第九話 目覚めの時「うん、行った行った」
巣立ったばかりの新米魔法使いが友人に別れを告げた頃、メイファ・エメラルドウィッチは魔の森の小さな空き地の上に居た。
小さな影が地図をたたんで動き出すのを見届け、日よけにしていた手を下ろす。
そして空中についていた両足をぽんと合わせると、滑るように眼下に見える切り株へ下降し始めた。
「まったく……まさか森の木を切り倒すなんてね。森の木々は結界の要だっていうのに……」
白髪をかきながら、弟子の残していった大問題にひとりごちる。
ロビンの作った切り株椅子にたどり着くと、メイファは飛び足魔法を解除し、やれやれと結界の虫食い穴を見下ろした。
昔から厄介事を起こすのが得意な子だったが、まさか最後の最後までこんな問題を残していくとは。
幾度となく通ったのだろう、苦労のあとがうかがえる不格好なその切り株が、大魔女の隠居生活の終わりを告げていた。
「どうりでオオカミも入ってくるわけだわ……」
そこここに施した結界の傷を修繕しながら、メイファは先ほど弟子と別れた銀狼の姿を思い出した。
ロビンから話を聞いた時、まさかとは思ったが、彼がこんな傍まできているとは思いもよらなかった。
青い宝石のような目が、きらりと風をきっていったあの日のことが脳裏をよぎる。
「いったい何のつもりかしら……」
「それはすまなかったな」
唐突に、小さな独白に獣の声が割り込んできた。
残った片目でこちらを見つめ、声の主がゆったりと森の中から歩み出てくる。
空き地に姿を現したのは、つい今しがた弟子と友情を結んだばかりの、年老いた銀狼だった。
メイファはやれやれと腕組みをし、じろりと銀狼をねめつける。
「いつから居たの? あなた」
さぁ、とでも言うように、銀狼は首を捻る。言葉の通じない相手だが、その表情はどことなく面白がっているようだった。
「まぁいいわ……とにかく、弟子に手を貸してくれてありがとう。あの子、ちゃんとお礼を言った?」
クライヴは返事の代わりに目を細め、長い尾を振ってメイファの側に腰を下ろした。
眼帯の巻きついていた首回りを、メイファの指がかりかりと撫でる。
気持ち良さそうに鳴くクライヴの鼻先がふいと来た方向を向き、次に残った片目でメイファを見上げた。
少しの沈黙の後、メイファはぽつりと答える。「……そうよ、あの子がそう。いつかあなたにも話したわね」
クライヴは応えるようにひとつ喉を鳴らし、少年が旅立った方角をじっと見つめた。
木々のざわめきだけが残る小さな空き地に、弟子と過ごした月日が走馬灯のように駆け巡る。
小さな手をむちゃくちゃに振り回し、わがままを言ったこともあった。最初に使えた魔法は光魔法で、指先に灯った光りをぱくりと食べてしまった時には、ずいぶん肝を冷やしたものだ。
ミス・ロビンを連れてきた時のこと。マレットを見つけて拾って来た時のこと。
笑ったこと、泣いたこと、怒ったこと――きらきらと光をたたえてメイファを見上げた黒と緑のまん丸の両眼がよみがえり、思わず、視界が歪む。
「……私は、弟子を取ったこともなければ、子供を育てたこともない。それでも……これは親馬鹿というのかもしれないけど、心の優しい、いい子に育ってくれたと思う。親としては、あの子がどこへいこうと、元気でさえいてくれれば、それでいい。でも、あの子の運命がそれを許さない。あの子が、それを乗り越えていく強さを身につけることができたのか、私は、きちんと与えることができたのか……」
言葉を噛んだメイファを、クライヴが見上げる。そして、慰めるように小さく唸ると、ゆっくりとひとつ頷いた。
残った青い瞳が、大丈夫だと言っているように見えた。
メイファは「ありがとう」と頷き、濡れた目じりを拭う。
「でもね、案外、大丈夫じゃないかと思うところもあるのよ。あの子、ああ見えて、やる時はくるくる頭のどこからかとてつもない勇気を引っ張り出してくるみたいだから」
銀狼はふっと目を細め、老いた腰を持ち上げて立ち上がった。
泥にまみれた姿に、メイファの脳裏に残る過去の姿が重なる。
湿った気分を振り払うようにして、メイファはパンッと両手を打った。
「さて、いたずら小僧のせいで、ここでじっと隠居を決め込むこともできなくなったわ。あなたはどうする?」
メイファが問いかけると、クライヴは首を振り、細く長い遠吠えをあげた。
すると、ざっざっと地面を蹴る音と共に、森の奥から三匹の若いオオカミが集まってきた。
日だまりの中にいる二人を見て、三匹はうろたえている。どうやらメイファの魔法がきいているのだろう。結界に突入してこようという気はないようだ。
尻尾を巻き、それでも従順にクライヴのほうを見つめる三匹を見て、あぁ、とメイファは目を細めた。
彼もまた、“親”なのだ。
クライヴがため息をつき、ゆっくりと歩き出した。
大きな銀狼の背から、メイファの手が離れる。その手にするりと尻尾が巻き付き、別れを告げた。
「ありがとう。あなたも元気で」
振り返ることなく三匹のもとへ戻っていく背中に、メイファはそっと声をかける。
メイファはオオカミの家族を見送り、ひとりになると、ようやく切り株椅子へ腰を下ろした。
ここに座って、あの子は一体何を考えていたのだろう。ふつふつとやってくる寂しさを、一言の呪文で紛らわせる。
そして、大魔女は姿を消した。
*
――静寂に満ちた部屋に、緑の閃光が走った。
ぴんと張りつめた空気がざわめきに呑まれ、途端にあちこちから震えた声があがる。
「目覚めた」
「放たれた!」
「やはりウルガーンか……」
「サー・バーミリオンに伝令を!」
急ぎペンを走らせる音、慌ただしく部屋を出る足音、様々な音に混じり、深いため息がひとつ零れる。
「……やはりエメラルドウィッチのしわざじゃったか。魔の森に目をつけていた者らに、詫びねばならんのう」
老人は椅子から立ち上がり、中央に位置する石板に手をつく。
複雑に亀裂の入った石板は、先ほどの閃光ほどの威力はなかったものの、今もまだ明るく輝いていた。
どこか夜明けを思わせる闇を帯びた光りが、老人の肩をぶるっと震わせる。
「紫の騎士団に収集をかけるのじゃ。――急ぎ世界樹の芽を、摘まねばならん」
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