「だいじょうぶだよ」 ∵
「あらあら」
蛇だ。滑らかな体をくねらせて、庭を横切っていく。
とても立派な蛇だった。黒みがかった緑のうろこが太陽の下で輝き、とても力強い七色を浮かび上がらせる。
枯葉掃除をしていた手を止めて、つい蛇のほうへ駆け寄っていった。
スカートの端を地面に着かぬよう膝の裏へ折って、じっくりと珍客を眺める。
本当に立派な蛇だ。剥製や薬漬けにしたらそれなりに値がつくだろう。生きたまま飼うと言い出す者もいるかもしれない。皮を剥いで小物を作ってもいい。
蛇は私のことなど全く気にしないで、自分は自分の道をゆくとばかりに、進行方向へ体をくねらせる。
しかし、このままでは屋敷のほうへ入っていってしまう。早く対処法を決めて、追い出すかしなければ。
「おやおや」
その時、背後から柔らかな声がした。さくりさくりと落ち葉を踏み、屋敷の主人がやってくる。
「何をやっているんだい?」
問いかけられたが、答えるまでもなかった。
蛇は屋敷のほうへ真っ直ぐに、つまり屋敷の主人のほうへ真っ直ぐに、私の横を通って順調に前進する。
一時、その柔和な微笑みが凍り付いた。ぞっと毛が逆立ったのは触れずともわかったし、見開いたディープ・ブルーの瞳は一瞬意識を失っていた。
は、ととっさに身を乗り出した。幸い手にはまだホウキを持っている。
振り払うか叩きつけるか。一瞬の迷いのうちのことだった。
さっと私の手からホウキが消えた。気付けば屋敷の主人が蒼白したままホウキを奪い、蛇に向かって柄をかまえていた。
「だいじょうぶ、だいじょうぶだから、ね」
そして私にそう言いながら、にっこりと微笑む。
しかしかなり無理のある様子だ。
「大丈夫ですから。どうぞ私に任せてください」
そう言ったが、まるで聞こえていないようだった。引きつった笑顔を貼り付けて、奥歯をカチカチ鳴らしながら、屋敷の主人自ら珍客にご退席を願う。
ホウキの柄でわき腹をチョンとつつかれて、蛇はよりいっそう体をくねらせて進行方向を変更した。
すさまじい動きで逆方向へ戻っていく蛇を見て、つついていたホウキがビクッと跳び上がる。
蛇が一目散に私のほうへ向かってくる。この際素手で首根をつかまえて、外に放り投げてしまおう。
スカートの端をまとめて体を屈めた時、目の前を蛇が飛んでいった。
翼を持たぬ蛇は、ホウキの柄によって一瞬の浮遊力を与えられ、まるで空を翔けるように体をくねらせながら、生け垣を越えて屋敷の外へ飛んでいった。
「あらあら」
すぐ外は馬車や人の行き交う公道だ。生け垣に引っ掛かったり踏まれたりしないで、生き延びてくれればいいのだが。
「ほら、もう大丈夫だよ」
その時、蛇の飛んでいった空を眺めていた私に、屋敷の主人はほっと息をつきながら微笑んだ。
今度の微笑みは、いつもの穏やかな表情だ。冷や汗を拭い、晴れ晴れと空を見上げる。
「私はついに魔法が使えるようになったかな。蛇が空を飛んでいった」
もしかしたらティンカー・ベルになれたかもしれない、とふざけながら、妖精が粉を振り撒く真似をする。
私は可笑しくなってくすっと笑い、そうだったらとっても素敵です、と返した。
なんだ、信じていないね? そんなふうに片眉を上げて、屋敷の主人はふいにホウキを前に突き出した。
まぁ見ていなさい、とでも言いたげにウインク。そしてホウキを地面と水平にして持つ。
次の瞬間、ホウキを持っていた両手を、パッと離した。
それでもホウキは落ちなかった。地面に転がることなく水平に浮かんだまま、たった今“妖精”になった屋敷の主人とメイドの目の前で、小刻みに震えながら空中に留まっている。
私は思わず目を輝かせ、拍手喝采する。ありったけの力を込めて両手を叩いた。
しかし、小刻みに震えているのは屋敷の主人のほうだった。よく見れば、両手の親指二本だけで上手くホウキを支えた、まやかしの魔法だとわかった。
パッと手を離したとき、一瞬落ちたように見せたのもトリックのひとつであり、うまくバランスを取り直すためのコツだろう。知らずにハッとした私を見て、嬉しそうな様子だったのはそのためだ。
それでも私は拍手を続けた。その反応に満足し、指にも限界が来たところで、屋敷の主人ことティンカー・ベルはさりげなくホウキを下ろし、まるで劇団員がやるような大げさな礼をした。
私もスカートの端を持ち上げて、同じように礼を返す。この時ばかりは、道で暮らしていたときにたまたま盗み見た、貴族の令嬢がやるような仕草を真似させてもらった。
メイドと主人が視線を交わし、ニコリと笑い合う。こんなことができるのは、きっとこの屋敷だけだろう。
「では、お客様にご退席いただいたところで…そろそろお茶にしようか」
「はい」
歩き出した主人の後を、数歩遅れてメイドは歩く。
目を伏せたりそっと道の脇に寄ったりと、「使用人は主人をじろじろ見るものではない」という規則も気にすることなく、先を行く大きな背中をじっと見つめて追いかける。
伯爵さま、私、蛇などぜんぜん怖くないのですよ。昔散々、捕まえて売ったり捌いたりしましたから。
皮を剥ぐことだってできるのですよ。牙から毒を抜く方法もわかるし、その毒や皮が、いくらぐらいで売れるかもわかるのですよ。
それなのに、私が蛇に怯えてると思い、助けて下さったのですか?
私を、良家のお嬢様や貴族のご令嬢のように、か弱く守るべき存在として、見て下さったのでしょうか?
――嬉しいです。
伯爵さまがお怪我をなさらなかったこと、とても嬉しいです。
毎日伯爵さまのお側で働けることも、とても嬉しいのです。
そして毎日その背中を追いかけられること、
とても、とても、幸せなのです。
引きつった「だいじょうぶだよ」
まやかしの魔法を使う屋敷の主人とたくましきメイドの娘。
へたすれば父子ほどに歳の離れた二人。
幼い乙女心に芽生えるのは、親への愛情か、小さな恋か。
twitterお題より、「恋する乙女に3のお題」…みたいなので出たお題の中のひとつより。
「紅茶伯爵」に登場するニルギリのお話でした。
***霞ひのゆ
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