第十八話 賢者の条件「ぎっくり腰は怖いのよ」
そういえば、いつか簡単な医療魔法を習う時、メイファはそんなことを言っていた。
ぎっくり腰、またの名を“魔女の一撃”。ロビンは面白い呼び名の症状を、てっきりメイファの冗談だと思っていたが、昨晩、思いがけずそれを目の当たりにした。
「笑うでない!」
孫娘によってきっちりと腰を縛られた賢者の姿に、くすくす笑いを止められないロビンは、早朝、早速怒鳴りつけられた。
笑いを堪えようとしても、頬がムズムズして変な顔になってしまうため、なおさらおかしくてロビンは両手で口を押さえつけている。
だって、昨日のおっかない印象と、今日のこの間抜けな差。無理やりきついコルセットを巻かれ、かなり不機嫌そうだ。まるで小人が切りかぶにはまっちゃったみたい。
息を詰めて顔を真っ赤にし、ようやくロビンの笑いの発作が治まった頃、賢者はやれやれと魔法書を開き始めた。
そのページをめくる様さえも今のロビンには耐え難く、ロビンはまたブーッと吹き出す。
「笑うでない! まったく、何も教えてやらんぞ」
「ごめんなさい。つ、続けてください」
ロビンは口を結び、さらには自分で手の甲をつねって意思を表す。
賢者はしわの寄った顔をさらにしかめたが、少し唸ってロビンに手を差し出した。
「杖を見せてみなさい」
「僕、杖は持っていないんです」
「持っていない?」
賢者が筆のような眉を持ち上げる。ロビンは頷いた。
「僕は杖を使わない魔法しか習っていないんだ。魔法陣とか、呪文とか」
「ほう、では星は何を使う?」
「六です。ヘキサグラム」
「ほう……これはまた、おまえさんが知っとるのは古風な魔法ばかりじゃのう。このわしが言うぐらい、古風じゃ」
ホジはそう言いながら、素早く魔法書のページをめくった。
いろいろな魔法使いの絵や魔法陣の描かれているページを覗き込みながら、ロビンは首を傾げる。
「最近の魔法使いは、みんな杖を持っているの?」
「いいや、最近ではない。もう百年と杖を持たぬ魔法使いは見んよ」
その答えに、ロビンは驚いた。昨日、メイファがすごい魔法使いだったっていうことにも驚いたけれど、だってメイファも杖を持っていなかったし。
本をめくる手は、大小様々な杖の絵の描かれたページで止まった。それぞれの杖の上には年号と思われる数字が書かれており、古いほうがより木の枝そのものに近い形をし、近年は節もなく真っ直ぐに加工されたものが多い。例外として、ホジが体を支えるのに兼用しているような丈の長い杖や、基礎の材質が木でないもの、指の先に爪のように装着して使うものなどがあった。
「今の世の中では、魔法使いは杖を持つことが当然なのじゃ。杖は持ち主の魔力の性質や使ってきた魔法を知っているのでな、旅をするときは特に、身分証明、通行証にもなる」
賢者はそう言いながら、机に立てかけていた自分の杖を一振りしてみせた。
山積みにしていた本が浮いてしまったため、おっといかん、と杖を置く。
「じゃあ……僕も、持っていなきゃダメなのかな」
「いや、むしろ今まで持たぬことが良かったのじゃろう。杖を使えば魔法円を描く文句を覚える必要はなくなるが、杖という補助なしでは魔力の質が安定しない。おまえさんの魔力はまだ若いが、まっすぐで迷いがない。雨上がりの澄み切った森のようじゃ。凛とした魔法を使うのじゃろう」
予想外に褒められて、ロビンは正直に頬を赤らめた。
「だが、まぁ……旅をするには、持っているに越したことはないわな。どれ」
ホジはめくっていた本を杖の並んだページで止め、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
何かを探しに行くような仕草に、ロビンはぱっと顔を輝かせる。
「僕に杖をくれるの!?」
大喜びのロビンの歓声に、家のどこかでエレンが「キャッ」と悲鳴をあげた。それと同時に何かが割れる音が続き、ロビンは思わず振り返る。
賢者は孫娘の嘆き声を聞きながら、魔法具のパンパンに詰まった棚に手を伸ばした。
