を失ったらどうなってしまうんだ? ぼくがお父様に会いに行っているうちに、マルシェさんは冷たい牢の床で血まみれになって、本当に命を失うことになる。
ぼくはグロテスクな想像を頭の中から削除して、またマルシェさんをじっと睨み返した。
「だめです。そんな危ないこと、できないよ」
ぼくの言葉に、マルシェさんはふん、と顔をそらし、
「じゃあ好きにしろ」
と素っ気なく言って、牢屋の奥に帰ってしまった。
「好きにします」
ぼくもフンと鼻を鳴らし、地下三階を出た。
まったく、マルシェさんはまるで子供だ。態度と図体ばかりでかくて、まるで現実が見えていない。
あぁ、認めるよ。ぼくも図体ばかりでかくて、中身は空っぽさ。
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