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「ちいさな箱庭の中で」 


――誰もいない。
静まり返った庭を眺め、厳かなその雰囲気を崩さぬよう、気を使って息を吐いた。
唇から一本の糸となって吐き出された吐息は、目の前で風に散らされ消えていく。
バルコニーを庭へ向かって進むと、月明かりにきらきらと光る噴水が目に入った。
大きな石の器から、金色の光が踊るように落ちていく。惹きつけられるように無意識に体をそちらへ傾けると、びゅうっ、と一層強い風が吹いた。
不意に、肩に羽織っていたブランケットが、意地悪な風に持ち去られる。
あっ、と思うが遅かった。伸ばした指をすり抜けたブランケットは、月明かりを遮りながら、鳥のように空を舞って自由な世界に羽ばたいていった。
――乗っていけばよかった。
手を戻しながら、ふと思う。おとぎ話の砂漠の姫君のように、あれに乗って見知らぬ世界へ羽ばたけたなら。
しかしブランケットは風に遊ばれ、もみくちゃになりながら地面へと着地する。庭の出口ははるか向こう。結局、あれに乗ってもこの庭からは出られないのだ。
今ならまだ間に合うかもしれない、と柵にかけていた手で、肌寒くなった肩をさする。
自分の肌の冷たさに、ぶるっ、と身震いした。体の芯に針金を刺されたような感覚で、ふと現実に呼び戻される。
あぁ、何を考えていたんだろう。どんなに痩せたって、ブランケットになど乗れはしないのに。
この柵を越えたところで、きっと翌日には冷たくなった私の体が、誰かの心に傷をつけることになる。
ばかばかしい。
早く帰ろう。こんなところに居ては風邪をひいてしまう。危うく、また誰かの手を手古摺らせるところだった。
身勝手な自分が急に腹立たしく思えてきて、部屋の中に戻ろうとキッと振り返る。
その時、ふと、視界の右端で、飛んで行ったはずのブランケットが舞い戻ってきたような気がした。
はっと悲鳴をこらえ、振り返る。
そこには、戻ってきたブランケットを片手に、ぼんやりと佇む人影が居た。
月明かりの下でなお際立つ、真っ白な肌を持った人。全身を包む対照的な黒。そして青白い頬に影を落とす黒髪が、その人の存在を一層不自然なものに思わせる。
「中に入ればいいのに」
庭のほうを見つめながら、彼は言った。
「眠れなくて」
とっさに返すが、あまりに小声で聞こえなかったらしい。
「ね…眠れ、なくて」
眉を顰められ、もう一度声を出す。
「そう」
隙間風のように擦れた声を、今度は聞きとめてくれたらしい。
短い返事をし、彼はブランケットを差し出した。受け取る手が震えたが、かちこちに固まった腕を伸ばして何とか掴む。
手を離され、ブランケットの重みがずしりと片手に乗りかかった。思わず落としそうになり、慌てて両手でかき集める。
彼が何か合図をした。人差し指を、すっと右肩から左肩に切る。羽織れば、という仕草に見えた。
少しの草を織り込んできた布を、慌てて体に巻きつける。優雅さの欠片もない、まるで春巻きのような姿になったが、頭が煮え切って恰好など考えてもいられなかった。
あの人が、私の側にいる。こんなに、触れられそうなほど側に。
「散歩をするには、時間が早いんじゃないの」
ふと、張り詰めた静寂を破り、彼がぽつりと会話を作った。
はっと顔を上げ、何か言おうと口を動かす。しかし出てくるのは丸く切れた吐息ばかり。
やっと声になって出た言葉は、錆びたゼンマイのようなか細いものだった。
「あの…月が…月が本当に…き…きれ…綺麗で…」
「そうだね」
吐息が吐きだされる。霧のようにすっと広がってすぐに消え、まるで彼自身を現しているようだった。
しかし、その呼吸ひとつが彼が本当に現世を生きるものだという証。自分と同じ人間だということに、ほっと息をつく。
「幽霊か…何かかと思った」
遠くを見つめたまま、彼が唐突に呟く。
何のことを言っているのかと視線の先を追い、自分のことを言っているのだと気づいた時には、心臓が暴走していた。
ずっと見られていたのだ。ブランケットに乗って空を飛んでいく、ここから飛び降りてやると、ばかばかしい妄想を広げていた自分を。
思わずこけた頬を触る。そんなに恐ろしい顔をしていたのだろうか。

「ここから出たい?」

不意に、彼の視線が自分に向いたのを感じた。
まるで矢に射抜かれたようにビクリと体が固まり、呼吸さえできなくなる。
なにか言わなくちゃ。でも何て言えばいいの?
緊張のあまり唇が震え、奥歯が鳴る。
なにか言わなくちゃ。答えなくちゃ。でもあの視線がこちらを見るたびに、胸がはじけそうに狂い出す。
顔が、頭が燃え上がる。たった一言が言えなかった。


連れていって。

ここから出して。


唇を震わせる私に、彼は一言返事をした。


「おやすみ」

そして彼は居なくなった。
いつも通りに、まるで風に吹き消された幻のように。
毛布にくるまったまま、私はその残像に答えを零す。


連れていって ここから出して

あなたの腕の中なら 月夜に羽ばたける気がするの


涙が頬を伝っていく。

金色にきらめく水滴だけが、檻の外へ羽ばたいて行った。






愛という作りつけの水場から離れられない臆病なカナリア。
それが彼女のイメージ。
檻の外に寄りかかってきまぐれに誘惑していく黒ネコ。
それが彼のイメージ。

twitterお題より、「恋する乙女に3のお題」…みたいなので出たお題の中のひとつより。
「ROI++」に登場するアリスのお話でした。

***霞ひのゆ


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