「わしとて一賢者、人々の貢献には何も惜しまぬよ。だが、まぁ、条件はあるがの」
「条件?」
「おまえさんは、その歳でなかなか優秀な魔法使いと見た。わしはこの通り、あまり自由に動けん。じゃが、わしには欠かせぬ仕事があっての。ここに居る間だけでも、おまえさんにそれを頼みたいと思うのじゃが」
賢者はそう呟きながら、忌々しげにコルセットを叩いた。
優秀な魔法使い、なんて言われ、ロビンはいつかのミス・ロビンのようにくすぐったそうに舞い上がる。
しかしロビンが「うん」と言うかどうかは、その条件とやらを聞いてから。
*
――賢者から杖をもらう条件。それは、ロビンの予想以上のことだった。
「……怪物退治?」
賢者ホジの“条件”に、ロビンは椅子の上で顔をしかめた。
さよう、と賢者は頷く。
「おまえさんがダナと森で出会ったなら、少しはあの森の現状がわかるじゃろう。あそこは魔の森、怪物の住む森じゃ」
「はぁ……確かに、怪物注意って看板があったけど、でもかなり古くて」
「そうじゃ、あそこの森にはもう何十年と魔物が住んでおる」
ホジはそう言いながら、本の山から分厚い一冊引っ張り出し、再びページをめくり始めた。
今度は怪物の辞典のようだ。ところ狭しと並ぶたくさんの奇怪な絵を見つめながら、ロビンはそれとなく質問をしてみた。
「あのう……もしかして、ダナがウルフマンだっていうことと……何か関係が?」
昨日から気になっていたことだった。ロビンの問いに、賢者の手がふと止まった。
しかし、不安げなロビンの視線に気づいたのか、手は再び素早く動かされる。
「あぁ……あの子は、あの森でウェアウルフに噛まれたんじゃ。人狼に噛まれた者が、同じく人狼になることは知っておろうな? 今はわしの作り出した首輪で、何とか自我を保てているが……」
賢者はそう言いながら、辛そうに顔をしかめた。
やっぱり、あの首輪がダナの自由な変身を可能にしているんだ。この人があれを作ったんだ……すごいなぁ。
「それじゃあ、ダナは他のウェアウルフと違って、人を襲ったり食べたりしないんだよね?」
「あぁ、今は、じゃがな」
ホジは頷くと、ロビンのほうへ本を向けた。
押さえられた見開きのページには、仰々しい狼男の絵が描いてあった。
ロビンは本を受け取り、まじまじとその姿を見つめる。
獰猛そうな瞳、ピンと尖った耳に、唸り声の聞こえてきそうな鋭い牙の覗く口。
最大四メートルにも成長し、顎の力は岩を噛み砕くほど。爪は鋭く、鋼のように硬い――と、本には書いてある。
好物は血のしたたる生肉、と書いてある行に目を通し、ロビンは思わず身震いした。
「今はわしの魔法具で過度な変身を防いでおる。じゃが、わしが死ねばあの魔法も消える。それでなくともダナの中のウルフマンの血が増えれば、ダナの“人”は“狼”に喰われてしまう」
賢者の言葉に、ロビンははっと顔を上げた。
「それじゃあ、ダナは……!」
「いつかは、この村の人々を喰らう化け物になるかもしれん」
賢者はためらうことなく、きっぱりと言い切った。
しかしその表情には、孫を化け物にしたくはないんだ、という切々とした思いが滲み出ている。
「ダナは、自分の力を良いものを授かったのだと考えておる。人より力があり、人より少し頑丈。モンスターハンターだった両親に代わり、この村を魔の森の化け物から守ってみせると言っておる。しかし、何度も狼への変身を繰り返し、狼で居る時間が長いほど、その血は狼へと近づいていってしまう。ダナはもう、これ以上人狼になってはいかんのじゃ」
深刻そうな表情で語り続ける賢者の背後で、突然やかましい音が響いた。
木の幹に巻きつくようにして作られた階段を何かが転げてきたと思いきや、ドスン、と勢いのまま壁にぶち当たる。どうやら、ダナが二階から転げ落ちてきたらしい。
ひっくり返ったまま頭を抱えているのを見ると、相当二日酔いが響いているようだ。
間抜けな孫を横目に見つつ、賢者は苦笑いするロビンに向き直る。
