012 低い声に、ぼくは驚いて振り返った。
ついさっき、最後にカップに水を入れた、一番奥の牢獄から聞こえてきたようだ。
もしもぼくが人間なら、頬に汗が伝って、心臓がばくばくいうところだろう。それぐらい、ぼくはその時、たった一言の声に圧倒されていた。
ぼくは恐る恐る指先を持ち上げ、そっと突き当りの牢の中を照らした。
牢の中には、人がいた。重たそうな鎖を手足に繋がれ、ぼろをまとった男性がひとり、横になっている。
その人もかなり痩せていて、枷から腕や足が抜けてしまいそうなくらいだ。黒い髪は伸ばし放題で、青白い顔をまばらに覆っている。
痛々しい姿に、ぼくは眉を寄せ、その場にそっとひざまずいた。
「だ……大丈夫ですか……?」
ぼくは、小声で話しかける。
すると、繋がれた鎖を鳴らしながら、男性は這って近づいてきた。
不気味な光景に、ぼくは思わず体を引く。
男性は鎖につながれた両手を、乱暴に鉄格子の隙間に引っ掛け、ぼくの顔を覗き込んできた。
ぼくは動けないまま、男性の顔を見つめた。ギラギラと光る黒い瞳が、さっきの人の数倍、こわい。
しばらくぼくをじっと見つめた後、男性はゆっくりと乾いた唇を開いた。
「大丈夫に……見えるか」
男性は擦れた声で話しながら、いかにも悪者がやるように、低くクックッと笑う。
ぼくは黙ったまま、首を振った。
「苦しそうだ……」
「あぁ、正解だ。俺は……かなり、苦しい」
男性は時々咳を交え、か細い声で唸るように答える。
男性が息をついている間に、ぼくは男性をよく観察してみた。鎖で繋がれているという事は、この人はよほどの重罪人なのだろう。しかし、鎖は錘につながっているわけではなく、途中で途切れている。
ふと顔を上げると、牢の奥にその鎖の片割れであろう鎖のかけらが、引きちぎられて壁からぶらんと下がっていた。
そうか、この人、最初は壁にはりつけにされていたんだ。そう思うと、この男性がとても危険な人物に思えてきた。
確かに彼は、本当に人間なのかと疑うほど、ぞっとするような雰囲気を持った人だ。がりがりに痩せ細った体から出るオーラはもちろん、とくにじっとこちらを見つめてくる目は、まるでこの世の闇をかき集めて、ぎゅっと凝縮させたもののように感じる。
渦巻く暗黒が、お前の何もかもを知っているぞと、訴えかけるようなプレッシャーを与えてくる。時々枯れたのどのせいで出る咳と、それを自ら嘲笑うようなかすれた声が、その人はただのか弱い人間なのだとぼくに教えてくれていた。
「水を……入れておきました。よかったら……飲んでください……」
ぼくは思わず声を震わせ、牢のすみのマグカップを指さした。
こうして話している間も、どんどんぼくを圧迫する力が増しているような気がする。彼の黒い目がぼくを見つめるたびに、今すぐに立ち上がったほうがいいと、体中がきしんで警告をあげていた。たぶん、機械だらけの体は正しい。なるべく早く逃げたほうがいい。
男性はマグカップのあるほうを振り返り、「あぁ」と頷く。ぼくが水を入れた時、気づいていなかったようなそぶりだ。
「何ヶ月ぶりの水だ……うれしいねぇ」
男性はまたクックッと笑い、マグカップを口へ運ぶ。
「あんた、誰だ」
マグカップから水を飲みながら、男性がぼくに問いかけてきた。
「ぼ……ぼくは、アラン」
ぼくは空になったカップに水を注ぎながら、どもり気味に答える。
すると男性は軽く鼻を鳴らし、また水を飲み干した。
その後何度も水をおかわりし、やっと腹が落ち着くと、男性は長い髪をかきあげて、ぼくに顔を見せてくれた。
