ロゼ・ヴェラフィレア・パフューム ∵
「アナ! アナー! アナぁー!」
すっきりと晴れ渡った茶畑に、頭のてっぺんから飛び出る金切り声が響き渡る。
害虫駆除のために屈んでいたアナは、その声にやれやれと体を起こした。
なだらかな斜面になっている畑の横道を、タンポポ色をした大きな犬が一目散に駆けてくる。
嬉しそうに舌を垂らし、ちぎれんばかりに尻尾を振って。
「アナ! 助けてー! はやくはやく、アナー!」
アナは土に汚れた手袋を取り、ピュイッと指笛を鳴らした。
すると、犬ははっとしたように駆け足を止め、茶畑の手前で立ち止まる。
しかし、例の金切り声はちっともおさまらないまま、アナの足元までぴょんぴょんと跳ねてきた。
「みてみて! お仕事の依頼が来たよ! わたし、持ってきたの! お給料はずんで!」
足元で元気のいい声をあげているのは、クリーム色をした一通の手紙。
なめらかな筆記体で宛名が書いてあり、その中の「カメリア農園 アナ・S・カメ」までは読みとれる。
しかし、あとに続くはずの文字はピンク色の染みで潰されており、綿棒のような白くて小さな手が、封筒の後ろから汚れた手紙を支えていた。
アナはぴょこぴょこと動き回る封筒を拾い、同時に封筒を支えていた白くて小さな手を引っ張り上げる。
ぺりっと白い手と手紙を剥がすと、封筒の裏から、ちょうど封筒と同じ背丈の小さな女の子がぴょんと現れた。
「みてみてみてみて! ちゃんとお仕事したよ、わたし!」
「ヴェラ……そうね。でも、まずは手を洗ってからにして欲しかったな」
ため息混じりの言葉に、ヴェラと呼ばれた少女ははっと両手をあげた。
アナにつままれた右手はもちろん、左手も、指先から肘のあたりまでピンク色に染まっている。
バラの花をちぎる作業のあと、手も洗わずに手紙に飛びついてしまったのだ。
「あーっ!」と声をあげた小さな少女は、アナが掲げた汚れた手紙を見て、自分の両手と見比べて、さらに 「あーっ!」と悲鳴をあげた。
「ごめん、ごめんね! でも早くアナに教えなきゃって! ポストから引っ張り出したら、グレイスが追っかけてきちゃったんだもん!」
そう言って飛び上がったヴェラの背から、トンボに似た桜色の羽が飛び出してきた。
空中に飛び立つヴェラを見て、グレイスが茶畑の外でピクッと反応する。
「うん、だからね。ポストから出す前に、手を洗って欲しかったんだけど」
グレイスに「待て」と指示しながら、アナはエプロンの端で手紙についたピンク色を拭った。
封筒を裏返し、改めて手紙を確かめる。
差し出し人は、“アールグレイ”。住所が書いていないが、名前だけで十分承知の人物だ。
「あら、お得意さんだ」
「誰? 誰? だぁーれー? バラのお仕事? お茶のお仕事?」
ヴェラはひっきりなしに甲高い声をあげながら、アナの顔の周りをぐるぐる飛び回る。
アナは虫を叩き落としたい衝動にかられたが、それはあんまりだと、軽く手を振って追い払った。
「まだ封を開けてもいないのよ。前回はお茶の依頼だったけど……ま、まずはお茶にしましょ。きれいな手で読みたいわ」
その時、待機していたグレイスが、バウッ、と一声あげて駆け出した。
ああしまった、と思うが遅し。アナの振りを勘違いしたグレイスが、チカチカ飛び回るヴェラめがけて、一目散に飛びかかっていった。
* * *
カメリア茶園は、小規模ながら古くから多くの信頼を得る、地方の老舗茶園だ。
一般的な茶畑の十分の一ほどしかない土地で、少量ながら質の良い、美しい紅茶を生み出す。
アナ・カメリアは五代目にして、初の女性オーナーとして、一部の者には名の知れた存在だった。
茶畑は母家の裏手のなだらかな山地に並び、畑を背負うようにして道沿いに看板が立つ。
古ぼけた小さな店舗には、カウンターとたくさんの紅茶缶が並び、カメリア茶園のみならず、大手茶園のスタンダードから思いがけない貴重な品まで、様々な品種が充実していた。
アナは時折通いの従業員の力も借りつつ、自ら茶畑を管理し、工場で紅茶に加工し、ここで売っている。
亡くなった父から受け継いだ畑はささやかなものだったが、それ以上に今のアナの生活を支えているのは、彼女独自の才能だった。
アナ・カメリア個人への依頼。それは、カメリア茶園の紅茶のみならず、彼女のブレンダーとしての腕前を信頼し、要求に見合ったお茶を作って欲しいという依頼がほとんどだった。
「ヴェラー、ちゃんと百まで数えてあがるのよー」
「はーい! いーち、にーい、さぁーん……って、違うもーん!」
うららかな日ざしの射し込む母家のキッチン。
そこにはエプロンを身につけ、てきぱきと働くアナの靴音と、声の主の居ないキンキン声が響いていた。
窓辺には、大きさも素材もてんでバラバラの植木鉢が置いてあり、青々としたハーブ類が生い茂って、ちょっとした森を作り出している。
鉢と鉢との間に渡された棒きれには、あちこち繕った小さなハンカチがかけられており、その影から今、桜色の羽を持った少女がぴょんと飛び出してきた。
「もう、アナはすぐそうやってわたしを赤ちゃんみたいに扱うんだから! わたしだって生まれて一歳と三ヶ月よ。もう立派な大人なんですからね!」
ぷりぷりと怒りながらバスルームから出てきたヴェラは、洗った髪をガーゼでまとめ、アナに非難がましい視線を向けた。
それだって、私たちの基準では赤ん坊なんだけどねぇ。声にはしなかったものの、アナはため息ひとつにその言葉を込めてふっと吐き出す。
壁掛け時計をちらりと見て、次にオーブンへと目を移す。そして喚き続けるヴェラを無視して、ギンガムチェックのミトンを両手にはめた。
「ほぉーら、ちっちゃなヴェラちゃん。今日のお給料が焼き上がったわよー」
「うっ、わぁーい!!」
さっきまで憤怒していた姿はどこへやら。ヴェラは歓喜のあまり四枚の羽をばたつかせ、一目散にアナのもとへと駆け出した。
作業台の上をヴェラが走ると、薄紅色の粉がふわふわと後をついていく。
アナがオーブンから焼き上がったタルトを取り出す頃には、ヴェラはすっかり髪を振り乱し、取れてしまったガーゼをうずうずと握りしめていた。
コットンで作った簡素な肌着に、足元ははだし。
そして毛糸玉のように絡まりあった髪は、目のさめるようなルビー・ピンク。
この小さな妖精、ヴェラの何よりの楽しみは、アナの仕事を手伝った報酬としてもらえる、この午後のおやつの時間だった。
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