「しかし、まぁ……内心は不安なんじゃろう。見てのとおり、あの子達には親が居ない。そして自分自身は、兄は、いつウルフマンという怪物になってしまうかもわからない。もしも人狼の血がダナの血を上回り、村の人々や、妹のエレンまで食い殺してしまったら――そう考えると、わしも怖くてたまらん」
再び深刻な話に戻り、ロビンはさっと背筋を伸ばした。
そして自分も、真剣な顔で声をひそめる。
「だから僕に、魔の森の化け物退治をしてほしいんですね。その……ダナの代わりに」
「あぁ、新米のお前さんには荷が重いのはわかっておる。しかし、お前さんが本当にあのエメラルドウィッチの弟子ならば、どうにかしてくれるのでは、と……」
賢者がため息混じりにそう言い、長い眉毛の下からちらっとロビンを伺った。
ロビンはのた打ち回るのをやめたダナを横目に見ながら、さりげなく片目を隠した眼帯をずらしてみた。
ここはどこだ、俺は誰だ。――ダナの混乱する意識の隅で、どうか、と賢者の呟きが聞こえる。……嘘じゃ、ない。
「……できないことは、ない」
ロビンの呟いた言葉に、ホジはにごった黄色の瞳を見開いた。
ロビンはニヤッと笑い、自信満々に立ち上がる。
「まかせて! 僕は世界一の魔女の弟子だ。きっとなんとかしてみせるよ!」
ドンと力強く胸を叩いたロビンに、賢者は祈るような表情で何度も頷いた。
本当に切羽詰っているんだ。確かに、ダナの変身はもうほぼ完璧なウェアウルフだったもの。
「それで、森にはウェアウルフの他にどんなモンスターが居るの?」
「あぁ、あそこには邪気に寄せられた魔物が多く住みついておる。最近ダナが見てきたものは、吸血チュパカブラ、巨犬、人食いこうもり、三角ユニコーン。それに、道の側にサンドワームの巣を見つけたらしい」
指折り次々と出てくる凶暴な怪物の名前に、ロビンはつい頬を痙攣させた。
だって、どれも出会ったときに口から血をたらしていてもおかしくない怪物ばかりだ。
引きつったロビンを見もせずに、賢者はとどめの一撃をくらわす。
「それに、双子国のガーゴイル像によく似た化け物が出るらしい。翼がある。空に引っ張り上げられんよう、気をつけるんじゃな」
「……はい」
賢者の話を聞き、ロビンは立てかけてあったオスカーを取ると、ふらふらと扉のほうへ向かった。
「どこへ行く? まだ何も教えておらんぞ」
「えーと……ちょっと、練習を」
ロビンはすっかり背を丸め、苦笑いして扉を開けた。
朝のリディアを、白っぽい太陽がさんさんと照らす。
ギイ、と軋む音を立てて扉が閉まる寸前、天井で休んでいたミス・ロビンが、隙間からヒョイと飛び出してきた。
ロビンは閉めた扉に寄りかかり、眼帯を上へずらす。
「よくまかせてなんて言えたわね、弱虫ロビン」
すっかり顔をくしゃくしゃにしたロビンに、ミス・ロビンは冷たく言った。
だって、とどうしようもない顔を向けるロビンを、ミス・ロビンはぴしゃんと叩く。
「……にんにく巻いて挑む?」
「私、臭いの嫌いよ」
ミス・ロビンはツンとそっぽを向き、屋根の日陰へ飛んでいった。
*
「おじいちゃん」
ロビンが扉の向こうで頭を抱えていた頃、割れた皿を片づけていたエレンが、神妙な面持ちで台所から現れた。
ホジは怪物辞典を適当にめくり、孫娘の声を無視する。
しかしエレンは強く眉をつり上げ、チリトリを机に叩きつけた。
「ロビンくんを森へ行かせるの?」
孫娘の強い声に、今度はホジも本をめくる手を止めた。
それでも返事をしない祖父に、エレンはきつくこぶしを握り締める。
「絶対に、そんなことさせないんだから」
半ば脅しつけるように、エレンが言葉を絞り出す。
ホジは答えることなく、窓越しに見えるロビンに目を移す。ちょうど悩むのをやめ、ほうきを片手に歩き出した時だった。
「――賭けるんじゃよ、あの若い魔法使いに」
ホジは意味深にそう言ったまま、黙って眉を寄せた。
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