痩せて若干老けて見えるが、予想よりずっと若い人だった。石のような黒い瞳が、またぼくをじっと見つめる。
「俺はマルシェだ。マルシェ=マコルフィー」
長い髪を後ろに放るようにかき上げるなり、男性はなんのためらいもなくぼくに名乗ってきた。
突然名を告げられたので、ぼくは少し驚いた。
「なんだ?」
「あ、い、いいえ」
突然の出来事の連続で、ぼくは臆病になりすぎていたのかもしれない。この人は、なんだかいろいろ話してくれそうだ。
そこでぼくは、さっきから出てきていたいくつかの疑問を、この人に問いかけてみることにした。
「マコルフィーさん、あの……」
「マルシェでいい」
「マルシェさん、あの……ここでは、食事は出されないのですか?」
ぼくは、恐る恐るきいた。なんだか、答えを聞くのが怖い。
「あぁ、そうだ」
マルシェさんはニヤリと笑い、予想通りの返事を返した。
やっぱり……。ぼくの腹の辺りに、ずっしりと錘を落とされたような気がした。
「これまで、俺には一度も出されたことはないな」
マルシェさんは低く笑いながら、怯えるぼくをからかうような仕草で、ちょいちょいと指を動かしてみせる。
そのやせ細った指がぼくを呼んでいることに気づくと、ぼくはためらいがちに身を乗り出した。
「お前の顔は、どこだ?」
潤った声でそう言いながら、マルシェさんの手はぼくを探して宙をさまよう。
あれ? その仕草に、ぼくはぴんときた。この人、もしかしたら……。
「ここです」
ぼくはマルシェさんの手を取り、自分の頬に触らせた。
「あぁ……そうか。いい顔をしているな」
マルシェさんはそう言いながら、枝のような指をぎこちなく動かし、ぼくの顔を触る。
鼻や唇の凹凸を確認したり、顔の大きさを確認したりしている。がさがさの指が目に当たったので目をつむると、ためらうことなくまぶたの上を通過した。
「久々に触ったぜ、人肌、なんて……」
マルシェさんは、邪悪そうに笑うのをうっかり忘れたみたいに優しく微笑むと、そっとぼくから手を離した。
そして力なく格子に寄りかかり、黒曜石のような目で、じっとぼくを見つめている。
その視線は、ぼくを見つめているというよりも、ぼくと彼の間の空間を見つめていると言ったほうが、正しいかもしれない。
少しの沈黙の後、ぼくは、ゆっくりと口を開いた。
「あなたは……目が……」
ぼくの呟いた言葉に、マルシェさんが顔を上げた。
黒曜石が、きらりと光る。
「あぁ……そうさ。まったく見えねぇ」
マルシェさんはそう答え、ニヤリと口元を歪ませた。
「見えなくなってから、大分経った……暗闇なんて、とうに慣れっこさ。だから、こんな暗くて寂しい牢獄に入れたって、俺はそう簡単に狂ったりはしねぇぜ」
「ぼ……ぼくは……そんなつもりは……」
ぼくは慌てて首を横に振り、とうとう顔をうつむかせた。
マルシェさんの微弱な息づかいが、覗き込んでくるような気がする。
「し……知らなかったんです……こんなところが……こんな人たちが……ここに……居たなんて……」
冷たい暗闇に、ぼくの声が、弱々しく響く。
「こんなところが……あったなんて……」
喉が苦しい。ぼくは、まぶたを閉じた。
ぼくらが日常を過ごしている下に、こんな世界があったなんて。
ぼくは、今まで何を見てきたのだろう。今思えば、ぼくはお父様の命令を忠実に守ろうとするあまり、お父様の見せたいと言ったものだけを、見てきただけのような気がする。
ヴォルトに地下三階へ行けと言われなければ、ぼくは、ここの存在も、この人の存在さえも、知らなかったんだ。
ぼくは、本当に何もわかっちゃいなかった――。
「お前は、何者だ? 公司じゃないだろうな。あいつらは俺たちのことなんか、道端でちょっと蹴飛ばした小石みたいに、とうに忘れていやがる」
マルシェさんが鎖を揺らし、ぼくに問いかけてきた。
その質問に、ぼくははっと顔を上げる。
どうしよう。ここで、ぼくはGXだ、と告げるのはまずい。そんな気がする。
ましてや公司だなんてごまかし、言えっこない。この人は公司に捕まったんだ。公司を、お父様を恨んでいるはずだもの。
「……召使いです。公司館で、働いている」
ぼくは安易な考えを、とりあえず口に出しておく。
「そうか」
返答に納得してくれたのかどうかはわからないが、マルシェさんは小さく呟き、また柵にうな垂れた。
腕につながった鎖が柵に触れ、喧しくも冷たい、どこか寂しい音をたてる。
「あの、あなたは……なぜ、ここに居るのですか?」
ぼくは緊張に顔を強張らせながら、もうひとつ質問をした。
マルシェさんが顔を上げる。その表情は、びっくりしたでも、うんざりでもなく、明らかに嫌悪に顰められていた。
「公司を殺したんだ」
きっぱりと言われたその言葉に、ぼくは思わず息を呑んだ。
それを感じ取ったらしく、マルシェさんはぼくに顔を近づけ、ニヤリと邪悪そうな笑みを浮かべる。
「それも、一人じゃない。何人、何十人、何百人と、消し飛ばしてやった。憎くて、憎くて……仕方がない、権力の奴隷をな」
吐き捨てるようにそう言ったところで、マルシェさんは歯を食いしばり、こぶしを握りしめた。
その表情にもう笑みはない。ぼくを怯えさせるのを忘れるぐらい、憎しみが顔に浮かんでいた。
「な……なぜ……そんな……」
怒りが、吹雪のように、あるいは炎のように、肌をじりじりと傷つけるような感覚がする。
ぼくの質問に、マルシェさんの目つきが、変わった。
「友人を……殺されたんだ」
低い声が、重く響く。
ぼくははっと息をのみ、銅像のように固まった。
「俺の……親友を……キヨハルを……かえせ!!」
マルシェさんの叫びと共に、鎖が乱暴に跳ねて悲鳴をあげた。
牢に響く騒音に、ぼくは硬直したまま、目を見開いた。
体中が、震えている。
初めて言われた、憎しみの、言葉に。
「俺の友人をかえせ! なぜあいつを殺した!? あいつが何をしたっていうんだ!!」
鎖が冷たい地面を打ちつける。
唇が震える。目は見開いたまま、閉じてくれない。
ぼくはただ恐怖という感覚に体中を縛られたまま、憎しみをぶつけるマルシェさんを見つめるしかできなかった。
「キヨハルを……俺の親友を……かえしてくれ……」
マルシェさんが苦しそうにあえぎながら、その場にうな垂れていく。
ぼくは、震える手を、ぎゅっと握った。
「……すまない……おまえのせいじゃ……ない……」
荒い息遣いの中で、小さな声が、聞こえる。
返す言葉が、みつからない。
やったのは、きっとぼくたちだ――なんて言ったら、どうなるかぐらい、ぼくにだってわかる。
だけど……だけど、それが、それがぼくの、罪なんだ。
ぼくは……どうしたら……。
結局ぼくは、返す言葉がどうしても見つからず、黙ったまま立ち上がることにした。
「行くのか」
その気配に気づき、マルシェさんが呟く。
「……はい……」
ぼくは頷き、小さく返事をした。
「そうか……ありがとよ」
最後に落ちたマルシェさんの言葉が、ぼくの体を揺さぶった。
その言葉は、ぼくにふさわしくない。
「許さない」
それがぼくへの、
一番、正しい気持ちだ。
ぼくは、初めて実感した罪の重さに、罪悪感というものに、包まれた。
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